宿命

モエム

宿命―完結編

 僕は非常に焦っている。

 現在、真夏の県道をフルスロットルで走っている。しかし悲しいかな、どんなにエンジンを焼いて馬車馬のごとく走らせたとしても、いかんせん原付。リミッターに抑えられた4サイクルでは、五十五キロ以上出すことはかなわない。通勤ラッシュに急かされた車が、僕の横を通り過ぎていく。

 なんてこった。やっちまった。携帯電話でしっかりとアラームをかけておいたのに、どういうわけか、そのアラームは鳴らなかったのだ。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 起きがけに携帯を確認すれば、画面には「アラーム 1件」の文字があった。つまり、これはアラームがしっかり鳴ったことを意味する。僕はいつも通り設定したアラームを完全に無視して、一時間以上前に起きる予定の時刻をオーバーしてしまったのかもしれない。鳴動時間は一分としておいたにも関わらず、僕はそれで起きることができなかった。昨日遅くまで勉強していたのがいけなかったのだろう。

 それにしても、やばい。これは、非常にやばいぞ。

 現在時刻は午前八時ジャスト。こんな時に限って、やたらと信号に引っかかるような気がする。黄色から変わってすぐはなんとか突っ込むことができるにしても、左右からビュンビュン来ている車の波に突っ込むことは、流石に躊躇われる。

 あと信号は二本ある。

 現在サークルKの前を通過した。次の信号に止められると、困ることが一つある。もし止まったならば、タイミング的に、必ず次の信号にも止まってしまうのだ。

 絶対に止まるわけにはいかない。

 ただでさえ焦っているんだ。そこにさらに止まるとなると、電車に間に合わなくなる。単位をかけて必死に勉強してきた時間が、すべて無駄になってしまう。前期に頑張って、眠気と戦って一限目に出てきた僕の努力も無駄になってしまう。

 なんとしてでも、間に合わせなければならないのだ。

 僕は既に限界まで回しているアクセルを、より強く握りしめた。一がつくあの日じゃなくて、本当に助かった。

 そして僕は、次の信号にさしかかった。

 歩行者用信号が赤だったが、運転者用は青だった。

 距離は約五十メートル。間に合うか? 僕は身体を前のめりにして、風の抵抗を少しでも少なくしようと、無駄なあがきをした。

 タイミング的には――間に合う。なんとかギリギリだ。この感じで通り抜けることができれば、なんとか次の信号も青で通ることができるだろう。左右には、二十台以上の車が連なっていた。

 ここで問題発生。

 対向の大型トラックが右折しやがった。

 僕はアクセルを緩めて減速した。土ではなく荷物を運搬する、あのカンガルー便だ。やたらと車体が長いあれだ。こいつが曲がると、どんなことが発生するか。当然、大回りに曲がるものだから、やたらと右折に時間がかかってしまう。

 信号が見えない。

 横だけでなく、縦にも長いとは性質

たち

が悪い。進行通路だけでなく上への視界も遮ってしまうとは、図々しいにも程があるだろう。うっとうしい。実にうっとうしい。

 しかしカンガルー便の方が急いでいるのも、よく分かる。信号が赤になりかけた瞬間に曲がりたいのは、対向車が止まってくれるから。確かに、向こうは今、右に曲がりたいだろう。それは、よく分かる。

 でも僕は試験があるんだ。

 カンガルーに構っている暇はないんだ。

 早く曲がれ――とアクセルを緩めながら、苛々していると、トラックがようやく信号を曲がりきった。

 そして終わった。

 信号は赤になってしまった。

 同時に、左右の信号が青になって、車が走り出した。

 ああ、なんてことだ。僕は、間に合わなかったのだ。これがどうしようもない現実ってやつなんだろうか。確かに、死ぬのは嫌だ。このまま停止しないと、左右から走り出した車にはねられてしまうだろう。いくら重要なテストだといえども、自分の命と秤にかけたら、自分の命の方が重くなるのは言うまでもない。このままブレーキを切らずに直進すると、間違いなく、僕は跳ねられて命を落とす。少なくとも大丈夫ではない怪我をしてしまうだろう。

