7.
自室に戻るとにゅるるちゃんしかいなかった。
「あれ? にゅるるちゃんだけ? ちゅるるちゃんは?」
「ちゅるるちゃんはお散歩なのです」
にゅるるちゃんはまんがを読むのを中断して答えてくれた。
人の命を奪いに来ておいてお散歩とはまた暢気な。
「みゅるるちゃんも?」
「みゅるるちゃんは鴨? を捕まえると言っていたのです」
「カモね……」
「?」
にゅるるちゃんは不思議そうにぼくを見上げた。意味が分からなかったようだ。
それにしても貧乏神幼女おそるべし。
貢ぐ男を狩りにいったか……。
ぼくはその哀れな男を思い、短い黙祷を捧げた。
にゅるるちゃんは読んでいたまんがとぼくをちらちらと見比べていたが、意を決したような表情になる。
「さ……さっき!」
自分の声の大きさに驚いて言葉が止まってしまう。
「さっき?」
「……さっき、みゅるるちゃんが慎太さんに言ってたことはテレ隠しなのです」
今度は極端に小さな声だった。
「えーと、三人姉妹ってぼくが言ってみゅるるちゃんが怒ったこと?」
幼女はこくこくと頷く。淡い紫色の瞳に見上げられ、ぼくは思わずにゅるるちゃんの目に魅入ってしまう。するとにゅるるちゃんは恥ずかしがって俯いてしまう。
「……にゅるるもダメダメな神様なのです」
「?」
「にゅるるは上手に神様関係を築けないのです。自分から声をかけてお友達を作れなくて、ずっとお友達がいなかったのです」
神様関係とはおそらくぼくたち人間で言うところの人間関係のことだろう。
「神様養成学校でいつもひとりだったにゅるるに、ちゅるるちゃんが声を掛けてくれたのです。お友達になってって、ちゅるるちゃんが言ってくれたのです。すごくすごくすごくうれしかったのです」
にゅるるちゃんは当時の喜びを反芻するように遠い目をして頬を緩める。それも束の間、ぼくの目に気付いて再びおどおどしだした。
「だ、だ、だ、だからちゅるるちゃんはにゅるるの一番のお友達なのです!」
「うん、友達っていいよね。にゅるるちゃんがうらやましいよ」
ぼくは本心からそう言った。
するとおどおどしていたにゅるるちゃんは落ち着いて、ほんわかした笑顔を見せてくれた。ああ、この子、ほんとにちゅるるちゃんのことが好きなんだなぁ~となんの衒いもなく思える笑顔だ。
「みゅるるちゃんも、口ではいろんなこと言ってるのですが、にゅるると同じでほんとはちゅるるちゃんのことが大好きなのです」
友人を思いやってか、にゅるるちゃんはみゅるるちゃんのアレな部分を省略したが、話の要点は分かった。つまり、高飛車な態度をモットーにしているみゅるるちゃんも、やっぱり神様関係に失敗したクチなのだ。それで周りから浮いているところを、ちゅるるちゃんが声を掛けたのだろう。それで三人は仲良くなった、と。
それにしても、ちゅるるちゃんの博愛精神というか、積極性というか、なんと言うか。全部ひっくるめて、ちゅるるちゃんらしいと思えてしまう。
「うん、大丈夫。別にみゅるるちゃんがちゅるるちゃんと仲が悪いなんて思ってないから」
「ありがとうなのです」
なんでありがとうなのか分からないが、気持ちは伝わってきた。
「バカンスに来たって言ってたけど、ほんとはにゅるるちゃんもみゅるるちゃんも、ちゅるるちゃんの手助けのために来たんでしょ?」
にゅるるちゃんは驚いて背をピンと伸ばした。
そんなに大好きな友達が困っているのだ。助けたい、手伝いたいと思うのが人情というものだろう。昨日、みゅるるちゃんがぼく相手に署名捺印させる手練手管を実演してみせた裏にはそういう事情があったのだ。
「余命換金係はできたばかりの部署でも、ちゅるるちゃんには最後のチャンスかもしれないのです」
ぼくは言葉を失う。
にゅるるちゃんの表情がこの世の終わりが来たかと思わせるほど暗くなった。
「ちゅるるちゃん、このままだと神様失格になってしまうのです」
「神様失格?」
小さく頷く。幼女はそれっきり黙り込んでしまう。
ぼくは気まずくなって、なにより自分が関わることを知りたくて言葉を継いだ。
「……失格って? 神様は神様でしょ?」
「失格は失格なのです。役目の終わった神様たちが行くところへ行かないといけないのです」
「役目の終わった神様?」
「今の一番偉い神様は何十代目かの一番偉い神様なのです。前にいた一番偉い神様たちは帰ってこれない遠くへと行ってしまったのです。役目を終えた一番偉い神様だけではなく、神様でいられなくなった神様もそこへ行ってしまうのです」
