最終話
幸い、電車はまだあった。親に見つからないように寝巻きに着替え普段言いもしないくせに「おやすみ」とまで言って、自分の部屋の窓から抜け出た。
くたびれたサラリーマンたちが小さく寝息を立てる車内の、僕を反射させる窓と向き合ったまま、一体何の用事だろうかと考えていた。この時間に、ましてやマンションの屋上などという場所を指定して、良い想像などできるわけもなかった。
彼女は鍵を壊して進入したものらしかった。
屋上には兼本奈緒子の姿があった。腰の辺りまでの鉄柵に手を掛けて、こちらに背を向けている。扉の開閉音で気付いたものらしく、こちらを向くと微笑んだ。
「大羽くん!」
一際大きな声を出すので、驚いた。
彼女は鉄柵から手を離し数歩分こちらに近づいてくると、
「こんな時間に呼び出してごめんね。来てくれてありがとう」
微笑のまま、そう続けた。
「いや、いいんだけど……」
こちらの不安が表情に出ていたのか、彼女は少し俯いて、
「うん。そうなの」
と言った。
そこにどんな意味を付随させたのか、容易に想像できてしまって辛かった。
「最後に、大羽くんとちゃんと話をしようって」
「どうして」と聞いてから、そんなことは愚問だと気付いた。結局僕は彼女を救うことは出来なかった、それだけの話だからである。「話って」
「うん」私ね、と彼女は続けた。「松山高校に入るために、結構苦労したんだあ」
大仰に溜息を漏らすように、声を張った。
僕たちの通っている高校は、県内では進学校として知られている。
「程度の高い学校だからって、程度の高い生徒が居るわけじゃないんだね」
「それは、そうだよ。みんな入るまでしか努力はしない。入ってしまったら終わりだからね」
「それでも期待していた部分があったのにね。見事に裏切られた」彼女はその場から一歩も動かない。仕方なしにこちらが近づいていく。風は余りなかったが、彼女の声は聞こえにくかった。もう、別の場所にいるからだろうか。「堪らなかった。誰かに愚痴を聞いてもらいたかった。それをネット上に求めたのは間違いだったのかもしれないけど、無視することなんてないのにね」
本心かどうかはともかくとして、坂井美雪の望んだ「反省」の色は、少なからず見られなかった。それが少し、胸に痛い。
大抵、望んだことは叶わない世の中だった。
僕と彼女の関係も、そうだろう。
「それでも仕方ないから、黙ってそれを受け入れていれば、きっと順番は巡っていくと思っていた。少し我慢して、そのうち涙を見せて、それで彼女は全て流してくれるんじゃないかなって思った。別の誰かが標的に変わるんじゃないかって」
兼本奈緒子は明確に、笑みを見せる。
頭の中で、彼女の言葉を何度も咀嚼する自分が居るが、飲み込めそうにもない。
「順番? どういうこと? 標的?」
「大羽くんは男の子だから、余りわからないかもしれない。でもね、こういうのって、女子の間では良くあることなんだよ。常に誰かは犠牲になっている。私の場合は自分の掘った落とし穴に嵌っちゃっただけだけど、そうじゃない場合でも」表情に変化は見られない。「結局こういうことって、表面化しないだけで色々なところに蔓延していると思うの。それは多分インフルエンザウイルスとか、そういうものより数が多くて、罹りやすいし、悪質なもの。見て見ぬ振りどころか気付かれないようにひっそりと行われている場合もある。何もなかったかのように見えて、いつの間にかこじらせて、死んでしまう」
「何が言いたいの?」
「私は大羽くんに感謝しているよ。多分、その本当の意味を理解するには、もう少し時間が掛かるけど」
「感謝?」それは全く覚えのない言葉のようで、気味が悪かった。「それでも君は、拒絶したじゃないか」
金蔓にされそうになっていたとき、僕の伸ばした手を彼女は取らなかった。それはどこか嫌悪感に満ちていたようにも、今になれば思える。それなのに感謝しているとは、そぐわない。
「違うの。本当は嬉しかった」前で手を組み、少し俯く。「でも私に関わるとろくなことがないよって、それで突き放したの」
「本当に?」
「本当だよ。飯沼さんとか、ほかの子たちにも悪いことしたなって思う。言い方がわからなくて。どう言えば放っておいてくれるのか」
「放っておけないよ。どう言われても」
「大羽くんは正義感の強い人だね」
「正義感なんてものじゃないよ……、ただ君のことが」
言い終わらぬうちに、
