第41話 痒くない蚊

 蚊を好きな人は居ないだろう。

 嫌いな理由の1番は、刺されると痒いこと。他にも羽音が五月蠅いとか、病原菌を媒介するとか有るだろうが、痒いというのが1番の理由だろう。

 何故、刺されると痒くなるのだろうか?

 蚊は、人肌に着地し、その注射針のような吸い口を皮膚に刺すと、自分の唾液を挿入する。

 唾液の目的は、人間の反撃を防ぐために皮膚を麻酔し、吸引した血液の凝固を妨げることにある。自分の胃袋の中で血液が固まってしまっては元も子もないから。

 ただ、この唾液に人間はアレルギー反応を示してしまい、痒くなるのだ。

 この吸引した血液は、自分の滋養のためではなく、産み続ける卵を作るためのタンパク質として使う。蚊の一生は2週間程度に過ぎず、滋養のためなら花の蜜なんかで十分なのだ。

 だから、人間を襲うのはメスだけで、オスは襲って来ない。

 蚊の存在は公衆衛生上の重大関心事なので、長年に渡って国立衛生研究所が研究を重ねてきた。昨今では遺伝子操作技術も進み、或る日、画期的な発明に至ったのだ。


「所長。本当に痒くない蚊を培養できるのですか?」

 国会に参考人招致した国立衛生研究所長に向かい、野党議員が疑問を呈した。

「本当です。何度も実証実験を繰り返して、その事は確認が取れています」

「だが、そのために税金を投入するのですぞ。もし、痒いままだったら、どうするんですか?」

「蚊の唾液成分を変えるという、この研究成果の凄いところはですね。

 蚊の唾液機能の内、血液凝固抑制因子を破壊することなのです。

 吸引した血液が体内で固まってしまうので、蚊は死んでしまう。

 つまり、1度人間を刺した蚊は2度目を刺せないということです。

 痒みが無くなる効果は副次的なものでして、仮に痒いままだとしても、それは1回限りです」

 何とか政府提案の粗探しをしたい野党議員は、なおも食い下がる。

「悪さをした蚊が死んでしまうという点では、目出度いですな。

 ですが、良く考えてみると、最初から培養しなければ、その蚊は悪さをしないわけでしょ?

