第54話 パーソナル・モビリティー

 読者の生きている時代には、既にカーナビが実用化されているはずだ。衝突安全装置とか言う、車載カメラで絶えず障害物を警戒し、イザとなればブレーキを掛ける仕組みも実用化されつつあると思う。未来の技術として自動運転車なんて存在がマスメディアに度々登場し始めた。そんな時代のはずだ。

 今から語る物語は、それらの技術が既に実用化し、お決まりの小型化も追求されて、すっかり定着した時代の風景だ。

 登場する新技術の産物は、一見すると、読者の時代に別の用途で見慣れた道具に良く似ている。それは、トレーニングジムで目にするランニング・マシーンだ。

 そのランニング・マシーンに、四つの直径25㎝程度の車輪を付ける。乗用車と同じく、前輪は左右に同時可動し、方向転換が可能である。動力は100%電池。電気自動車の小型版と考えて欲しい。

 走行スピードは原付バイクと同じくらいで、法定速度の時速40㎞で走行可能だ。

 交差点で右折したり左折したりする際、搭乗者が振り落とされては大変なので、ランニング・マシーンの前部には逆U字型の枠が取り付けられ、枠の上辺の両端から搭乗者の腰回りに2本の命綱が伸びている。

 命綱は、シートベルトの様に伸縮自由なので、搭乗者の動きを邪魔しない。但し、急激に左右の命綱が違う伸び縮みをするとロックが掛かり、搭乗者の落伍事故を防止する。

 枠の中央には着脱式のタブレットが据え付けられている。自動運転するのでハンドルは付いていない。

 タブレットはカーナビの地図にもなれば、映像受像機にもなる。インターネットに接続しても良いし、業務資料を作成しても構わない。

 勿論、ランニング・マシーンとしての機能も残存している。床面の無限ベルトの上を左右の足で交互に踏めば、有酸素運動が可能だ。散歩から競歩、ランニングから陸上競技並みの速度まで、好きなスピードで走り込む事が出来る。

 我々は、この移動手段を「パーソナル・モビリティー」と呼んでいる。


 濃淡はあるが、中国以外の世界中でパーソナル・モビリティーは愛用されている。傾向的には、交通渋滞の激しい大都市圏で普及の度合いが強い。


 具体的な使用事例については、東京を事例に説明しよう。

 通勤手段としての使用例が最も多い。

 殆どの通勤者はスポーツウェアを着用し、パーソナル・モビリティーの上でランニングをしている。実際は時速10㎞程度のスピードで走っているのに、周囲の風景は時速40㎞で過ぎ去っていく。ちょっと儲かったような、ツーリングの爽快感を味わえると言うので、好評である。

 信号待ちの場合は、走る苦労の割に周囲の光景が動かなくなってしまうのだが、気にする者は居ないようだ。

 勤務先に到着すると、パーソナル・モビリティーを折り畳む。

 台車をイメージして欲しい。逆U字の枠を底面のベルトに付ける。その底面を90度、起こす。前輪の半分は四角いベルト部分より前に飛び出ているので、キャスター付きバッグみたいになる。

 縦80㎝、横50㎝くらいなので、旅行用トランクよりは少し大き目だが、引き延ばせる逆U字の枠を取っ手替わりに握れば、大して苦労せずに動かせる。

 エレベーターに載せ、自分の職場まで持ち運ぶ。男女更衣室と共に、パーソナル・モビリティーの駐機室を備えるのが、オフィスビルの一般的な仕様だ。駐機室と聞けば身構えてしまうが、大き目の旅行用トランクを並べるのと大差無いので、懸念する程には占有スペースが大きくない。

 男女更衣室と言ったが、男性は会社でスーツに着替えるのが当たり前になっている。都心のコンビニがクリーニング窓口サービスを展開しているので、全く問題無い。

 女性も更衣室で着替えて構わないが、制服の無い会社に勤務していれば、スポーツウェアのままで机に座る女性も多い。ブラウスにスカート姿なんかに比べると肌の露出度が大きいので、男性陣も文句を言わない。

 流石さすがにシャワー室まで準備するオフィスビルは稀なので、身嗜みだしなみを気にする女性は諦めて電車通勤を続けている。ベルト面に座って通勤すれば汗を掻かないが、風で髪型は乱れるので、電車通勤に戻るようだ。

 話が逸れるが、痴漢犯罪、或いは痴漢冤罪防止の為、女性専用列車が全車輛の半分を占めている。

 陽が沈み、接待の時間帯になると、再びスポーツウェアに着替え、宴会場に移動する。接待する方も、接待される方も同じである。

 帰宅時に楽だからである。経費でタクシー代を落とせる会社は少なくなっている。乗り過ごさないかと緊張して電車に乗るよりは、パーソナル・モビリティーに座り込み、振り落とされない程度に微睡まどろんでいる方が絶対に楽だ。自宅を目的地にセットしてしまえば済むのだから。

 何となく、酩酊するまで深酒する人は減っているようだ。スポーツウェアに深酒は似合わない。似合うのは、ヨレヨレのスーツにワイシャツ、鉢巻代わりにネクタイを巻いた姿だろう。

 銀座の歓楽街でも、着物姿に混じって、ハイレグ姿の女の子を多く目にするようになった。何処であっても肌の露出が多い服装は、男性諸氏には大歓迎である。聞いた話では、嫌な客とは、肌を密着させるチークダンスではなく、動きの激しいディスコダンスに付き合わせ、早く酔わせて追い出すそうである。

 勤務先の会社としても、パーソナル・モビリティーの使用を社員に推奨している。耐久性を考慮すれば、通勤定期代を支給するよりも安上がりだからだ。また、生活習慣病の予防効果に気付いた政府が補助金を出し始めた効果も大きい。

 結果、男性会社員の殆ど、女性会社員の3割程度はパーソナル・モビリティーに鞍替えした。

 当然ながら、通勤時間帯の道路にはパーソナル・モビリティーが溢れ返る。

 一車線に横2列で連なっているので、乗用車やトラックが追い抜くのは不可能である。だから、物流関係の業務車両は午前9時以前の移動を控えるようになった。夕方6時から夜8時の時間帯も出来る限り避けるようになった。

 悲喜交々ひきこもごもだが、総体的に判断すれば、パーソナル・モビリティーは社会に良い影響を与えている。地球に優しいと言うイメージも国民の間に定着している。

 但し、雨の日には、利用者の数がグっと激減する。

 パーソナル・モビリティー自体は完璧な防水性能を備えていたが、搭乗者の方は雨合羽を着込み、傘を差す必要がある。雨の対策に手を抜けば、濡れた身体を走行中の向かい風で冷やす羽目に陥る。台風の際は、搭乗自体が危険である。

 だから、電車のダイヤは4区分に分けられている。読者の時代には、平日用と日祝日用の2通りだと思う。私の時代では、其々に降水確率50%以上と50%未満の区分が加わり、4区分となっている。

 前夜の天気予報次第で当日のダイヤが変わるのだが、そんな慌ただしいダイヤ変更にも鉄道会社は難なく対応している。IT技術やら何やらが進歩しているのだろう。私は門外漢なので、そっちは詳しく知らない。


 尚、先に中国では大して愛用されていないと言ったが、理由は大気汚染である。

 北京や上海などの大都市に住む市民は酷い交通渋滞に悩まされていたが、息苦しい空気の中で移動時間を過ごそうとは思わなかったのだ。自家用車や電車の中で移動時間を過ごした方が、たとえ余計な時間を浪費しようとも、過ごし易かったのだ。

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