「私、自分の中に確固とした信念を持っている人は好きよ。誰に何を言われても揺らがない。そういう信念をちゃんと持っている人。私はそうじゃないから」僕に向けられている言葉なのかどうかすら、よくわからない。「一方で、それを無理やりにでも行使しようとする人は、余り好きじゃない。押し付けでしかないから。自分の中の正義が、正解である保障なんてないのにね」
情緒に乱れがあるのか、彼女の言葉には一貫性がないようにも聞こえる。
さらりと流された僕の告白は、どこに消えていくのだろう。そんなことを考える。
「兼本さんのしたかった話って、こういうことなの?」
彼女は首を振る。
もったいぶっているような仕草だった。
でも、月光に照らされる彼女は、妖艶で、美しかった。そんな場違いな思考もどこかで働いていることが恥ずかしかった。
「大羽くん、私も君が好きよ」
そしてさらりと、そんなことを言う。
彼女の視線は僕には合わない。
「君のような人が同じクラスに居て、今は良かったと思う」
そして振り返り、完全に顔を隠してしまう。
僕は一歩、そちらに近づいた。
「人間、生まれてきたからには、何か為すべきことがある。私はそう思っているの。それはもしかしたらただのコンビニバイトかもしれないし、あるいは世界を救う程度の大きなことに関わるのかもしれない。でもみんな役割があって生まれてくる。それに変わりはないと、そう思ってる」
「今度は人生の話?」
茶化すような言葉は、震えてしまった。
彼女が一歩、離れていく。
「でも意味や価値、評価もそうだね。人間に付随する大抵のことは、自分ではなくて他人が決めること。悲しいよね。私にそのつもりがなくても、美雪たちからしたら、私はいじめる対象としてしか存在していない。少なくとも最近は。友達としてのレッテルはもうなくて、矮小で、下劣な存在としてしか認知されていない。そういう評価に変わってしまった」
「そんな、卑下するなよ」
「違うの」彼女は首を振る。「そうさせてしまったのは、自分に原因があると、私はわかっている。それは間違いなく事実だとも思う。さっきも言ったよね、仕方ないから受け入れたって。やっぱり、非があるのは私だってわかっているから、仕方なくなんだよ」
「でも」
「私はそういうわけで、無視されることは容認したの」
また、一歩。
彼女は本当に落ちるのか?
「いじめを苦にして亡くなる人が、多いよね」
ずばりそれを口にされると、僕は何も返事をすることが出来なかった。
近づこうと足を動かすことも出来ない。
「かわいそうだと思う。結局、自分を本当の意味で犠牲にしても、何も残ることなんてないのに。それに」とまるで読み聞かせるように大きな声で言った。「大羽くんのように手を貸してくれる人だって居るのに」
早く理解しないといけない。
そう思った。
理解して、意図を汲んで、止めなければならない。
僕に何が言えるだろうか。
「私多分、頭おかしくなっちゃった。無視までは良かった。耐えられた。お金だってまだ何とかなったよ。買えって言われたら買えるくらいのお金は持ってる。でも、写真を撮られたのはちょっと、辛かった。それをされて、私はどういう気持ちになったと思う?」答えられない。「わからないよね。わからないと思う。大羽くんには。でもそれも仕方のないことなんだと思うんだ。別々の人間だしね」
「それでも」何とか声を絞り出す。「それでも助けたいって思っちゃ、駄目だったかな」
情けない言葉はふわふわと宙を舞った。
彼女に届いたか判然としない。
「幸運か不運か、私は大羽くんと出会えた。君のようにまっすぐで、誰を疑うこともなく、自分の正義に従い行動をする人。あなたはきっと私に、もっとすばらしい意味を与えてくれる。価値を付けてくれる。そう思う。だからあなたが好きよ。多分ね」大羽くんは、と言いながら、また一歩進む。「私の裸の写真、見た? あれが私であることをわかるのは、私を知っている人だけ。でも私の知らない不特定多数の人間が、私個人を知らずとも私の身体のことは知っている。それってどれだけおぞましくて、気持ち悪くて、吐き気のすることかわかる? 私の身体を慰み物にする人間が居るって考えることだけで、もう何回も吐いた。学校なんて絶対行けないって思った。だってそこに居る人たちも、私の制服の中を知っているんだよ。私を見て、私の身体を思い出すんだよ。どうだった、ああだったって、許しても居ないのに批評するんだよ。たかが写真って思うかもしれない。でも、一生残るんだ。ずっとずっと、私を知っている人は私の記憶とともにあの写真を思い出す。大羽くん、君は私の裸、見た?」
