第46話 煙(えん)トゲン
皆さんは健康診断でレントゲンの被写体となった経験をお持ちだと思う。
レントゲンとは、X線照射装置と感光板の間に身体を置き、そのX線の透過度の違いによって病状を診断する道具である。骨の透過度は低いので感光せず、フィルムには白く写る。同じ様に、肺炎や腫瘍の透過度も低いので、フィルムには白く写る。
この透過度は物質により微妙に異なる。この点に着目してレントゲンを改良した装置が、煙トゲンだった。
肺胞の内面に付着したタールも固有の透過度を示す。非喫煙者の健康な肺と比べて、喫煙者の肺は相対的に白く写る。重度の喫煙者の肺は益々白く写る。
その度合いをコンピューターの画像処理ソフトで解析し、タールの付着厚みを計測したら、その肺の様子をカラー画像で表示する。
平たく言えば、開胸手術をしなくても、自分の肺の状態を画面で思い知らされるのだ。
ピンク色ではなく、黒く変色した肺を。
その画像を見た大概の喫煙者は押し黙ってしまう。
――これだけ汚れていれば、息苦しいのも納得できる。最近、直ぐに息が上がるしなあ・・・・・・。
息苦しい理由は、肺の汚れではないかもしれない。運動不足で血管が細くなり、体内での酸素供給量が減少したせいかもしれないが、十中八九、喫煙者は禁煙を決意する。
まあ。それは、それで、悪い事ではない。
当初、煙トゲンを販売する医療機器メーカーは相当に儲かった。ところが、煙トゲンの治癒効果は凄まじかった。治癒と言う表現には語弊が有るが、禁煙者が続出したので、治癒と称しても構わないだろう。
ところが、医療機器メーカーとしては悩ましい状況に直面してしまう。日本中から喫煙者が消えてしまえば、煙トゲンの販売台数は落ち込んでしまう。
「諸君! 何か打開策は無いかね? このままでは倒産してしまうぞ」
社長は部下を叱咤激励するも、妙案は浮かばない。こうして数年が過ぎた。
捨てる神有れば拾う神有り。すると新たなマーケットが見えてきた。
中国人旅行者であった。
数十年前、中国人の団体旅行者の爆買いは凄かった。その爆買いの波が通り過ぎると、イベント体験型の個人旅行者が日本を訪れるようになった。その動きは未だに続いている。
そして、現在。裕福な中国人は、日本で健康診断を受け、外科手術まで含めた様々な医療サービスを受けようと日本を訪問している。
古代から中国人の健康志向は非常に強く、食事の際でも「この食材は何々に良い」と薀蓄を傾けながら料理を楽しむ。見た目や香り、食感や味覚を楽しむだけでなく、滋養も考える貪欲な民族なのだ。
若い世代を中心に喫煙とは距離を置く中国人も増えたが、喫煙者の絶対数は桁違いに多く、その多くは自分の肺の汚染状況に気が気でない。彼らは健康診断の際に、必ずと言って良い程、煙トゲンの撮影を頼んだ。
中国人ニーズで糊口を凌いだ医療機器メーカーであったが、この煙トゲン・ブームもまた一過性に過ぎないと、わきまえていた。
それでも中国人ニーズという観点は目から鱗であったので、中国人ニーズに対応した新製品を開発した。
それは、肺に付着したPM2.5粒子を可視化する改良版だった。
元来、中国では病院で撮影したレントゲン写真を患者が持ち帰る。
病院がレントゲン写真を保管する日本とは医療文化が大きく違う。金を払った患者が写真を所有物として持ち帰る事は自然で、転院した際に改めてレントゲンを撮り直す必要も無い。極めて合理的だ。
だから、PM2.5で汚染された肺のカラー・フィルムも中国に持ち帰った。
次の来院時期を見通せない中国人患者のフィルムを10年間も保管する事は日本の病院も嫌がったので、この行動で混乱が生じた事は殆ど無い。
ところが、流石は中国人。
そのカラー・フィルムを近隣の工場に持ち込んだ中国人が居た。
「あんたん所の工場が煤煙を吐き出しているから、私の肺が汚れたのよ! 賠償しなさいよ!」
「うちの工場の煙突の責任が100%と言う事じゃないだろう?