 だから僕は――ブレーキを切らなかった。

 僕を乗せた原付は、左側の歩道に乗り込んだ。そのまま左に曲がり、道交法を無視して歩道を突っ走った。

 そのスピードを殺さず、歩道から、高速道路を走る車の波に合流するがごとく、車道に乗り込んだ。いきなり前に飛び出されて、驚いた車がクラクションを鳴らした。

 ここで僕はにやりとなった。――これは、いけるぞ。

 今、僕は左側の車線を走っている。そして右側の対向車線には、信号が変わったばかりで、未だに発進できていない車が連なっている。

 ハンドルを右に切り、その間を突っ切った。

 そしてまた僕は、そのまま歩道に乗り上げたのである。

 原付は、時には車より早く目的地に到着することがある。それを可能とするのが、この横抜けである。

 左に曲がって、そしてまた右に曲がって展開し、元来た車線とは左側から走ってきたことになる。

 元いた方向が赤なら。

 左右からの方向は当然青だろう。

 そのまま僕は左折し、なんとか、赤で時間を食うことはなかった。

 勝った。

 僕は勝ったぞ。

 どんなもんだ。僕は自分の命と、試験を受ける権利の両方を獲得したのだ。すぐ誰かに、今の僕の雄姿を伝えたい。試験が終わったら、友達の一人でも捕まえて自慢してやろう。

 時計を見た。大丈夫、間に合う。

 僕は左手で、ほっと胸をなで下ろした。



    【二】


 死にたい。

 とりあえず今、猛烈に死にたい気分だ。

 いい加減にしろよ、僕。寝過ごしただけならまだしも、どうしてこんなさらなるミスを犯してしまうのか……。

 定期券を忘れた。

 しかし定期券を忘れたとしても、降車駅までの六百八十円があれば、何とかなるのだ。金さえあれば、大抵のことはどうにでもなるということを、僕は普段から重々承知しているはずなのに。

 その財布も忘れた。

 どうも、ミスは続くものらしい。聞いたところによると、米国の某治安が行き届いてない地域では、駅でハードル跳びが行われるそうだ。つまるところ、僕の目の前に見える自動改札口を飛び越えてしまうのだ。 

 僕も跳び越えてやろうか。

 そんな衝動に駆られた。

 見れば左側に、駅員のおじさんがしっかり見張っている。さっきの道交法無視は、警察がいなかったからであり、もし警察が交差点で張っていたならば、僕は決してそんなことをしなかっただろう。犯罪は、咎める者がいて初めて、犯罪になるのだ。

 しかし、現在は駅員という名の警察がいる。決して無賃乗車はできない。そんなことをすれば、僕は犯罪者の烙印を押されてしまう。

 ――終わった。

 燃えていた心臓が、急速にクールダウンする。もう、考える気力もない。僕の努力は水泡に帰してしまい、来年また、あのつまらない授業を受けるしかないのだ。

 運命。

 そんな言葉が僕の頭をよぎった。

 きっと運命のイタズラなのだろう。運命がちょっとチャメっ気を出して、携帯を鳴らなくしやがったのだ(きっと鳴らなかったのだ。僕が起きなかったのでは、決してないはず……)。僕が今日の試験を受けられなくなったのは、偶然ではなく、必然なのだ。

