第3話
土日を挟んで教室に入ると、まず視界に入った様子を見て、ほっとした。坂井美雪のグループが、兼本菜緒子の机の周りで、談笑している。「もう少し」が終わったのだと、そう思った。
だがそれは大きな勘違いだった。
「奈緒子、お願い、今のうちにジュース買ってきて」
その声が、耳を突いてきたからだ。
それは坂井美雪ではなく、別の女の子の声だった。懇願するように両手を揃え、不器用なウインクを見せている。兼本奈緒子は少し表情を固くした。でも、
「わかった」
席を立った。
誰もそれを気にしていない。それどころか、入ってきたときの僕と同じように、「ようやく兼本さんもグループに戻れたか」と安堵しているようにさえ思える。安堵して、また、見ない振りを決め込んだかのように、自分と自分の友達の世界から抜けてこようとしない。
兼本奈緒子が教室を出て行ったのを視界の隅に認めてから、坂井美雪のほうを見た。彼女はそれに気付いて、視線がぶつかる。「何?」口を動かして、メッセージを送ってくる。「やめろよ」と返すと、「何で?」そう言っているようだった。
これでは何も変わっていない。それどころか、無視よりも質が悪い。
胸のうちでぐるぐると思考が渦巻き、吐きそうだった。何かを言わなくてはならない。坂井美雪に対し、それは間違いであると伝えなければならない。そう思うのに、言葉が具体化しない。口を突いて出ない。そうしているうちに兼本奈緒子が戻ってきてしまう。
「ありがとー、助かるわー」
「ううん、いいの。あの、お金」
「あ、先生来るよ、後でね」
「……うん」
不甲斐ない。不甲斐ないと感じることは出来る。それがまだ救いだった。
この場合、どう対応すればいいのかわからなかった。無視をされるのであれば、僕だけはその流れに逆らって、例え彼女自身に拒絶されようとも話し続ければよかったのかもしれない。ただ、金銭的な要求をされ、それを止めるにはどうすればいいのか、わからない。「奢ってくれたんだよ」と言われたら終わりだった。彼女自身が「それは奢ったのではない」と言わなければ、事実は隠蔽される。彼女にそれが言えるかと言えば、多分、言えないのだろう。そう、言えないのだ。だから、暗い表情をして、俯く。
助けなくてはいけないなどと使命感を背負うのは、偽善だとも思う。僕にしか出来ないと言うのは、自惚れだ。それでも、助けたい、僕が助けたいのだとそう感じることは、笑われることだろうか。
考えたが、それがまとまらないうちに昼休みになる。
「なーおこ」
机の上にお弁当箱を広げていた兼本菜緒子のもとに坂井美雪らが近寄ってきた。
「あたし今日お昼買い忘れちゃってさー、お願い、買ってきてくれない?」
「私メロンパンがいいなー」
「紅茶もついでに」
「あ、じゃあ私何にしよっかなー」
周囲のクラスメイトは喧騒を構成するのに忙しなく、意識的か無意識か、この会話を十全には聞いていないらしく、誰もそちらに視線を向けるものがなかった。猪瀬勇太郎が僕の机に寄ってきて、
「購買行こうぜー」
と、彼も気にしたそぶりのない様子で声を掛けてくる。
僕はひとつ頷いて、これが正しいかはわからないが、
「なあ坂井」
声を飛ばした。
坂井美雪は不服そうな顔をこちらに向ける。
「何?」
「買ってきてやるよ。メロンパンと、紅茶と、なんだっけ。メモ書いてくれ」
彼女は腕を組んで、舌打ちをした。
猪瀬勇太郎がそれを見て、おいおい、と小さく漏らした。
「大羽くん、私ら、奈緒子に頼んでるの。わかる?」
「やめとけよ、なんか怒ってるぜ、関わるなよ。早く行こうぜ」
耳元で猪瀬勇太郎が声を掛けるのを無視して、
「わかんないから、早くメモ書けよ」
「何怒ってんの?」坂井美雪が声を上げて、教室内が瞬間、静まる。「意味わかんないんだけど」
「別に理解しなくていいよ。どうせ目的地同じなんだろ、だったら一回で済ませてやるからメモ渡せって話してんだよ」
「おいやめとけよ」
「あー、わかった」坂井美雪は殊更大きな声を出した。「大羽くん、奈緒子のこと好きなんだ?」
このときには僕たちのほかに声を出している人間は居らず、周囲の全てが、今の言葉を認知した。
そして多分、僕も坂井美雪も、歯止めが利かなくなっていた。
「それでやたら構うんだね奈緒子のこと」
「そうだよ」
「うっわー、認めた」
「好きだよ。だから構うんだよ。やめろって言ってんだよ。悪いかよ」
兼本奈緒子がこちらを見た。
「なんか声高に告白し始めたんですけど。気持ちわる」
坂井美雪とそれを囲む女子生徒たちがくすくすと笑い声を立てる。
ほかの生徒は不安そうな顔でこちらを見ている。
「やめてよ」
兼本奈緒子が小さく零した。
僕は彼女を見た。
彼女はこちらを見ないまま、
「構わないでよ」
言葉を繋いだ。
そして席を立つと、教室を出て行った。
「待ってよ」
追いかけようとすると、
「大羽くんどんまーい」坂井美雪は笑ったまま、「ここは友達の私が行くから。君はそこに居ればいいよ」
彼女たちの一群が兼本奈緒子を追うように教室を出て行く。
誰かがついた溜息を始めとして、徐々に喧騒が取り戻される。
腰が砕けるように、着席した。
「まあ、なんつーか」田中信二が肩に手を乗せてくる。「ドンマイ」
このようなことがあっても、僕も兼本奈緒子も、翌日も変わらずに登校する。ただ、彼女は僕を見なかったし、僕も彼女を見なかった。
そして結局、坂井美雪たちの言動も変わらなかった。
何も出来なかった、わけではない。ただそれが、結果を伴わなかった。せめてもの救いは、猪瀬勇太郎も田中信二も、ほかのクラスメイトも、何もなかったかのように今までどおり接してくれることだった。あんなにも恥ずかしい告白を聞き流してくれて、ありがとうと言うのも変な話だったが、妙にこれを気にされて余所余所しくされ、それこそ無視されてしまうよりはましだった。
誰だって、自分をないもののように扱われることは怖い。ただでさえ自分の存在意義などわからないまま生きているのに、他人からもそれを与えられないのだとしたら、お前は存在しなくても構わないと言われているようで、意識を持ち、思考する人間にとってそれは最も忌避すべき恐怖であると思う。
僕だけはちゃんと見ていると、それを認知し、止めようとしているのだと、彼女に知らせたい。傲慢だろうか。偽善だろうか。それでも構わない。見て見ぬ振りは出来ない。それだけの話だ。
ただ、そうも行かなくなってきた。
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