第50話 デスほどトロイヤー

 マグロ。

 マグロの適度に脂の乗った部位は「トロ」と呼ばれ、日本人の好む刺身の材料である。

 この短編タイトルの「デスほどトロイヤー」とは、そんなトロが死ぬほど嫌に成ったと言う物悲しい逸話を踏まえ、後年、「デスほどトロイヤー」との俗称が着いたマグロの物語である。

 勿論、戦後の高度成長期に勇名を馳せたプロレスラーの名前をモジった日本人が命名者であった。


 日本では、マグロは縄文時代から食されている古い食材だが、腐りやすいので長らく下衆魚げすざかなであった。江戸時代に醤油漬けの加工法が発明され、幾分は普及したのだが、真面な魚と認識されるには至らない。

 明治時代に生まれ、戦後の昭和時代までを生きた北大路魯山人は「下手物げてもののマグロは一流の食通を満足させる食材ではない」と、マグロを切って捨てている。

 だが、冷蔵技術や冷凍技術が発展すると、食材としての位置付けが違ってくる。

 クロマグロやキハダマグロ、メバチマグロ等、幾つかの種類が有るが、中でもクロマグロは最高級品である。その黒いダイヤとも呼ばれるクロマグロはもっぱら刺身や寿司として食され、シーチキン等には加工されない。

 古来からの肉よりは魚を嗜好した食文化と、先進国として冷凍冷蔵技術が普及した事から、第二次世界大戦以降の1世紀弱の期間、マグロを食する民族は日本人だけと言っても過言ではない状態が続いた。

 だが、旨い食材ならば、国境を越えて幾多の民族が食指を動かす。グローバル化が進めば、避けようの無い事実だった。世界的な日本食の普及に伴い、美味なクロマグロの魅力に気付いた民族は増えて行った。

 その最たる民族が中国人であった。

 中国人の全員が金持ちだとは言わないが、中国人の1割は日本人口に匹敵する。金持ちとなった彼らがクロマグロを買い求めたので、庶民だと自認する大半の日本人はクロマグロを口に出来なくなった。

 自明の事だが、美味な食材は高価となる。需要と供給のバランスが逼迫し、価格が上昇するのは経済学のイロハである。


 一次産品省傘下の水産試験場では1つの極秘プロジェクトが進んでいた。

「例の魚種開発、そろそろ実用化できそうなんだろう?」

 所長が研究員達に進捗を尋ねる。

「大丈夫です。優勢遺伝子化にも目途が着きましたから、日本の漁業は大きく変わります」

「そうか! でかしたぞ。これで赤を白に変えられるな」

 水産試験場での遣り取りなので、ワインの話ではない。マグロの話である。

 赤身のマグロを白身のマグロに変える試みが続けられていた。

 マグロが赤身なのは、筋肉組織に大量のミオグロビンを含んでいるからだ。ミオグロビンの機能は酸素の貯蔵である。血中のヘモグロビンが筋肉組織に供給する酸素だけでは不足する場合、ミオグロビンが酸素を追加供給する。

 大量の酸素を必要とする哺乳類の筋肉には一般的にミオグロビンが含まれており、一様に赤い。

 イルカやクジラ、アザラシなどの哺乳類に加えて、一部の運動量の激しい魚類の筋肉にもミオグロビンが含まれおり、そんな魚類は赤身である。回遊魚に赤身の魚が多い理由は、そう言う事なのだ。

 このミオグロビンをクロマグロに限っては除去してしまう。体内でミオグロビンを生成できなくしてしまおう。そう言うテーマで水産試験場の研究が進んでいた。

 研究を始めた動機はマグロの養殖と関係が有る。

 皮膚の弱いマグロは、養殖漁網に接触して皮膚を傷付けると、直ぐに死んでしまう。更に、ミオグロビンが大量の酸素を筋肉に供給するものだから、瞬時に猛スピードで泳ぎ始める。だからこそ漁網に衝突してしまうのだが、広い大海原で育つ分には問題の無い習性が、養殖となれば厄介な習性として障害になる。

 だから、マグロからミオグロビンを排除して瞬発力を奪ってしまえば、養殖の歩留が改善すると目論んだのだ。

 研究を進めていく内に、或る副次的効果にも気付いた。

 ミオグロビンを排除すると、タイやヒラメの様に白身魚になる。すると、中国人のマグロに対する執着が薄れる事に気付いたのだ。

 中国人にとって「赤」は特別な色である。御目出度い色なのだ。国家を象徴する色でもある。

 新婦の全員が「赤」のウィディングドレスを着用するとは言わないが、絶対に「白」ではない。「白」は葬式の色であり、日本で買った白い御祝儀袋を使おうものなら追い返される。