 さあ、帰ろう。

 帰って、もう一度ぐっすり眠ってやろう。

 僕がきびすを返そうとした、そのときだった。

「急げ! まだ間に合うぞ!」

 そんな、どこかで聞いたような声が、左方向から雑踏に紛れて、耳に入ってきた。心底どうでもいいなと思いながら、僕は元来た道を戻り出した。

「今何時!」

「八時十一分! ギリだ!」

 その声の主は、また言った。

 ギリ――つまりこの人物達は、僕が乗ろうとしていた八時十三分の急行に乗ろうとしていた、ということだろう。恨めしげに、唾

つば

でも吐きかけてやろうかと思いながら、そっちを向いた。

 僕の口から、唾が出ることはなかった。

 その人物達を、僕は知っていた。

「ボス! 加藤!」

 とっさに、最大ボリュームで声をかけた。ばっちり聞こえたらしく、二人は足を止めた。僕は、十メートルほど離れたところにいた彼達に駆け寄った。

「斉藤じゃないか」

 ボスが、僕に声をかけてきた。いつもBOSSの缶コーヒーを片手に、余裕を持って電車に乗る彼の手には、電車の定期券しか握られていなかった。

「どうした」加藤が焦りながら言った。「用があるなら早く言ってくれ。十三分を逃したら、次の急行はないんだ」

 予想通り、加藤達も十三分の急行に乗るつもりらしい。

 なんという僥倖だろう――最後の最後に、運命は僕に味方してくれたのだ。

「頼みがあるんだ」ほっと胸をなで下ろして、僕は言った。「金を貸してくれ。急いできたもんだから、定期券も財布も、家に忘れてきてしまったんだ。頼む、一限目に試験があるんだよ」

 僕は頭を下げながら、手を合わせた。

 しかし、これで安心だ。危なかった。本当に、危なかった。

 ボスは言った。

「悪い、俺は財布忘れたから、加藤に借りてくれ」

 なんだ、お前もか。なるほど、コーヒーを持っていなかったのは、そのためだったのか。

「馬鹿だなお前。斎藤、ちょっと待ってろ」加藤は呆れ顔でボスを見て、僕に言った。それから持っていたナップサックを下ろし、中身を探った。

「時間がないから、急げよ」ボスが急かした。

「だからちょっと待てって」苛立ちながら、加藤が返す。

 それから少しして、加藤がこちらを向いた。

「なあ斉藤」

「何だ」

「怒らないでくれよ?」

 ドキリ、とした。

 ちょっと待て。まさか、そんなことはないだろう。ここには大学生が三人もいるんだ。成人式も終えた、いい年した大人。そんな奴らが、まさかそんな――そんなはずがあるまい。

「すまない、斉藤」加藤は手を合わせた。「俺も、財布忘れたみたいだ」

 馬鹿野郎――そう、大声で、心の底から叫びたくなった。しかし僕はそうしなかった。恐らく脳が現実の認識を拒んでいるせいだろう。結果、僕は固まって絶句していた。

 運命に裏切られた気分である。

 上げて落とすとは、なんて残酷なことをしでかしてくれるのだ。これならいっそ、あのとき信号で間にあわなかった方が、いくらか救いがあったかもしれない。

 性質

たち

が悪い。

 一体、僕はどうすればいいんだ。

「そんなわけで」加藤はバツの悪そうな顔で、僕に言った。「すまない、斉藤。俺達はもう行くから」

 二人は定期券を通して、改札口を渡ろうとした。

「待てよ!」情けない声を出して、僕は言った。ここまで期待させられたら、どうしても、試験に間に合わせなければ我慢がならない。「加藤、本当に財布がなかったのか。もう一度、よく探してみてくれ」

「いや、そういえば財布が、昨日着ていたジーパンの中に入れっぱなしだったことを、ついさっき思い出した」

 財布を忘れるなんて、何を考えているんだ、お前は。止めようとする僕を振りきり、加藤が改札をくぐろうとした。

 運命。それはかくも残酷なものである。結末が始めから決まっているなんて、世の中はなんて残酷なのだろう。

 恐らく運命を残酷たらしめている理由は、結末を事前に教えられていないがためだ。どうせ駄目だと分かっているなら、こんなに頑張る必要もない。哀れに僕は、滑稽なダンスを踊る道化だったのかもしれない。