にゅるるちゃんの口振りは深刻で、嘘偽りは一切ないことだけは分かった。ただ、にゅるるちゃんの言ったことの意味はまったく分からない。
一番偉い神様? それが何十人も居て、居なくなる? 神様でも帰ってこれないところ? 人間たるぼくの貧相な想像力ではうまくイメージできない。
にゅるるちゃんは自分が言ったことに怯えだす。神様でも理解できない、想像できないことにはやはり恐怖を感じるのだろうか。死ぬことがどういうことなのか分からず泣き出してしまう人間の子供みたいに。
自分の中に芽生えてしまった恐怖感を追い払うように、にゅるるちゃんは両手で顔を挟んで体を激しく揺する。見ていてこっちが不安になるくらいの怯えかただった。
「にゅるるちゃん! 落ち着いて!」
ぼくは疫病神幼女の両手を掴んで落ち着かせようとした。
幼児(事実、幼女なのだが)のようにイヤイヤをするにゅるるちゃん。ぼくの手を振りほどこうと更に激しく体を揺する。いま手を離したら、にゅるるちゃんだけでなく、ぼくまでケガをしそうな勢いに、ぼくは腕の力を強めた。恐怖心の伝染した鳩(天使)がぼくの頭部を固い嘴でつつきまくる。
転機は唐突に訪れた。
「ただいま~でちゅ!」
騒々しくドアを開け放ち、死神幼女が帰還したのだ。
ぼくは少しホッとした。これでにゅるるちゃんが落ち着いてくれる。或いはちゅるるちゃんがにゅるるちゃんを落ち着かせてくれる。
ぼくは安堵の表情を浮かべてちゅるるちゃんを見た。
目が合う。
一瞬の空白。
次の瞬間、ちゅるるちゃんが猛ダッシュ。
ぼくに強烈な体当たりを食らわせる。
ぼくは壁まで吹っ飛んだ。
その隙ににゅるるちゃんを抱きかかえて、ぼくから距離を取る。
ひしっとにゅるるちゃんの頭を抱きしめ、キッとぼくを睨み据える。
ぼくは体当たりを喰らった脇腹をさすりながら立ち上がる。
「な、なに? どうしたの?」
「ロリコン!」
「???」
「にゅるるちゃんを手篭めにしようとしてたでちゅ!」
はぁッ!?
どんな勘違いだよ!?
……あ。
暴れるにゅるるちゃんを抑えてるのを、ぼくがにゅるるちゃんにイタズラしてるように見えたってことか?
「ち、違う! これは、ねぇ、にゅるるちゃん?」
ぼくは同意と救いを求めてにゅるるちゃんを見た。
疫病神幼女は親友に抱きつき、頭を撫でられて慰められている。自分の憶測に怯えていたにゅるるちゃんは、さっきまでの恐怖心をどうにか払拭しつつあるようだったが、まだぼくの同意に応えられる状態でもなかった。
つまりぼくは依然として、ちゅるるちゃんの目には性犯罪者として映っている。
にゅるるちゃんの恐怖心はぼくが原因ではなく、にゅるるちゃんの憶測が元になっている。にゅるるちゃん自身の憶測を出発点にして自己完結している恐怖心を、ぼくがどうやって死神幼女に説明できよう。いや、出来ない(反語)。
詰んだ……。
ぼくは暗澹たる思いで天を仰いだ。
帰ってきたみゅるるちゃんは、吊るされているぼくを見ても特に何も言わなかった。
すげぇ。
普通なら驚くだろうに。
ぼくはロープで簀巻きにされ、梁に吊るされていた。
暗澹たる思いで天を仰いでいたぼくの股間に、ちゅるるちゃんは強烈な正拳突きをお見舞いしてくれた。タマタマとサオサオが反応する間もなかった。ぼくはロープで縛り上げられ、梁に吊るされたのだった。
吊るされるというのは、昨夜の簀巻きで放置より更に高度なプレイとも言える。
さっきから何度か、にゅるるちゃんが勘違いであることを説明しようと試みてくれるのだが、ちゅるるちゃんは訳知り顔でそれを制して箒の柄でぼくを突くという、最早プレイなのかご褒美なのか苦痛なのか分からない状態が続いていた。
柄で突かれるたびにぼくは「あぅっ」と呻いていたのだが、それがどうにもみゅるるちゃんのお気に召さなかったらしい。
「……聞きたくないから聞かないけど、一言だけ言っておくわ。お仕置きで喜ばせるのは二流よ。一流は完全放置」
聞きながらもちゅるるちゃんはぼくを突く。
「あぅっ」
みゅるるちゃんがもの凄く嫌そうな顔でぼくとちゅるるちゃんを交互に見比べた。
「ちゅるるちゃん、聞いてほしいのです。勘違いなのです。慎太さんはロリコンですが、にゅるるを襲ったわけではないのです」
ロリコンじゃねェし……。にゅるるちゃん、ほんと何気に毒吐きますね。
「ちゅ? じゃあなんで慎太はにゅるるちゃんの手を掴んでたんでちゅ?」
「あ……」
神様失格の話をしていたなんて言えるわけがない。案の定、にゅるるちゃんは返事に困り、あっちを見、こっちを見、挙句に視線だけでぼくに助けを求めてくる。
ぼくは吊られてるんですよ?
