第3話 過去特別編:トイレ革命

(第1部)

 1780年。

 その男、ジャック・ルソーは、農作物を売りに来た農夫の荷馬車に乗せてもらい、人知れず、パリの街に入った。

 石造りのマンションの1室を居住用に借りると、そこを拠点に社会奉仕活動を始めた。 

 社会奉仕活動とは、公衆トイレの普及である。

 下水インフラの無いこの時代、人々は自分の排泄物をマンションの窓から階下の路上に捨てていた。石畳の道路を闊歩する馬車馬も糞を垂れ、道路は糞まみれであった。

 それらの糞を回収し、郊外の農家に肥料として売り回る業者も存在し、それがこの時代の静脈経済であった。

 ルソーは、このパリに公衆トイレを普及させ、街を清潔に保ち、伝染病の発生を防ぐ使命に燃えていた。

 ルソーは70歳を越す高齢で、いわば、これが人生最期の御奉公であった。

 とは言え、この時代には公衆トイレという概念が無い。まずは街の有力者を説得し、彼の活動を支援してもらう必要があった。

 ルソーが支援を期待したのは教会である。

 パリ中心部にあるノートルダム大聖堂で行われるミサに参加し、ミサを執り行う牧師と親しくなり、そして、金貨を何枚か使って、司教と面会する段取りを取り付けた。

 ジャンパーを羽織り、この時代で入手した綿入りコートをその上に着込んで、司教との面会に臨んだ。

「司教様。私はジャック・ルソーと申します。発明家です」

 そう自己紹介した。未来から来た、なんて言えば、下手をすると魔女狩り裁判に架けられるかもしれない。

「お近づきの印に、これを奉納致します」

 ルソーはジャンパーを脱ぐと、それを司教に捧げた。

 中古衣料を司教に渡すとは、バチ当りなれ者である。司教はルソーの行為に驚き、付き人は息を飲んだ。

「司教様。この留め金をご覧ください。

 これは私の発明品で、ファスナーと言います。

 残念ながら、腕の良い加工職人が死んでしまい、2着目を作れずに困っていますが、教会の力を以ってすれば職人を探せるでしょう。

 これで一儲けできるはずです。私からの献上金とお考えください」

 ルソーは司教の目の前でファスナーを開けたり閉めたりした。

「そちは中々の発明家じゃな。それで、謁見の要件は何じゃ? この奉納だけではないんじゃろ?」

「司教様の洞察力には感服致します。それでは、恐れながら申し上げますと・・・・・・」

 そう言うと、ルソーは、パリ市街の至るところで公衆トイレを作る計画を説明した。

 司教にも公衆トイレと言う概念は無い。ルソーが何を説明しているのか、さっぱり理解できなかった。

 ただ、悪い話ではないことだけは理解できた。

「パリ市民は、司教様の善行に感謝するでしょう。

 まずは、その見本を、ノートルダム大聖堂の敷地の一画に公衆トイレを作らせてください。

 市街地にも建設するか否か、そのお許しは、それからで結構でございます」

 こうして、ノートルダム大聖堂の一画で、実験的な公衆トイレの建設が始まった。

 ルソーは人夫を雇い、井戸と同じ工法で浄化槽を掘らせた。浄化槽は木造建屋で囲い、屋根の頂上にはガス燈が設置された。

 糞尿が少し貯まった段階で、ルソーは浄化槽に胡椒入れを振りかけた。

 胡椒入れの中には、糞尿を浄化する微生物を水溶性のコーティング剤で粒状化したものが入っていた。

 自然界の微生物に比べて、その浄化能力を高めるバイオ処理を施していた。これで糞尿の浄化作用が始まる。

 その過程で生じるメタンガスをガス燈の燃料とするのだ。

 数カ月後、ルソーは、司教を公衆トイレに案内した。

「どうです、司教様。臭わないでしょう?