他にも工場は有るし、自動車の排気ガスだって、影響がゼロとは言い切れないだろう?」
「でも、私んちと工場は目と鼻の先だし、最も悪い影響を与えているのは、あんたん所の工場よ!」
喧嘩腰の言い合いが繰り広げられ、ウンザリした工場側の責任者は声を落として、
「分かったよ。でも、賠償額としては、この程度しか提示できないぞ」
と、メモ紙に金額を書き込む。それを覗き込むクレーマー。
元々、小遣い稼ぎに成れば良いと思って直談判したので、賠償金を手に出来れば文句は無い。味を占めたクレーマーは「別の工場にも同じ手で乗り込んでやろう」と、クレーマー自身にとっては前向きな事を考え始めている。
「分かったわ。その金額で構わない」
「手を打とう。但し、内密にな。他にもクレーマーが押し掛けてくれば、とてもじゃないが、払い切れない」
責任者は念押しをして賠償金を支払った。騒ぎが大きくなる前に、早くクレーマーを追い払いたかったのである。
ところが・・・・・・である。他人の口に戸は立てられない。
特に中国人の場合は自分の手柄話を喧伝したがる。隣近所だけでなく、ネットでも得意気に吹聴する。
――あの人が成功したんなら、私も同じ事を遣ろう! 儲け損なうなんて馬鹿な真似は絶対にしない!」
こうして、日本に行って煙トゲン撮影をし、それをネタに工場を強請る動きが大きくなった。
動きが大きくなると、其処に商機を見出す者も現れる。
或る法律事務所がクレーマー達を組織化した。1人で踏み込むよりも、集団で踏み込んだ方が、迫力が出る。しかも、煙トゲンのフィルムを数多く集めた方が、「お前の工場を中心に肺の汚染者が多い」と指摘できる統計的な証拠となる。
これに旅行会社が加わり、「あなたも訴訟に加わりませんか? 日本への渡航費用は相手への請求額に加算すれば済むので」と新たなクレーマー集めに奔走する。
社会問題となった。これには中国政府も舌打ちした。
随時、環境対策は講じていたし、企業への環境規制も強化していた。それでも、上に法が有れば下に対策有り、の御国柄である。数十年前に比べると環境は良くなっていたが、完璧とは言い難かった。
仕方無く、付け焼刃の対症療法でお茶を濁そうとした。
「このフィルムは没収するからな」
「えっ! 何故?」
「社会騒乱の原因となるからだ」
「だって、これ、私の身体を写した写真なのよ? どういう理屈で社会騒乱に繋がるのよ?」
日本からの帰国者を、暫く無言でジっと見詰める税関職員。疾しい気持ちの有る帰国者は顔を背ける。
「・・・・・・分かったわよ。この煙トゲン写真は諦めるわよ」
小声ながら悔しさの滲み出た口調で悪態を吐く。
この様な光景が国際線の空港で相次ぎ見られるようになった。
クレーム騒ぎは一時、沈静化した。
ところが・・・・・・である。上に法が有れば下に対策有り、の御国柄である。
煙トゲン写真を日本で預かり、その画像データをネット経由で中国に電送するサービスを始めた中国人が出現した。
再びクレーム騒ぎが大きくなる。
これに対して、中国政府は画像判別ソフトを使って、煙トゲン写真の画像データをネットで開封できないように細工した。もはやテロ対策と同じ扱いであった。
そうなると、人民の怒りの矛先は中国政府に向かい始める。金銭の恨みは恐ろしいのだ。
――こんな事で大規模なデモが全国で繰り広げられるようになっては元も子もない。
――考えてみると、悪い奴は環境規制を守ろうとしない企業だ。世界の大国として国際社会から尊敬を集める為に、中国政府として環境規制を強化するのは当然の事だ。
――問題はスピードなのだ。あまりに急激に事を進めれば、企業倒産が相次いでしまう。それはそれで社会に混乱を招く。どちらの混乱が中国政府にとって望ましいか?
こういう思案を重ね、中国政府は人民の味方になる事にした。それが国是だから。
人民による環境訴訟を、中国政府は寧ろ応援するスタンスに舵を切った。
企業としては、賠償金を払うよりは環境対策に資金を投じる方が良い。儲けは減るが、それも止むを得ない。
中国に青空が戻ってきた。医療機器メーカーは三匹目のドジョウを探し始めた。
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