見え透いた嘘はつけそうになかった。
その間を、返事と受け取ったらしい。
「私は一生、美雪たちを許さないと思う。死んでも、彼女たちのことは許さない」怒りに満ちているのか、また一際大きな声になる。「坂井美雪、中本由香、佐々野祥子。この三人だけは、絶対に」
その三人は彼女の元々居たグループを構成している生徒たちだった。先導しているという意味では坂井美雪が主だったが、ほかの二人も彼女に金銭的要求をしていたことに変わりはない。兼本奈緒子を本心から「裏切った」のは、この三人だと言っても過言ではないだろう。
「殺してやろうとも思った」
さらりと、小さく、言葉を漏らす。
ともすれば聞き逃してしまいそうな声量だった。
「殺して、血まみれにして、それをネットに載せてやろうかって。服を脱がせて、皮を剥いで、本当の意味で裸にして晒してやろうかって」事も無げに続ける彼女がどんな顔をしているのか。想像するだけで僕は吐きそうだった。「みんな心の中では猛獣を飼ってる。牙をむき出しにして、息を荒らげて、獲物をくれと吼えている獣。普段は鎖で繋がれているのに、それは実は脆くて、ちょっとしたことで外れてしまう。そういう杜撰な管理体制の中で飼い慣らしている。落ち着け落ち着けって、理性が抑えてくれている」
まるで、写真の件を知ったときのクラスの様相のようだった。
あのとき、僕の中に理性はなかった。
「大羽くん、私の獣は今、どうなっていると思う? おなかを空かせて猫なで声でこちらの機嫌を取ってる? それとも解き放たれて、今か今かと獲物を狙っていると思う?」さらに歩みを進め、彼女は鉄柵に手を置いた。「難しい話をしすぎたかな。大羽くんには理解出来ない範疇の話だったかもしれない。ねえ」
「何?」
そう返すので精一杯だった。
「いじめは、するほうが悪いと思う? されるほうが悪いと思う?」
「わからない」その言葉には、彼女の真意が、という意味も含んだつもりだった。「わからないよ」
「私は、どちらも悪くなんてないんだと思う。今回の場合は、私のしたことが間違いだったと認める。彼女たちにそうさせてしまったのは私だと理解している。だからどうしたって話だけど。それで別に誰かが救われるわけでも、私が偉くなれるわけでもない。認めた、それだけ。何も広がらない」
ついに彼女は振り向いた。
僕との距離は三メートルくらいだろうか。
酷く長いものに思える。
「いじめは、している側かされている側か、あるいは見ている人たちがそうだと言葉にしたときに初めていじめになる。逆に言えば誰もそれをいじめと言葉にして頭に刻まなければ、それはいじめではない。いじりとか、おふざけとか、都合のいい解釈をされる。これほど蔓延していて、過ちを繰り返させて来ておいて、いまだに学習しない。人が死んで、それでようやく手を伸ばそうよ、大人を信用してみようよ、なんて腐った言葉を吐き出して、自分は揺るがない正義だと悦に浸る。くだらないよね。本当にくだらない。綺麗な人間なんて一人も居ないんだよ世の中。そうでしょ? 誰だって無意識のうちに誰かを排斥しようと働いている。自分以外の人間を理解できないんだと言って貶めようとしている。自分の安定した地位を確立するため。自分の正義は大多数に支持されるはずだなんて欺瞞に溺れてる。私、だから誰にも手を伸ばすつもりなんてなかった。誰にも助けてもらおうなんて思ってなかった。ねえ大羽くん。私がさっきあなたに対して、嬉しかったよって、でも迷惑を掛けるから突き放してしまったって言ったでしょ。それを聞いてあなたは嬉しかった? 自分の正義は正しかったんだと思った? その言葉を真っ向から信じた? 君はずっとそうやって、右向け右で、自分で考え出したつもりになって受け売りの言葉を吐き出して、俺ってば好きな子を救えちゃうかもしれないなんて思う、醜い木偶でしかない。反吐が出る。くだらない。君もほかのみんなと一緒だよ。自分の正義だけは正しいって思ってる。自分の正義を信じれば間違うことなんてないって思ってる。大羽くん、ちゃんと思い出して。私、なんて言った? 無視されることは容認したって言ったの。無視されることはね。僅かにしてもお金を取られて、たった一枚だけど写真を撮られて。そうなったの、誰のせいだと思う? もちろん、実際に私にそういった行動をしてきたのは美雪たちだよ。