 神はこんな僕を笑っているのだろうか。

 当然だ。ピエロは他人を笑わせるのが仕事。携帯が鳴らなくて、歩道を爆走して、結局定期券と財布を忘れた僕を、神は笑っているに違いない。そうロマンチックに考えると、妙に腹が立ってきた。

 思えば、今までもずっとそうだ。志望していた一流大学に入れず、滑り止めで受けたこんな大学に来てしまった。もしかしたら自分も一流大学に入れるかもしれないという、甘い幻想を抱いて努力していた僕は、なんて滑稽なのだろう。そして、こんな大学に行けただけでもいいかと、妥協してしまった。

 こんな妥協が、世の中には溢れている。大人になるということは、あらゆることを諦めて、妥協するということなのかもしれない。だから、無理なことを夢見る者がいるとしたら、それはきっと子供なのだ。

 世の中は妥協で溢れている。僕も、そんな画一化された人間のうちの一人に過ぎない。神はそうして、世界を笑いものにしているのかもしれない。

 腹が立つ。猛烈に、腹が立つ。

 だから僕は、運命を覆してやろうと思う。どんなちっぽけなことでもいい。規定された道筋に抗い、どんでん返しを決めてやりたい――そんな子供みたいなことを、僕は考えた。

できるのか?

 現時点での運命は、恐らく、僕がテストに間に合わないように決まっているのだ。

 試験に間に合わないかどうか、分からないから、僕たち人間は狼狽するのだ。

 ならば僕は――始めからいっそ、間に合わない運命だったと仮定してやる。

 そしてその上で、僕が、運命を覆すのだ。

 こう考えると、面白いかもしれない。自然と、奮い立たせられるというものだ。

 しかし――できるのか?

 この絶望的状況を覆すことが。

 早く考えないと、加藤達が改札の向こうに行ってしまう。そうなったら、何だか、絶対にいけないような気がした。この二人を逃がしたら、もう希望はない――何故か、そんな気がした。

 二人――?

 その単語が、僕の頭の中で弾けた。

「加藤、ボス」僕は二人の服の袖をひっつかんだ。「ちょっと来てくれ」

「馬鹿、そんな暇があるか!」遂にボスまでもが、僕を見捨てようとする。「もう時間がないんだ! あと一分もないぞ!」

「僕を信じてくれ!」僕は叫んだ。僕の剣幕に何かを感じ取ったのか、二人はじっと僕の方を見た。「……ここで話はできない。こっちだ!」

 僕は走って、二人と一緒に、改札口前を離れた。



    【三】


 僕は今、急行に揺られていた。ボスと加藤と、一列になって、シートに腰掛けていた。

「やりやがった」ボスは僕の方を見て、シニカルな笑みを浮かべた。

 そう、僕はしてやったのだ。

 運命に、一泡吹かせてやったのだ。

「しかしお前、よくあんなこと思いついたな」と加藤。

「二人がいてくれたお陰だ。僕一人では、あんなことは到底思いつかなかっただろう」

 僕達は和気藹々

わきあいあい

と話していた。

「ところでお前達は何の試験なんだ」気になって、僕は訊いた。

「教育心理学だ。結構難しいが、ちゃんと勉強したから、多分パスできる。加藤もこっちと同じだよ」とボス。

「ああ、あれか。去年俺もとったぞ。確かにあれは難しかったな」

「斎藤は?」加藤が訊いてきた。

「教育学概論」僕はそう言うと同時に、あの堅物な教師を思い浮かべた。

「ああ、神田教授の試験か。最悪だな。あの人、おっかないからなあ」ボスは顔をしかめた。

「本当だよ。遅刻してくると、前で遅刻した理由をマイクで言わされるし、携帯が鳴ったら取り上げられるし、途中でトイレに行くことも許してくれない。テストの時は、気をつけろよ、斎藤。あの教授、ふいに回ってきやがるからな」

「ああ」加藤の言葉に、僕はうなずいた。

 確かに、あの教授は厄介だ。去年、カンニングをバレてしまった生徒が教室からつまみだされ、山のような反省文を書かされた挙句、他単位すらも没収されたことは、この大学の生徒なら誰しもが知っていることだ。

