第53話 透き通る海

 半世紀も前には既に、納豆のネバネバ成分から製造した水質浄化剤や、土壌細菌を活用した水質浄化剤が産声を上げていた。世界人口の増加に伴って飲料水の確保は喫緊の課題になっていたし、開発途上国の生活環境改善に対する国際世論の関心も高まりつつあったからだ。

 それらの複数のシーズを寄せ集め、中国が画期的な水質浄化剤を開発しつつあった。幾つもの生薬を組み合わせる漢方薬を発明した民族だけあって、天然成分をコーディネートするセンスに長けていたからだ。

 但し、そのスポンサーは、人民解放軍。

 息の長い研究開発に資金を投入し続けられる組織は、軍隊しか有り得ない。

――水質浄化剤を支援し続けた人民解放軍の目論見は何か?

 アメリカの潜水艦対策であった。

 この時代において、米中の潜水艦能力は、その静穏性と言う点で決定的な優劣が生じていた。

 潜水艦はスクリューの回転音を完全には排除できない。だから、敵潜水艦のスクリュー音をキャッチして、その位置を捕捉する。

 アメリカ海軍の潜水艦のスクリューは、航空機産業の風洞実験ノウハウを注ぎ込んで流体力学を極めたデザインであったし、回転部分のベアリングは自動車メーカーに鍛えられた日系企業の産物であった。

 一方の人民解放軍の潜水艦は中々騒音を減らせないでいた。地道な鍛錬を避け、手っ取り早い金儲けに走る中国人の性格が災いして、精密な建造部品の造り込みが上手く行かなかったからだ。

 その結果、アメリカ海軍には人民解放軍の潜水艦の位置が丸裸となる反面、人民解放軍はアメリカ海軍の潜水艦を捕捉できないと言う圧倒的に不利な状態に甘んじていた。

――だったら、アメリカ海軍の潜水艦を、海上から観察できるようにすれば良いではないか!

――そのために、海水の濁りを排除し、透明度を上げて遣る。そうすれば、偵察衛星でアメリカ海軍の潜水艦を監視できる。

 逆転の発想だった。如何にも中華帝国らしい、大胆で大味な発想だが、悪くない着眼だ。


 こうして、中国政府は海水の浄化活動に没頭した。

 海洋を綺麗にする行為に文句を言う者は居ない。ただ、中国政府が国際社会の為に行動を起こしたと言う点に、国際世論は瞠目した。胡散臭さを感じたが、それを阻止しようとはしない。建前上は善行だから。


 潜水艦の航行深度は通常3,000m前後である。

 中国政府は大掛かりな海水浄化活動を展開したが、地球上の海水は海流に乗ってグルグルと巡回しており、中国沿岸の海域だけに限定して浄化する事は出来ない。

 徐々に確実に海水は浄化されて行ったが、それは全世界の海面近くの浅い部分から。


 まずは遠浅の海から海が綺麗になった。

 最も影響が大きかった海域は、タイからベトナムに掛けてのインドシナ半島周辺。

 タイの事例で説明すると、読者の時代では、プーケットやクラビ、サムイ島などではエメラルド色の綺麗な海を拝めたが、同じ観光地でもパタヤ辺りだと海の色がエメラルド色とは言えなかったと思う。

 ところが、中国政府の御陰でパタヤも文句無しのリゾート地になった。パタヤに限らず、タイランド湾に面した全ての海岸線がリゾート地と言って良い場所に変身した。

 ベトナムの海岸沿いも然りである。南シナ海の領有権で周辺諸国と睨み合った中国であるが、今や全ての周辺諸国が中国に感謝している。


 次に水深200m程度の大陸棚までも海底を覗けるようになった。勿論、肉眼で200m先の海底を見ることは不可能だが、望遠鏡を下に向ければ海底を観察できる。

 リゾート観光地のレジャーで、ホエール・ウォッチングならぬ、ボトム・ウォッチングが流行り始めた。

 ところが、最初は不評だった。

 何故なら、水深200mの海底は土砂が剥き出しである。見るべき物は無い。替りに、見たくない物が散在していた。

 ゴミである。

 人々は手っ取り早い投棄先として、何でもかんでも海に投げ捨てていたのだ。自然に分解し辛いプラスチック製品を主体に、大量のゴミが海底には溜まっていたのだ。

 今までは見えなかったから問題にならなかったが、誰が海底のゴミを回収すべきか?――と言う、新たな国際問題が浮上しかけた。

 今はゴミでも、以前はれっきとした製品だったのだから、商品名なり、部品説明の言葉なり、消費国の言語が刻印されている。望遠鏡で確認すれば、ゴミを回収すべき国家は明白である。

 でも、そんな動きは長続きしなかった。

 海底を望遠鏡越しに眺められると言う事は、日光が海底まで届き始めたと言う事でもある。不毛の地であった大陸棚には海藻が生い茂るようになり、ゴミの姿を再び覆い隠したのだ。

 だから、ボトム・ウォッチングが流行り始めた。


 ちなみに、海水浄化の効果に気を良くした中国政府は、海よりも自国の大河を浄化する方が先ではないかと、思案した時期がある。

 黄色く濁った黄河や長江を綺麗に浄化すれば、中国人民の生活が豊かになる。其処で獲れる淡水魚も汚染物質を浴びないのだから、中国人民の食の安全性も改善する。

 そう考えたのだが、海底でのゴミの存在が露呈すると分かったので、大河の浄化を取り止めた。中国人民が大量に放り込んだゴミが大河に押し流され、大陸棚に沈殿している事が容易に想像できたからだ。

 だから、今以ってしても、黄河や長江は土砂混じりの黄色い水を東シナ海に流し続けている。


 中国政府の海水浄化活動は延々と続き、ようやく、潜水艦深度の3,000mまで透き通るような海水となった。

 ところが、地球上の海洋の大半は水深6,000m程度である。

 アメリカ海軍の潜水艦は、潜航深度を下げれば、今まで通りの隠密活動を継続する事ができた。

 歯噛みした中国政府の努力は更に続く。


 そして到頭、中国共産党の超長期的な目論見は成就する。

 地球上の殆どの海域で海底を覗けるようになった。日本海溝などの極端に水深の深い海域でなければ、偵察衛星で観察する事が可能である。

 ところが、この状況変化は軍事的に何ら意味を為さない事が判明する。


 戦略核兵器を搭載したアメリカ海軍の潜水艦は、黄河や長江の流す泥水の中に身を隠すようになった。

 日本の小さな河川と違い、黄河や長江が吐き出す泥水は極めて広範囲に広がっている。アメリカ海軍の潜水艦の位置を特定して、人民解放軍が攻撃を仕掛ける事は不可能だった。

 また、潜水艦同士の迎撃戦に突入した場合、リアル情報ではない偵察衛星の情報は、アメリカ海軍の潜水艦の大凡の位置を知るには重宝した。

 それでも、アメリカ海軍の潜水艦に止めを刺すには、魚雷を当てなければならない。しかも、人民解放軍の潜水艦が急行する頃には、アメリカ海軍の潜水艦だって移動している。

 戦場で対峙して以降、敵の位置を精密に探り合わねばならないのだ。

 ところが、何mの深度に敵が存在するのか? 偵察衛星の情報では判然としなかった。だから、潜水艦の静穏性が勝敗を左右する事情には変わりが無かったのである。

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