第35話 ~記憶物語~殺人隠蔽
浮間隆は、都内の某ホテルで娼婦との逢瀬を楽しんだ後、ルンルンの気分で家路に着いた。
運転中のベンツは既に3年近くも乗り回しており、そろそろ妻に買い替えをおねだりしようと、そればかりを考えて自宅への道を走らせてきた。
隆は、40歳代半ばのスポーツマン。髪の毛の所々に白髪が目立つようになってきたが、肌の美容手入れを怠らず、若々しい肌と局所的なロマンスグレーの髪の毛が、如何にも金持ちの中年男性という風貌を醸し出していた。
だから、今日は娼婦が相手だったが、スポーツジムや銀座ギャラリーの個展で知り合った素人女性との逢瀬も、結構な頻度で楽しんでいる。
ただ、隆が金持ちライフを楽しめている理由は、隆自身には無い。全て妻の資産である。妻の栞は、これまた美人としか表現しようのない中年女性なのだが、人柄は隆と良く似ている。だからこそ、若かりし時に隆に夢中となり、子供も産まずに享楽的な人生を送ってきた。
でも、隆と似ているのは、人柄だけではなく、貞操についても同様であった。
都心の高級住宅街の中でも広くて目立つ一画に構えられた洋風の大邸宅では、栞が若い燕との逢瀬を楽しんでいた。隆との夫婦生活は途切れていなかったが、もっと若い男との逢瀬も捨てがたい。最近は、やっぱり、若い男の方が良いかも・・・・・・と思い始めていた。
隆のベンツに仕込んだGPS発信機が彼の接近を告げると、自らは素っ裸のままで優雅にシャワールームへと足を運び、燕には直ぐに出て行くように指図した。
別に自分の浮気現場に踏み込まれたとしても、隆とは離婚すれば済む。だが、離婚に向けて色気もない弁護士と会話をするのが、単に面倒臭いだけだった。
小雨が濡らす砂利を踏んで、燕の乗るジャガーのライトが車回りを出て行く。その5分後くらいに、行き違いで、隆のベンツが照らすライトが屋敷の中に滑り込んできた。その2対のライトの動きを、バスローブだけを纏った栞は、ワイングラスを片手に居間の窓越しに眺めていた。
重厚な感じのパイン材の扉を開け、土足のままで絨毯の上を進んだ隆は、妻の栞の姿を認めると、軽やかな声音で「マイ・スウィート・ハート!」と声を上げた。 バスローブの生地の上から栞の腰に腕を回すと、右と左の両頬に軽くキスした。
お互いに逢瀬を楽しんでいることは暗黙の了解事項であったが、それとは気付かせない努力をすることが、2人の間のエチケットであった。
だから、栞は警備システムの電源を切っていた。監視カメラに燕の乗るジャガーの映像が写っていては興醒めだからだ。
隆と栞が狐と狸の化かし合いのような無意味な会話を重ねている時。
2階の部屋でガチャンと、何かが落ちる音がした。
黙り込んで、お互いの顔を覗き込む2人。
使用人は早めに帰宅させており、屋敷には2人だけだった。
栞が、顎をしゃくって、隆に2階に様子を見に行けと指図する。
隆は首を振って、嫌々の仕草をする。隆は極度の怖がりだった。
呆れた栞はバスローブ姿のまま、2階に続く螺旋階段を独りで上がって行った。
燕との逢瀬を楽しんだ寝室の隣の部屋の窓が開き、部屋の中に雨が降り込んでいる。壁際に置いてあったスタンドが床に倒れ、電灯が割れていた。
泥棒は音に驚いて、そそくさと逃げて行ったものと思われる。
「あなたって、本当に役に立たないわねえ」
螺旋階段の手すりに左手を這わせながら、階下に降りてきた栞は、隆に嫌味を言った。顔面蒼白になった隆は、無言のままで肩をすくめた。今日はベンツの買い替えを相談できる雰囲気ではなくなったなと、そんな事を考えていた。
「女の私に裸のままで不審者を確認させに行かせるって、どういう事? 泥棒に決まっているんだから、金を渡せば済む話でしょ」
「だって、警備システムが作動して、警備会社の人間が飛んでくるだろう? わざわざ、私が危ない橋を渡らなくっても・・・・・・」
「情けない! あなたは私の夫なのよ。
私の事を守るつもりがないのなら、警備会社の人間とでも結婚した方がマシだわ!」
隆に最後まで言わせず、栞は吐き捨てるように言った。さすがにカチンときた隆も、つい口を滑らせる。
「だって、君が警報システムを切ったんだろ? 今もって警備会社からの確認の電話が無いということは、そういう事だろ?」
抗弁されることに慣れていない栞は、キっと目を吊り上げた。
「だったら、どうなの?」
押し殺した声で、栞は凄んで見せた。
「いや、君の御相手だって、そんなに勇敢ではないと思うよ」