 勿論、中国人だって白身魚を食するが、それは庶民の食材として他の選択肢が無いからだ。もし、マグロが「白」くなれば、晴れ舞台での食材としてはカツオや鮭の方に箸を動かすだろう。少なくとも、日本人庶民の食卓に再びマグロの刺身が載り易くなる。

 シロマグロが商品化されると、養殖マグロは全て白身となった。養殖場だけでなく、太平洋の天然漁場で獲れるマグロもシロマグロとなった。

 なお、便宜上、シロマグロと記載したが、クロマグロの呼称は黒い体表に由来しており、引き続きクロマグロと呼ばれ続けている。


 さて、その白いクロマグロが優勢となった数十年後、中国政府が日本人への仕返しを開始する。

 政府レベルでの崇高な思考で表現するならば、食の安全保障で攻撃を受けたのだから報復すべし、と言う事になる。

 中国政府は人民の代表なので、人民レベルの素直な感想を伝えるならば、

「憎き日本人め! 我が人民からマグロのトロを食する楽しみを奪いおって!

 食い物の恨みは根深いからな。覚えているが良い」

 と言う事になる。いずれにしろ、目には目を、歯には歯を、であった。

 その中国政府が報復として開発した遺伝子操作は、白いクロマグロに臭みを着ける事であった。

 

 川魚には独特の臭みが有る。

 苔臭いと言うか、雨が降った後の土臭いと言うか、泥臭いと言うか。近畿大学がウナギ代替品の養殖ナマズの開発で苦労した点の1つは、この臭みを除去する事である。

 その原因は、藍藻類が発生するゲオスミン、或いはメチルイソボルネオールと言う有機化合物。河川の水中に漂っているゲオスミンなどの有機化合物が淡水魚の血中に蓄積されるのだ。

 余程の清流か、流れの速い水域に棲む淡水魚でないと、臭いに敏感な日本人は食べられない。この臭いに対する日本人の嗅覚は非常に敏感で、僅かに有機化合物を含んだ水道水でさえ顔をしかめて口にしない。

 ところが、中国で河川と言えば、流速の遅い大河川である。黄河や長江の様に、透明な水ではなく、土の成分が浮遊して茶色や黄色の水の流れる河川こそが中国の河川である。

 当然の事ながら、そこで捕れる魚は川臭い。その川臭い魚を食べ慣れた中国人は全く気にしない。

 海中にも微妙にゲオスミンなどの有機化合物は浮遊している。但し、ケタ違いに微妙な濃度なので、海水魚の血中に蓄積される事なく、普通の生理現象の中で血中から排出される。

 その機能を完全に麻痺させ、ゲオスミンなどの有機化合物を全く排出できなくしてやろう、と言う遺伝子操作の開発が中国政府の報復であった。


 こうして、臭くて白いクロマグロが太平洋に溢れた。

 漁網の中で養殖されている白いクロマグロは隔離されて無事の様に思うだろうが、そんな事はない。

 引き続き大半のクロマグロは暖流に乗って回遊していたが、ミオグロビンと共に瞬発力を失ったので、近海に潜んでタイの様な生態に転じるクロマグロも出現していた。

 大洋でイワシの大群なんかを追い求めるよりは、近海魚を襲った方が食いっ逸れが少ないからだ。

 そう言う、或る意味、賢いクロマグロがジワジワと繁殖し、日本の養殖生簀の周辺でも目にするように成った。

 養殖魚と天然魚とは漁網で隔てられただけであり、天然魚の雄が養殖魚の雌に精子を放つ可能性がゼロとは言い切れない。ジワジワと養殖の白いクロマグロも臭くなっていった。


 この報復合戦に勝者は居ない。日本人と中国人の双方が指を咥えてクロマグロを眺める事になった。正確には見向きもしなくなった。当然、クロマグロの養殖でも廃業が相次いだ。

 いや。正確には勝者が居た。

 クロマグロである。

 人間の都合で身体を改造されたクロマグロは、人間に捕食される事が無くなったので、再び食物連鎖の頂点に君臨した。今や悠々自適の暮らしを海中で送っている。

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