第4話
五月に入り、ゴールデンウィークを挟んだ登校日、教室に入ると、クラスメイトたちが騒がしかった。それは主に男子生徒によるもので、要因はすぐにわかった。
猪瀬勇太郎が近づいてくる。
「なあこれ」
スマートフォンの画面をこちらに見せてくる。
そこには、この高校の制服のブレザーの下、ワイシャツのボタンを全開に、目隠しをされた女生徒が写っている。未発達の乳房がほとんど露出しており、殴られたものかどうか、右頬が赤らんでいる。
兼本奈緒子だとすぐにわかった。
そして、坂井美雪によるものだと。
まだ、二人とも来ていない。
「どうやら匿名の掲示板に投稿されたやつみたいで、ほかのクラスのやつが見つけて、うちの高校じゃねえかって教えてくれたんだけど……」猪瀬勇太郎は控えめにそう言った。「これ、兼本だよな……。こういうのって一回ネットに載っちゃうと回収不可能なんだろ……?」
彼にして判断できたのは、恐らく顎にある特徴的なほくろのせいだと思われる。
周囲は誰に気遣っているのか、時折こちらを見ながらも、スマートフォンを握り締め、表情をなくすもの、薄ら笑うもの、淫靡な言葉を吐いて悦に浸るもの、様々だった。
「おっはよー」
坂井美雪が来る。
誰もが黙る。
「何? 怖い顔して」
あくびを漏らしながら、こちらを一瞥すると彼女は言った。
「何もクソもないだろうが」
「えー、怖いんだけど」学生鞄を机に放ると、「あ、見た?」
そんな言葉を吐く。
「いい加減にしろよ」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
怒りに任せて、足が机を蹴飛ばしている。まるで別の誰かが僕を操縦しているような、乖離感があった。
「何? 暴力で片付けるの?」
坂井美雪はしたたかに言う。
多分、最初の忠告のときは彼女は猫を被っていただけなのだ。
これがこの女の本性なのだ。
「お前、これがどういうことかわかってんのかよ」
「何って? 大羽くんのオカズになるんじゃない? むしろ感謝されたいくらい」
「おい!」
誰かが、坂井美雪に掴みかかろうと僕の身体を進ませる。
「やめろよ」
田中信二が後ろから僕の腕を取った。
「放せよ!」
「待てって」猪瀬勇太郎も加わる。「落ち着けって」
女子生徒が何人か悲鳴を上げる。
男子生徒の誰かが教師を呼びに教室を駆け出した。
坂井美雪は腕を組んでこちらを見ている。
「動物みたい」
「おい坂井も挑発すんなよ!」
「大羽くん」坂井美雪は言葉を止めない。「言ったでしょ、全部奈緒子のせいなんだよ」
「お前いい加減にしろ!」
「落ち着けよ!」
「頼む誰か坂井どっかやってくれ!」
「大羽くん! 私悪者に見える? 本当に悪者に見える?」
「やめろよ坂井!」
「頭使いなよ大羽くん! 人間なんでしょ? 正義なんでしょ?」
「放せ!」
「やめろって大羽!」
「放せ!」
どちらかの手が緩んだ。
僕は勢いのまま、坂井美雪の頬を殴った。
派手な音を立てて机をなぎ倒し、彼女は床に伏せた。
「大羽!」
クラスメイトの誰かが僕を押し倒し、何人かが上に乗る。
「先生!」
駆けつけた教師が大きな声で、
「何やってんだ!」
叫ぶのを聞きながら、僕はじたばた暴れ続ける。
「大羽くんが、先生止めて!」
結局、一週間の停学処分を受けた。僕の両親は坂井美雪の両親に何度も頭を下げたが、向こうは学校での娘の言動を何ひとつとして認知しているわけもなく、酷く怒り、罵り、僕を突き出せと申し出てきたらしい。殴ってやると怒鳴っていたようだが、多分本当に殴っても殴り足りないくらい、娘を愛していたのだろう。それでもこちらの両親が誠心誠意謝罪を続けると、不承不承ながらも一応は納得したと聞いた。多分、お金もいくらか出たのではないかと思うが、詳細を両親は語らなかった。
両親は僕を怒りはしなかった。兄から何か聞いたのかどうかはわからない。頭を下げても「いいんだよ」としか言わなかった。疲弊し、感情を無くした、抜け殻みたいに見えた。
