第49話 香しい屁
物の本に依ると、ブっと音を伴うものを“おなら”、無音のものを“屁”と称するようである。
この物語は“屁”に関する物語である。
屁の正体は大腸に溜まったガスだが、そのガスにも色々ある。
まず、芋などの食物繊維を多く含んだ食物が大腸内の乳酸菌に分解されると、大量のガスが発生する。でも、それは無臭の水素やメタンだ。
或る医薬品メーカーが『
そのコンセプトは、大腸内で、硫黄化合物を減らし、代わりに天然の芳香剤を
香屁剤は繊維質で出来たカプセルだ。食物繊維を分解する酵素は大腸にしか存在しないため、胃や小腸を素通りする。
カプセルの中には、極細の銅繊維と芳香剤が入っている。
銅は、銀と並んで、硫黄と結合し易い。硫化水素の発生し易い温泉に入る際、銀や銅を使った装飾品を外すように言われる理由は、この特性に依る。つまり、錆びたり腐食したりする。
硫黄を分離してしまえば、臭いの元となるガスは無臭の水素や二酸化炭素になる。
銀を使用しない理由は2つ有る。1つ目は高価だから。2つ目は銀に殺菌効果が有るから。大腸菌を殺してしまっては、もう医薬品とは言えなくなる。
また、芳香剤についてだが、トイレの芳香剤とは全く違う。
香水に近い。微かに甘く、そしてセクシーな感じ。
言葉では表現し辛いが、空港の免税店に並んでいるブランド物の香水を思い浮かべて欲しい。
この芳香剤はジェル状なので、その芳香効果は割と持続するのだが、香屁剤は毎日服用しなければならない。
何故か?
便と一緒に排出されるからである。だから、便秘気味の方は毎日でなくても構わない。
さて、この香屁剤は女性を中心に爆発的な売れ行きを見せた。女子中学生から老婆まで。
愛用する男性は少なかった。元々、放屁と言う行為に罪悪感や
香屁剤の御陰で、女性は大胆に放屁行為を行うように成ったが、“おなら”ではなく、“屁”をこくように努めた。一気にガスを放出させる事なく、シュッ、シュッ、シューと小刻みに
臭いを恥じるからこそ香屁剤を服用するのである。放屁音を恥ずかしがらないはずが無い。
それが現代女性の
満員の通勤電車の中では、何となく甘美な香りが漂うようになった。或る種の女性フォルモンで満ちていると言っても構わない。
だが、その香りの発生源は分からない。
あの吊り革につかまっている女子高生が放っているのだろうか? この芳香には何かエネルギッシュなものを感じる・・・・・・。
或いは、あちらでドアに押し付けられている若いOLが放っているのだろうか? どこか服装も妖艶な感じがする・・・・・・。
正解は、直ぐ後ろで立っている初老のOLだったのだが、男の妄想は止まらない。
通勤電車の中では、半折りにした新聞を読むか、人混みの中に立って吊り広告に目を走らせるしかない。そんな時にフっと甘美な香りが鼻腔をくすぐったならば、妄想するなと言う方が無理である。
電車の中で男性が放屁する事もある。男性の屁は今まで通りに臭い。
そう言う時は、チッと言う舌打ちが周囲で幾つも聞こえるように成った。以前は同乗者の放屁に顔をしかめる事は有っても、舌打ちまではしなかった。
――折角、今まで楽しい妄想を楽しんでいたのに、何処かの馬鹿が台無しにしやがって!
中立の状態から不快な状態に落ちるのではなく、快楽状態から不快な状態に落ちるので、同性と
また、この香屁剤の副次的効果として、痴漢行為を働く男が増えた。妄想だけに留まらず、手を出してしまう男性だって、世には多く存在する。
痴漢に尻を触られる事に快感を感じる女性は滅多に居ないので、そう言う女性は女性専用列車に避難した。だから、1本の列車当たりの女性専用車両は3輌に増えた。ニーズ次第でもっと増やそうと、鉄道会社は考えている。
この女性専用車。通勤ラッシュの落ち着いた午前9時になると、男性も乗車できるように成る。
その時間帯に男性が乗り込むと、開いたドアから流れ出る強烈な芳香に頭がクラクラとする。1人の芳香屁でさえ男性をとろけさせるのに、何人もの芳香屁が充満し、娼婦館の様に魅惑的な空気を漂わせている。
自ずと、9時過ぎの女性専用車に乗り込む事を趣味とする男性が、少なからず現れた。
出勤時間に遅刻するのでは? と他人事ながら心配には成るが、その気持ちが理解できなくもない。
鉄道会社の方でも、この現象には密かに気付いていた。防犯カメラを通じて常習者の顔写真リストを作成し、痴漢予防に役立てていた。
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