 僕を心配してくれたのか、ボスが言ってきた。

「机着く前に、絶対にトイレに行っておけよ」

「結構長い間我慢できるから、大丈夫」

「携帯はマナーモードにしておけよ」

「昨日もテストで、そのままだったから大丈夫」

「絶対遅れるなよ」

「それは――到着は八時五十分だけど、急げばなんとか間に合うと思う」

「最後に、カンニングは絶対にするな」

「誰がするか!」

 そういうと、また三人で笑いあった。

 騒がしくしている僕達を咎める乗客はいなかった。本当なら、もっと早い時間に一限目のある生徒は乗るはずであるため、向かい合わせになった席の電車内は閑散としていた。前の方に座っている僕達の他には、十人にも満たない乗客が、後ろの方に向かってちらほらと腰掛けているのみだ。

 だからだろう。

 こんな事態になってしまったのは。

「乗車券を拝見します」

 最後尾列の方で一礼した乗組員は、そう言った。

「斎藤」顔面蒼白になったボスが、ぽっちゃりした顔を僕に近づけてきた。「どうするんだ」

 僕は焦った。加藤の方を見れば、ボスと同じような顔をしていた。こんな顔になるのは至極当然のことで、僕も立った今、彼達と同じような心境に違いない。

 白状しよう。

 僕は今――定期券も、乗車券も持っていない。

 だから不味いのだ。今、乗車券を見られてしまうのは。

 幸いこちらは前の方なので、後ろから入って来た乗組員がこちらに来るまでには、しばらく時間が掛かる。

 一難去ってまた一難。運命よ、お前はどうしてそうこまで加虐嗜好なのだ。こんなことをされると、もう諦めるしか、どうしようもないじゃないか。

 ――と、今までの僕なら考えていただろう。しかし今日からの僕は一味違う。運命に逆らって生きると、決めたのだ。

「ボス」僕は言った。「お前の定期券を貸せ」

「ふざけるな」青い顔で怒りながら、小さな声でボスは言った「お前、自分がいいなら、他はおかまいなしか? 命の恩人の俺に、捕まれってのかよ」

「落ち着け」冷静に、僕は言った。「また妙案を思いたんだ。だから、大丈夫。俺を信じろ」

 ボスは少し戸惑ったような顔を見せたが、やがて意を決して、僕に定期券を渡した。

 駅員は近いところから、乗車券を確認してきているようだ。右側一列を先にというわけではなく、右へ、左へ前にいくにつれて一人一人順番に、正確に確認していった。

 そして僕は、駅員が入って来た後ろの方――さらに座っていた方とは反対側へ、席をずらした。

 こうすることで、乗組員はボスと加藤より先に、僕の乗車券を確認する事になる。

 そして――。

「乗車券を拝見」

 遂に、僕のところへ乗組員がやってきた。

 僕はボスの定期券を持っているから大丈夫。普通に、先ほどボスから渡された定期券を見せた。

 僕の定期券を確認した乗組員は、僕に背を向けて、次にボスと加藤の定期券を確認しようとした。ボスの額に汗が伝ったのを、僕は見逃さなかった。

「あの、すいません」僕は、乗組員に声をかけた。

「はい?」

「N駅までどれくらいかかるか、教えてもらえませんか」

「少々お待ちください」

 乗組員は、持っていた時刻表を開いた。

 そう――路線図と発着時が極めて細かく書かれた、目を近づけてじっと見なければならないような、あの時刻表を。

 この瞬間を、見逃すわけにはいかない。僕は持っていた乗車券を投げた。ただし野球のオーバースローなど決してするはずもなく、マジシャンがカード投げをするような要領で、何気なく、さりげなく、乗組員の視界に入らないように……。膝あたりから手首のスナップだけを使って、こっそりと投げた。