それは間違いない。でも、それを助長したのは他ならない君なんだよ。好きな子を救いたいだとか、いじめは良くないなんてくだらないことに愉悦して手を出してきた君なんだよ。君が美雪たちにちょっかいを出さなければ、私は彼女たちに許された。違う子に順番が移った。君が美雪たちに意地を張らせた。引き返せないところに引き込んだ。そんな自覚ないでしょ。無理解な人間が、どうして自覚なんて出来ると思っていたの? 君は何も知らない。何も知らないんだよ。本当のところを全然ね。言葉に踊らされて、社会の向きに合わせて、それが正しいと信じ込まされて、現状を見ずにただそれに従って、本当に馬鹿だよ。君、いじめってなんだと思う?」
言うと、彼女はこちらに近づいた。
そして僕の手を取る。
鉄柵のほうへ導くように、少しずつ後退する。
そしてそれを背にしたとき、僕を抱きしめた。
僕は何も理解できないまま、抱きしめられた。
「でも私はそんな君が好きだよ。君に出会えて本当に良かったって、嘘偽りなく思う」
掌を返すように甘い声を出す。
頭が何も理解しようとしない。
「君はすばらしい人間だよ。君だけが私の救いだよ」
僕の胸に顔を埋めたまま、言葉を続ける。
くぐもって聞こえる。
こんなときでも、鼓動は速まる。
「人は何か意味を持って生まれる。そうなのだとしたら、私は、世間に知らしめるために生まれたんだと思う。この腐りきった世の中で、信じられているくだらない妄言を覆すために。一般における、大多数が正解だと思い込んでいる正義に対して、それは違う側面から見れば悪にしかならないのだと教えてあげるために。私の中の猛獣が、よだれを垂らして君を捕らえた。良かったね。大好きな人から、意味を貰えて」
そこまで言って、彼女は顔を離した。
そしてそれを耳元に近付けると、
「いじめられたことのない人間に、いじめられている人間の気持ちなんて理解できないんだよ。それなのになりふり構わず手を伸ばして、あてずっぽうに振り回して、君は状況をめちゃくちゃにした。馬鹿な正義だね、そんなの。私はそんなの信じない」
笑うような、息遣い。
「でも安心して。君はこれから本当に優しい人間になれると思うよ。きっと君の信じていた世間が、君のことをいじめてくれるから」
カン、と何かの音がした。
胸に衝撃を覚えていた。
目の前に彼女が居ない。
水風船が割れるような、耳にうるさい破裂音が届く。
落ちた。
彼女が落ちた。
鉄柵から下を見ると、血溜まりの中に彼女だったものがある。
節々から骨が突き出ている。
異形。
でも、一瞬前まで彼女だったものだ。
僕は急いで振り返った。
何もわからない。
でももしかしたらまだ何とかなるのかもしれない。
助けてあげたい。
僕は君の事を見ていた。ちゃんと見ていたんだと、反論したい。
正義に踊らされたわけじゃなくて、君が好きだから。
だから君をそこから救い出したいって。
見ていたんだ。
言われるまま言葉に出来ずにいた想いを、伝えたい。
間に合うのかなんてわからない。
でも行かなくちゃいけない。
生きていれば何とかなるって。
僕と二人じゃなくてもいい。
ここから逃げ出せば何とかなるかもしれないんだって。
しかし、回した足はすぐに止まった。
それが何か、瞬間的には理解できなかった。
塔屋の上、そこに、煌々と灯りを漏らす何かがある。
胸のうちがざわついた。
あれは、なんだ。
あそこにあるのは、なんだ。
階段を使って、そこに上る。
ああ。
そこで僕は、僕自身と見詰め合った。
間抜けな顔をして、知らないうちに流れていた涙をそのままに、表情を落とした自分と、見詰め合った。
そうだ。
考えてみれば酷く単純なことじゃないか。
一体誰が、「ネット上に悪口を書いた」と言った?
どうして彼女は時折声を大にした?
それは何を言うときだった?
彼女が見出した僕の価値とは?
なぜ飛び降りるのに僕を呼び出した?
「きっと君の信じていた世間が、君のことをいじめてくれるから」?
ああ。
僕の醜い顔面を塗りつぶすように、白い文字が流れていく。
「松山高校の、大羽。俺は見ていたぞ」
誰かが見ている。
それを教えたかっただけだった。
誰かに見られているとも知らずに。
誰かが見ている 枕木きのこ @orange344
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