「……暖かいから窓開けっ放しにしてたら、ハチが入ってきてさ、追い出したんだけど、にゅるるちゃんがパニクっちゃて、それであんなことになってたんだよ~」
ぼくはなんとか話を作って助け舟を出す。これは自分自身への助け舟でもある。
にゅるるちゃんは助かったとばかりに笑みを浮かべ、拍手を打つように手を叩いた。
「そ、そうなのです。ハチなのです。ハチがブンブンいってて怖かったのです」
「…………………………」
「それにもうお昼ごはんの時間なのです」
この家で食事を準備できるのがぼくだけであることを喚起する。うまい策だ。案の定、承服しかねるといった表情と態度ではあったが空腹には勝てず、ちゅるるちゃんはロープを解いてくれた。
手錠を外してもらった犯人が意味もなく手首をさするみたいに、ぼくはロープで縛られていた部位をさすった。そして一時間ぶりの地球(と言ってもアパートの床なのだが)の感触を足の裏で堪能する。地球ってこんなにも愛おしかったのか、とちょっと本気で感動した。
「よーし、お兄さん腕によりをかけちゃうゾー」
「あ、みゅーは食べてきたからいらなーい」
「?」
あー、カモを捕まえたってことか。凄まじいハンティング能力だ。まぁ、昨日のアレを思えば納得もできる。おフランス料理とかイタリアンを奢らせたんだろうなぁ……と想像しつつ、特売日に百グラム四十八円で仕入れて冷凍保存しておいた挽肉を取り出す。それをニンニク、玉ねぎと一緒に炒め、ホールトマトを加えて煮て、パスタを茹でて絡めた。
貧すれば料理スキルが上がる。ここ半年の経験でぼくはそう確信するに至った。このまま順調に貧乏が進行すれば近い将来ぼくはイタリア料理のシェフになれると思う。飢え死にしなければ、の話ではあるが。
ちゅるるちゃんとにゅるるちゃんは喜んでパスタに取りかかる。ちゅるるるるん♪ と上機嫌に麺を啜るちゅるるちゃんを横目に、ぼくはもろみさんにそっと声をかける。
「もろみさん? ちょっとお聞きしたいことが……」
お猫様は「にゃぁ」とも鳴かない。ただ力強い視線で続きを促す。ぼくは幼女たちに聞こえないよう細心の注意を払いつつ聞く。
「神様でも帰ってこれないところ、ってあるんですか?」
豪奢な毛並みの猫天使様はため息をついた。
「誰に聞い――そうか、にゅるるね?」
「…………」
にゅるるちゃんの立場が悪くなってはまずいので、ぼくは否定も肯定もしなかった。が、それがなによりの答えになってしまった。それを誤魔化すために目をそらす。ちゅるるちゃんとにゅるるちゃんはパスタに集中している。みゅるるちゃんは持ち帰ったファッション誌をのんびりとめくっていた。
「まぁいいわ。それは『忘却の地平』のことよ」
「忘却の地平……」
意味は分からないし、具体的になにかイメージできるわけでもない。それでも呟いていた。
「ある日突然、神様はそこへ行ってしまうってことになってるわ」
「なってる?」
アバウトにも程がある。
「神様は存在してるけど、死んだりしないの。だから役目が終わった神様は『忘却の地平』へ赴くってわけ」
「?????」
存在してるけど死なない?