 しかも、陽が落ちると、このガス燈を灯すことができます。燃料は自給自足なのです」

「ルソー殿。凄い発明じゃな。これは確かに、パリ市民も喜ぶでしょう。

 よろしい。パリ市街の至る所に公衆トイレを作ってください。

 その運営のギルドを立ち上げることも許可致しましょう」

 司教は、そう太鼓判を押した。

 そして、ルソーの耳に顔を近づけると小声で、「そのギルドからの運上金もよろしく頼みますぞ」と耳打ちした。

 早速、ルソーは公衆トイレの建設を始めた。

 浄化された糞尿の汲み取りとガス燈の点火作業には、それまでの糞尿ギルドとガス燈ギルドを取り込んだ。

 公衆トイレの入口には門番を置き、付近のマンション住民から安い使用料を徴収した。

 パリ市民の間に公衆トイレが普及すると、変な話だが、野糞を垂れるのはベルサイユ宮殿に出入りする王侯貴族だけとなった。

 綺麗に着飾ってはいるが、肝腎の生理現象の始末が前時代的な王侯貴族を、パリ市民は揶揄やゆするようになった。

 そして、遂に1789年7月14日。パリ市民は、バスチーユ監獄ではなく、ベルサイユ宮殿を取り囲んだ。

 民衆の集まりに驚いた召使い達がマリー・アントワネット王妃の元に集まる。

「民衆は、何を騒いでいるのです?」

「彼らは、野糞をしては、パリ市の公衆衛生に良くない。糞尿の異臭が市街に流れてきて迷惑だ、と」

「野糞のどこが悪いのです? 野糞が悪いなら、オマルを使えば良い!」

 宮殿内の庭園を散策中に便意を催せば野糞も辞さない王妃であったが、普段は侍女が用意するオマルで用を足している。

 しかし、トイレが全く無い宮殿内で仕える召使いだけでなく、参内した貴族でさえも野糞している実態を知らない王妃であった。

 ただ、集まった民衆も、単に宮殿を揶揄しているに過ぎず、暴力沙汰にはならない。寧ろ、この事件を機に、ベルサイユ宮殿内にもトイレを設置するよう、ルソーに要請があった。

 ルソーは、王侯貴族用の豪勢なトイレと、使用人が使う標準型トイレの2種類を幾つか敷地内に建設した。当然ながら、門番を置き、使用料を徴収した。

 王侯貴族からは1回につき金貨1枚。ルソーは暴利ボッタクリで王侯貴族からドンドン金を巻き上げた。

 それを財源に、教会からの施しだと喧伝してパリ市街全域で慈善活動を展開した。だから、フランス革命は起きなかった。

 ルイ16世は、法外な使用料を巻き上げられているにも関らず、トイレ普及の功により、ルソーを侯爵に封じた。

 侯爵に封じるべき本来の理由は、ルイ16世を断頭台から救った事なのだが、そんな歴史を経験した事の無い当の本人には知る由もなかった。


(第2部)

 2316年。

 地球連邦政府の時間転送局では、1人の男を過去に転送しようとしていた。

 国境は過去のものとなり、外交や国防というものは無くなっていた。平和な時代と言えたが、社会の悩みが消えたわけではない。国の悩みが地球連邦政府の悩みに変わっただけである。

 その1つが財政赤字問題であった。

 地球レベルで高齢化が進展し、その社会福祉予算は膨れ上がっていた。

 タックスヘイブンを悪用した民間企業の租税回避活動は封じたので法人税は確実に徴収できていたが、それでも連邦財政は赤字であった。

 そこで、連邦保有技術の活用と言う観点から、500年以上の過去であれば、高額な料金と引き換えに希望者を時間移動させるサービスを開始したのだ。

 時のロープ理論に従えば、500年以上まで遡れば、自らの時間宇宙を捻じ曲げる影響は無いに等しい。

 しかも、時間移動者が持参を許された物は、サンドバック状の布製収納袋が1つと、両手に持てる荷物に限定されていた。

 更に、当時の技術で製造不可能な物は、消耗品を除けば、持参することが許されない規則だ。

 時間宇宙に影響する度合いは極限まで小さくなる。

 過去に旅立つ者の立場に立てば、その過去で生きて行かねばならない。自ずと、渡航エリアは文明のある地域に限られる。

 ヨーロッパであれば中世から近世への過渡期、東アジアであれば清国の全盛が翳ろうとしていた時期である。アメリカでは独立戦争が終わったばかりの頃であった。

 ジャック・ルソーは、そう言う時代のフランス渡航を希望した。フランス革命前夜の時代である。

 ルソーは事業で成功し、1代で巨万の富を成した。過去に2度、結婚と離婚を繰り返したが、子供は出来なかった。だから、彼の莫大な遺産は連邦政府の資産として接収される運命にあった。