 カードは横になって、回転しながら飛んだ。そして、ボスの足元に落ち、僕の意図を理解したであろうボスは、急いで投げられた定期券を拾い上げた。

「八時五十分です」と、僕の手口に気付かなかった乗組員が言う。

 馬鹿め。

 知っている。到着時刻なんて、携帯で簡単に確認することもできるのだから。

「ありがとうございます」僕が言うと、乗組員は「いえ」と友好的な笑みを浮かべて、ボスと加藤の方へ乗車券を確認しに行った。

 二人は、定期券を見せ、駅員は俺のときと同じように「結構です」と確認の意を述べた。

 そうして乗組員は「ご協力、ありがとうございました」と頭を下げると、次の両へ行ってしまった。

 事を終えた僕は、また元の席へ戻った。ボスは、ほっと胸を撫で下ろして僕に言った。

「この犯罪者め」



【問題一】

 「僕」を含めた三人は、どのようにして電車に乗ったのかを推理せよ。


【問題二】 

 なぜ主人公の携帯電話のアラームが鳴らなかったのかを推理せよ。


 ※↓に解答となります







































    【四】


 僕達を乗せた電車が、N駅に到着した。僕達は急いでホームに駆け出した。

 その途中で、僕は足を止めた。ボスと加藤が手筈通り、先に行ってしまった。

 現在、この状態で僕は、定期券も乗車券も持っていないのだから、自動改札を抜けることは出来ない。しかし、ある方法を用いれば、僕は定期券を忘れ、乗車券も持っていないながら、自動改札を抜けることができる。

 僕は待った――ボスの帰還を。

 しばらくして、ボスがまた僕のところへやってきた。僕が試験に間に合うよう、必死に走ってきてくれたのだろう、額には汗が垂れていた。

「ほら、急げ」

 そう言ってボスは、僕に一枚の定期券を渡したのだった。そこには「加藤」の名前が刷られていた。

 僕は加藤の定期券を片手に、自動改札へ向った。いつものように定期券を通すと、ゲートはすんなり開いた。

 人ごみに紛れて外へ出た。そこには、加藤が待っていた。

「これ、サンキュな」僕は加藤に定期券を渡した。加藤は頷き、三人で自転車置き場へ急ぎ、学校へ向けて漕ぎ出した。歩道を走りながら、ボスが言った。

「そういえば、斎藤が遅刻しかけるなんて珍しいよな。よりにもよって、テストの日に」

「テストだからさ。どうせ遅くまで勉強してたんだろ?」と加藤が訊いてくる。

 そういえば、確かに、疑問が残る。

 今までの経験からいけば、僕はアラームの音で起きなかったことがない。ということは、余程疲れていたのだろう。昨日は頑張って勉強したから、しょうがないかもしれない。

「それがさ、アラームが鳴らなかったんだよ」

 僕は笑って言った。

「鳴らなかったって、お前さ」ボスがシニカルな笑みを浮かべたので、なにごとだ、と僕は思った。

「なんだよ」僕は首を傾げて訊いた。

「もしかしてお前、マナーモードのままだったんじゃないのか? 昨日テストだったから、そのままにしてたって電車の中で言ってたし」

 僕ははっとなった。

「しまった、マナーモードを解除するのを忘れていた!……でも」僕は言った。「マナーモードなら、バイブが鳴らないのはおかしいくないか」

「斎藤」加藤が訊いてきた。「いつもお前はアラームをかけて起きるって、この前言ったよな」

 僕はうなずいた。

「そのとき、バイブは鳴るのか」

「いや、鳴らない。ちゃんとメロディが流れるのに、バイブまでつける必要はないだろ」

「……馬鹿だなあ、お前」そのとき、加藤は呆れ顔になった。「携帯電話の中には、アラームの初期設定で、バイブ機能がオフになっているものがあるんだよ。お前の携帯は、その類だ」

 その場に沈黙が訪れた。

 直後、僕達三人は高らかに笑った。

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宿命 モエム @moem

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