兄は僕を自室に連れ込むと、
「煙草吸うか」
そう訊ねたが、これを断ると自分だけ煙草を咥え、煙を吐いた。
時折頭を掻きながら、
「俺が悪かったなあ」
呟くように言葉を落とす。
「別に」
「俺が唆したようなもんだよな。無責任だった」
「別に」
「まあ俺は、お前のしたことを絶対的な悪だとは思わないよ。男が女を殴ってはいけない明確な理由なんてないんだから。男女平等を謳うなら、こういうことが起こったって文句は言えないはずなんだよな。お前はそのなんとかさんっていうのを一人の人間として扱ったんだよ」
「言い様だな」
言うと彼は笑った。
煙が揺れる。
「世の中そういうもんだよ。都合のいいように言葉を選んで、都合のいいように歩いてる」坂井美雪のようなことを言う。「誰にとっても生きにくい世の中なんだよ。矛盾するようだけどね。みんな不平不満を抱えてる。自分にだけは易しい世界であるように願ってる。うまく言葉で隠しながらね」
「それも受け売り?」
「これは違うよ」半ばほどで煙草を揉み消すと、窓を開ける。「常々思ってること。嫌気が差すよなあ、テレビを見ていても友達の話を聞いていても。みんな自分にとって有利に働くように言葉を吐き出している。これでしか疎通できないのに、それが偽物なんじゃ、どうしようもないよな」
「それっぽいこと言うね」
「まあね」それから恥ずかしそうに、「俺さ、実は小説家になろうと思っているんだよ。誰にも言っていないけどね。言葉でしか自分の考えを伝えられない世の中なんだから、それを重んじる人になりたいと思ってね。何かを伝えたいってもがいてみている。俺はがむしゃらに行動する自分が嫌いじゃないから、多分何年掛かっても、それを目指し、揺るがない信念を持ち続けられると思うし、だからこそその自分を許せると思うんだ。人生は一回しかないし、それは誰とも違うものなんだ。自分以外の誰が自分を理解し、許し、認めてやれるのかって、そんなもの考えてみたって、結局は自分しかいない。自分自身にしか自分のことなんてわからないんだ。お前は、どうだった? 怒らされて、怒って、怒らせた自分のこと、笑って許せるか」
言葉が出ないまま、彼のほうを見ていた。
彼は苦笑して、
「酷いやつらばっかりだよ世の中は」そして、「俺は、お前のこと、よくやったって思うぜ」
「うん」
「もう行っていいよ。しばらくは家に居るんだろ。明日、久々にゲームでもしようぜ」
ああ、兄は気を遣ってくれているのだ。
それがわかって、苦しくなった。
僕が僕を許せても、きっと僕を許さない人はたくさん居る。いじめられている人を助けたかった。その末の行動なのだと宣言しても、曰く、正義だけでは回らない世界になってしまっている。
いじめはよくないことです。
しないようにしましょう。
見つけたら止めてあげましょう。
それが、みんなのためです。
どのような言葉でそれを落とし込まれたかは記憶にない。ただ、小学生の頃から「当たり前」としてそのように教えられてきたことは事実だ。いじめをする人はいけない人。止めなくてはいけないこと。そうだと思っていた。いや、思わされていた。
好きな人でなければ止めなかったかもしれない。
でもそれを、誰が責めるのだろうか。
事実、猪瀬勇太郎や、田中信二、飯沼沙織やほかのクラスメイトは、それが徐々に、明確に表面化して行っても、何もしなかった。
関わらなければ当然自分には害は及ばない。
関わらなくても自分に損はない。
確かにその通りだと思う。
ただ、関わらなければよかったと、思えはしなかった。
自室のベッドで思考を弄んでいると、スマートフォンにメールが届く。知らないアドレスからだった。
それを開いて、驚いた。
「兼本です。今から外に出られますか? 学校の近くの大きなマンションの屋上で待っています」
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