 それならば・・・・・・と、ルソーは、時間旅行の料金として、生前に差し出すことにしたのである。

 時間転送装置を前にして、取調官がルソーの身体検査を行っていた。

「ルソーさん。このジャンパーは、時代遅れの代物とはいえ、ファスナーが装着されていますね。

 ファスナーの発明は1900年代初め。あなたの渡航時期の約130年後ですよ」

 取調官の指摘に、ルソーは大袈裟に驚いた。

「これでも入手できる範囲で最も古いデザインですよ。

 それにファスナーの形状に金属を加工する技術は当時ありません。しかも材料のアルミニウムが、電気の無いあの時代では製造不能です。

 これは完全に消耗品ですよ。」

 取調官はルソーの抗弁に納得した。

 腕時計は没収された。

 方位磁石は没収を免れた。18世紀末のヨーロッパには羅針盤が既に普及している。

 収納袋の中身は基本的にキャンプ道具である。取調官は中身を全て吟味した。

 目新しいものは携行食糧だ。布袋には大量の錠剤が入っている。この錠剤は水に浸けると食パン程度の大きさまで膨張し、栄養価は1回分の食事に相当する。

 過去に到着してから最初にすべき事は食糧調達である。これは必需品であった。

「塩と胡椒も持参するのですか?」

「ええ。あちらに到着して直ぐに入手できるかどうか。

 冷蔵技術の無い時代、農家で肉を分けてもらっても、そのままでは食べられません。塩と胡椒は不可欠です」

「まあ、木が素材の容器ですからね。問題は無いでしょう」

 両手には金貨を一杯に詰め込んだ布袋を持っている。当時の金貨のデザインに鋳造した特注品である。金貨の隙間には小粒のダイヤモンドを詰め込んでいた。

 取調官の身体検査が終わると、次は時間転送装置を操作する執行官の出番である。

 装置の内部に案内しながら、執行官はルソーに軽口を言う。

「不便な500年前に行きたがるなんて、ルソーさんも物好きですね。

 しかも、フランス革命前だ。

 どうせならフランス革命直後に渡航した方が、現地の混乱に巻き込まれなくて安心じゃないですか?」

「今から辿り着けるのは、遅くても1816年でしょ?

 あの時代、数十年で社会が落ち着くとは考え難いですよ。

 だったら、フランス革命の前に到着して、最初から社会の変化を体験した方が適応できると言うものですよ」

「そう言うものですかね」

「これは、会社経営を通じて身に付けた知恵というか、発想法です」

 ルソーはそう言うと、ガランとした時間転送装置の中に入った。

 執行官が、装置の扉を締めながら「ご無事を祈っています」と声を掛けた。

「ありがとう」とルソーは礼を言った。

 執行官は時間転送装置のスイッチを入れた。

 球体をした装置の外殻には青白いプラズマが這い回った。

 数秒間バキバキと空気を切り裂くような激しい音が鳴ったが、その後は静かになった。

 執行官が装置の扉を開けると、ルソーの姿は無くなっていた。

 台座の脚だけが4脚、球体内部の底に転がっている。ルソーが無事に到着したのかどうか、執行官には確かめようがない。

 執行官は、操作盤の上にあったタブレットを掴むと、渡航計画書を画面に呼び出した。執行完了のサインをするためである。

「ルソーさんは、本当に物好きだよな。

 俺は絶対に時間移動なんてしないな。この装置の中で単に蒸発しているだけかもしれないのに、そんな無謀な賭けをする度胸は俺には無いね」

 執行官は傍らに立つ取調官に向かって言うと、改めて渡航計画書を眺める。

 渡航目的の欄には、

『貴族階級が健在だった中世末期のフランスに渡航し、貴族の生活を満喫したい』

 と書いてあった。

 そうだ。この時間宇宙においても、フランス革命は無かったことに修正されたのだ。

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