消え入りそうな声で抗弁する隆だったが、その弱腰が寧ろ栞を勢いづかせる結果を招いてしまった。
栞は、隆の事を、体の良いペットか何かと勘違いしていた。激高した栞は、機関銃のように捲し立て、隆を責め立て始めた。
そして遂に、「あなたとは離婚するわ!」と大声で宣言した。
その一言で事態は急変する。
ペットなりに自己防衛本能は旺盛だった。栞に離婚されたら、野良犬のような境遇に堕してしまうという自覚は、常日頃から持っていた。だからこそ、ひたすら従順だったのだ。
だが此の日は、栞の罵詈雑言に追い込まれてもおり、感情の箍が外れてしまった。
隆は奇声を上げると、栞の首を背後から締めたのだ。
グエっという栞の呻き声に一瞬だけ我に返るが、既に手を掛けてしまった。覆水盆に返らず。栞は離婚という決断を撤回しないだろう。そのことだけを理解すると、隆は栞の首を絞め続けた。
ぐったりとして、絨毯の上に横たわった栞の死体を見ながら、ハアッハアッと隆は肩で荒い息をした。どう対処すれば良いか、全く分からなかった。
しばらくして思い付いたことは、買春を通じて昵懇になったヤクザの親分に電話することだった。
ヤクザの親分は受話器を通して、隆から詳しく一部始終を聞き出した。特に、絞殺した際の立ち位置について。
そして、宵の口まで春を楽しんでいたホテルに戻って来るように指示した。
その電話を切ると、今度はドクター・Mに仕事の依頼をした。通常よりは割の良い仕事になりそうだった。
隆の記憶は改竄された。
ホテルで1人目の娼婦を相手にした後、満足できずに2人目の娼婦を呼んだ。直接ヤクザの親分に電話を掛け、1人目とは違う雰囲気の娼婦を求めた。その結果、隆はホテルで夜を過ごし、帰宅したのは翌朝、空が白み始めた頃だった。そして、洋館の扉を開け、居間の床の上に横たわる妻の絞殺死体を発見することになる。
勿論、ホテルからブローカーに連れられ、富士山を望むドクター・Mの別荘に行った記憶は一切ない。
警察は殺人事件と断定し、捜査本部を立ち上げた。絞殺された妻の爪の間から採取された細胞片からDNAを割り出した。夫のものとは一致しない。
一方、屋敷内の警備システムは電源を落とされていたものの、一般公道上の監視カメラの映像を虱潰しにチェックし、殺害現場から逃げ出したと思しきジャガーを特定した。
持ち主の若い男のDNAと、妻の爪の間から採取されたDNAが一致した。重要な容疑者として、若い男は任意同行を求められ、科学捜査研究所に移送された。
科捜研の所有するバーチャルカプセルに収容し、容疑者の記憶を確認するためである。
バーチャルカプセルとは、カプセルの中に入った容疑者の頭皮に無数の電極を貼り付け、その記憶内容をバーチャル空間に投影することで第三者が検証できるようにした装置である。
だが、この容疑者には殺人の記憶がなかった。
替わりに見付かった記憶は、浮気相手の被害者がシャワーを浴びている間に隣の部屋に忍び込み、窓の鍵を開けるという窃盗の共犯としての記憶である。この容疑者は多重債務者でもあり、その取り立ての遅延策の1つとして、窃盗の片棒を担がされたことが判明した。
間も無く、2階に侵入した窃盗犯も身柄を拘束された。同様に科捜研のバーチャルカプセルにて記憶を確認したが、この窃盗犯にも殺人の記憶は無かった。
念のため、当面の残る関係者ということで、夫の隆にも科捜研までの任意出頭を求めたが、隆にも殺人の記憶は無かった。捜査は暗礁に乗り上げた。
殺人現場の屋敷は立ち入り禁止エリアに指定され、隆は、現場保全を優先した警察からやんわりと、ホテル住まいを強要された。隆としても捜査協力は吝かではない。だが、先立つものは金である。隆が自由にできる資産は車齢3年のベンツのみであり、現金は殆ど無かった。
実は、現金を殆ど持っていない点は妻の栞にしても同様で、栞の両親が経営する浮間不動産の会社役員としての報酬という名目で支給される現金が全てであった。栞の両親は、隆の事をよく思っておらず、栞の死亡と共に役員報酬の支給を差し止めていた。
ベンツを売って当座の生活費を手にしたものの、ほどなく隆は追加の金策に困ることになった。そして、ヤクザの親分に再び電話する。
「いやあ、浮間さん。この度は災難でしたねえ」
「本当に。私ほど運の悪い人間も、滅多に居ないでしょうよ。
ところで、親分さんのツテで、借金できる当てを御紹介いただけませんか?」
「私どもの業界から金を借りると、金利が嵩みますよ。銀行に行ってはどうですか?」
「いえ、残念ながら。