 自ら培養して、悪さをする蚊を産み出すというのは、どうも・・・・・・私の理解を超えていますな」

「血液を吸引する蚊はメスだけです。オスは元々血液を吸引しません。

 ですから、無害化したオスの蚊と、自然界のメスが交尾すれば、その子供の蚊は全て無害化されます。

 2世代目には個体数がう~んと減少します」

 所長答弁に、野党議員がニヤリとする。

「だったら、毎年毎年、培養費用を予算化しなくても構わないではないですか。

 これは予算を一度獲得したら既得権益化する官僚体質の悪弊としか思えませんな」

 所長も必死に抵抗する。

「いえいえ、先生。違うのです。

 無害化した蚊は子孫を残せません。今年のオスが越冬しても、来春の活動期が始まれば2週間以内に死んでしまいます。

 生き残った在来種が繁殖し、元の黙阿弥になってしまうでしょう。

 ですから、無害化タイプのオスを絶えず供給し続けないと、在来種を撲滅できないのです。

 天然痘を撲滅するまでの長い年月、種痘を繰り返した歴史を思い出してください。

 伝染病との戦いとは、そういうものなのです」

「だったら、オスだけを培養すれば良い。メスは無用の存在なんですからな。

 そうすれば、血税を節約できる」

「いえいえ、先生。違うのです。

 残念ながら、オスだけを産み出す技術は有りません。

 ですから、生まれてきた蚊の雌雄を選別することになるのですが、それは不可能です。

 ヒヨコの雌雄選別以上にハードルが高い。その分、余計に税金を使うことになります」

 所長の揚足取りが難しいと諦めた野党議員は、攻め処を変えた。

「経済貿易大臣。

 国立衛生研究所長の話では、蚊の撲滅を視野に入れているようだが、そうなると、国内の殺虫剤メーカーなんかが大打撃を被ってしまう。

 日本経済にとっては寧ろマイナスなんじゃないかね?」

「佐藤議員の御指摘は尤もであります。

 ですから、政府としては、無害化タイプの蚊の培養ビジネスを民間に委ねることも、鋭意検討中でございます。

 国家知的財産を競売に掛ければ、歳入の足しにもなるでしょう」

「歳入の足し云々を論じられるほど、高く売れるのかね?」

「どう民間企業が評価するか次第です。

 ですが、私個人と致しましては、輸出も視野に入るものと考えております」

「蚊を輸出するのかね? 誰が買うのかね?」

「公衆衛生への関心の高い政府機関が相手になるでしょう。

 地球温暖化に伴い、蚊の生息範囲は地球規模で広がっています。

 蚊を媒体とした病気のリスクも高まる一方です。それらの国々に毎年安定的に輸出できるのです。

 我が国の産業振興上、画期的な事だと考えております」

 既にグウの音も出ない野党議員だったが、その首筋にプ~ンという羽音と共に話題の蚊が止まり、思わずピシャリと首筋を叩いたものだから、議事堂内で大爆笑が起きた。

 こうして、無害化タイプの蚊の培養計画は国会承認された。


 10年ほど経つと、日本の都市部では殆ど蚊を見なくなった。

 コガネムシやカメムシの侵入防止のため、網戸が無くなることはなかったが、蚊取り線香や虫除けスプレーの類は、消費量が低迷したので、価格が上昇した。

 一方、ゴキブリが健在なので、殺虫剤の類は今も変わらずに売れ続けている。

 培養蚊の輸出は、日本政府がODAを供与したアフリカ地域向けに、ようやく開始された。

 冷凍保存状態の卵を水溶性の小箱に詰め、航空便で輸出されていた。軽いので小額の空輸費で済む。

 一方、船便で送ると、赤道辺りで湿気を吸って孵化する危険性があった。ただ、蚊は、35属、2,500種もいるので、商品化された種類は未だ少ない。

 アフリカに次いで期待されるのが東南アジアだが、ボウフラが居なくなると餌代が嵩むぞ! と、海老や淡水魚の養殖業者が反対している。

 養殖業者への補償と培養蚊の購入代とでダブルに金の掛かる現地政府は、少し慎重になっているが、国民の健康には替えられないだろうから、いずれ普及していくと思われる。


 すっかり馴染の薄くなった蚊であるが、外見が蚊とソックリで、大きさを1回り大きくしたガガンボは健在である。

 滅多に見ないが、遭遇する可能性はゼロではない。現物の蚊を見たことのない世代は、大きなガガンボに血を吸われると勘違いし、悲鳴を上げて逃げ惑うことになった。

 また、培養蚊が放たれた地域は人口密集地に限られる。コストと成果の兼ね合いから、日本全土で放たれたわけではない。

 つまり、地方に行けば、今まで通りに蚊が生息する。

 だから、家族旅行でキャンプなどに行くと、無防備に肌を晒し、蚊の餌食になる事例が相次いだ。

 ホテル代を節約したい気持ちも有って、キャンプに行くのだから、高価な虫刺され用の薬を携行することは稀である。

 だから、家族全員が刺された痕を掻き毟り続ける羽目になる。キャンプどころの騒ぎではなくなってしまうのだが、昔と比べれば小さな悲劇でしかない。


 更に時代が下ると、アメリカの研究機関が蚊の遺伝子を操作して、体内でペニシリンを生成させることに成功した。

 正確には、前駆体のACVトリペプチドを生合成する細菌に蚊を体内感染させ、その前駆体をペニシリンに変換する酵素を自ら作り出せるように蚊の遺伝子を操作したものだった。

 その小難しい薬学プロセスはさておき、新型の蚊に刺されるとペニシリンが人体に注入され、感染症への抵抗力を高めることが出来た。

 特に幼児に対して効果的であった。難点は、痒くない蚊の唾液成分との相性が悪く、昔の痒い蚊がベースとなってしまう。血液凝固因子も温存されるので、また際限なく産卵を繰り返すようになってしまう。

 痛し痒しであるが、選択肢が増えることは発展途上国にとっては朗報である。

 肺炎や梅毒感染の拡大抑止を視野に入れるか、マラリアや黄熱病、デング熱の発生抑止を視野に入れるかの選択である。どちらの死者数が多いかと言えば、前者である。

 公衆衛生の社会インフラの未整備な途上国において、死因のトップは、肺炎などの呼吸器系感染症と、下痢などの消化器系感染症なのだ。

 よって、該当する発展途上国向けに日本から輸出する培養蚊の商談はパッタリと止まった。

 替わりに、増えた蚊の個体数に対応して、防蚊剤を塗布した蚊帳の輸出が再開された。

 この事象は、商品開発によってビジネスが変化する好例として、先進諸国のビジネススクールで取り上げられることになった。

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