銀行には既に頼んだのですが、定職の無い私に金を貸してくれる銀行は1つも有りません」
「そうですか」
「だから、親分さんだけが頼りなのです」
ヤクザの親分は隆の目の前で腕組みすると、困ったという表情の演技をした。天井を見上げ、目線だけを落し下目を使って隆を眺める。
「実は、浮間さん。手前共も既に浮間さんには金を貸しているんですよ。こちらも早く返してもらいたいのですが・・・・・・。
浮間さんは風俗の方ではお得意様ですからね。早くしないと金利負担が大丈夫なのかと、心配しておったところなのです」
隆は腰を抜かさんばかりに親分の言葉に驚いた。借金の記憶が無かったからである。隆がそう反論すると、親分は、やおら1枚の借用証書を隆の前に広げた。
確かに隆の筆跡で、
『施術代3,000万円及び諸経費をお支払いする。金利は月当り10%』
と、書いてある。明記された日付は妻の殺害日であった。
隆の目玉は借用書と親分の顔を行ったり来たりした。金策に来たのであるから、この借用書に書いてある借金を返済できようはずがない。
「これは本物ですか? 私の筆跡には似ていますが・・・・・・」
消え入りそうな声で反論してみる。
「おや、御記憶に無い? 困りましたねえ」
隆は、俯いたまま、貝になった。
親分の事は死ぬほど怖いが、ここで借用書の存在を認めてしまっては、借金地獄をまっしぐらである。既に片足を踏み入れている。
「大人しく支払って頂けますよね?」
ドスの効いた声で親分が隆に迫る。隆は、光明は全く無いが、いやいやと首を左右に振る。
「困りましたねえ」
もう一度、同じセリフを吐くと、親分は別室に控えた子分を胴間声で呼んだ。「あれを持ってこい!」と呼ばれた子分が、持参したタブレットを応接机の上に置くと、何やら映像の再生を始める。
その映像の中で、隆は妻を絞殺したと告白していた。
「警察から逃げるために殺人の記憶を消し去りたい。
その施術費用は、取敢えず親分からお借りする。借用書も書く」
そう言うと、再生画像の中で、件の借用書を書き始めた。
「借用書を反故にしようとしたら、この録画映像を見た記憶を抹消するための2度目の施術代と、違約金とを合わせて3倍の金を払う!」
と、大声で宣誓していた。
つまり、3千万円の3倍の9千万円と金利で概ね1億円。この瞬間に、隆の借金残高は膨れ上がったのだ。
「私共はね、この映像を証拠にして、警察に垂れ込んだりはしません。
私共が他人の記憶を操作できるっていう事は、極秘中の極秘ですから。
ですが一方で、借金はキッチリ回収しなければならんのです。それが稼業ですから。浮間さんに返済の当てが無いなら、あなたの内臓を売ってでも借金を回収します」
隆の歯がガタガタと小刻みに震え始める。絞り出すような小声で頼み込む。
「もう少し待ってください。警察が現場封鎖を解除すれば、直ぐにでも屋敷を売って、金を作りますから」
相続当事者である妻の栞が死んだ今となっては、浮間不動産関連の資産が転がり込んでくることは無い。隆にとって、共同名義の洋館が唯一の処分可能な資産であった。
「承知しました。
それでは、2回目の記憶抹消施術に行きましょうか? 今の記憶は、私共にとっても鬼門ですからね」
「親分さん。それは少し待ってください。
同じ事を繰り返せば、3倍になった借金が9倍になってしまいます。後生ですから・・・・・・」
隆は椅子から転げ落ちたまま、その場で土下座を始めた。
冷静に暗算すると、3回目の施術代と2回目の違約金が嵩んで5倍になるだけのはずだが、そんな事を考える余裕は全く無かった。5倍でも大金には違いないが・・・・・・。
「仕方有りませんね。では、今日中にあの屋敷を私共に売ったことにしてください。
子飼いの司法書士を呼びましょう。売買手続きを終えるまで、浮間さんの身柄は監禁させてもらいますよ」
親分はニンマリしながら言った。
そして、最後に「1億円で」と付け加えた。時価10億円は下らない豪邸であった。
殺人事件の舞台になった屋敷だし、査定額は大いに下がるだろう。それでも1億円までは下がらないはずである。そうは言っても・・・・・・。
ここで記憶を消されれば、タブレットの録画映像を見ては、その記憶を抹消する手術を繰り返すことになる。借金が際限無く膨らむことは容易に想像できた。
無一文の身に転じることは避けようが無かった。隆に抗う術は無かった。
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