神様の世界では、生まれるの対義語は退去なのだろうか?
「神様は生命体ではない、ってことなんだけど……まぁ、理解しようと思わないことね。そういうものだ、で納得しなさい」
「はぁ……」
「で、神様でも帰ってこれないところはあるか、だったわね? 厳密に言えば『ない』わ。でも、『忘却の地平』を超えて帰ってきた神様もいないの。理由は不明。『忘却の地平』の向こうに何があるのか知ろうとした神様もいたけど、その神様も行ったきりで、帰ってこなかった。だから神様でも帰ってこれないところって言うより、帰ってこないところって言うほうが正確ね」
「…………………………」
なんか、とんでもない話だということだけは分かった。内容はまったく理解できなかったが。
「神様もそこがどんなところか知らないの。にゅるるが『忘却の地平』を怖がってるとしたら、そこへ行ったらどうなるか分からないから。人間の子供が、死んだらどうなるのか理解できなくて泣いてしまうようなものよ」
その辺の予想は当たっていたらしい。
「えーと、役目が終わった神様って、どういうことですか? 神様の役目が終わる?」
「神様が神様として機能しなくなることよ」
「神様失格は?」
「神様が役目を終えてしまうこと」
意味がループしてるだけのような気がして、どうにも釈然としない。釈然としないが、どこがどう釈然としないのか、ぼくの脳では突き詰められない。
「……ちゅるるちゃんは神様失格になるんですか?」
「相対評価でも絶対評価でもない。客観評価ですらない。神様失格は自己評価の結果よ」
「???」
「この話題はもうおしまい。神様の常識や理屈を人間が理解するのはそもそも無理なのよ。サルに人間の習慣や常識が理解できないのと同じ。考えるだけ無駄。あなたはただ単に、普通の貧乏神と疫病神と死神に取り憑かれただけ」
「ぜんぜん普通じゃねぇし。貧乏神と疫病神と死神ですよ」
「まだマシなほうよ」
「どこがだ」
「いいの? あの子たちが部署異動してから来ても」
「部署変えられるんですか? だったらそうしてくださいよ。つーか、むしろ望むところです。今より良くなるはず!」
「鬼神と魔神と破壊神でも?」
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
リアルに想像して寿命が四十九日ほど縮んだ。鬼神は色々と鬼なみゅるるちゃん。魔神は泣きだしたら手に負えなさそうなにゅるるちゃん。破壊神は言わずもがなだ。
幼女たちがぼくともろみさんを不思議そうに見ている。
もろみさんの言うとおり、この話題はここで終わらせるしかなかった。
パスタを食べて、すべての食器を洗った。そして甚だ不本意ではあったが、ぼくは如月氏の『あとがき小説』とやらを読むことにした。
苦痛以外のなにものでもない。
そして、この苦痛は多くの人で等しく分け合うべきだと思う――
× × ×
本書は「あとがき小説」である。
全編が「あとがき」という前代未聞、空前絶後の試みである。
つまりこの文も「あとがき」である。
つまり小説ではない。
誰だ、「あとがき小説」なんて言ったヤツは! 前に出ろ。
……………………………………………………………………………………………………………………あぁ、失礼。前に出ていたので思わず言葉が途切れてしまいました。
いやはや。
何の話でしたっけ?
あとがき小説?
そう、あとがき小説だ。これは人類史に残る挑戦である。時代を先駆けすぎているため、私の真意が伝わらず、誤解する読者が続出する可能性もある。
しかし!
私はそれでもこの難題に裸一貫で挑む。
むろん、紳士としてネクタイだけは忘れず着用するが。
いろいろと許されないことだとは思う。
エコロジー的なものを鑑みて、ここは思うだけで済ませておこう。
しかし、私は読者に一つだけお約束しよう!
読んで損をさせるつもりもない! と。
騙されたと思って読み進めてほしい。
あなたはきっと、騙されたことに気づくでしょう。
イッツ・マイ・おちゃめ。
さて、冒頭から「あとがき」のように書いてきたが、実はここまでは「まえがき」である。
ええっー!!
驚くのも無理はない。
私も驚いた!
「まえがき」とは本文の前に書くから前書きなのである。「まえがき」の次のページにあるものこそ、本文である。
なので、ここからは本文をお楽しみいただきたい。
本文
本文を楽しんでいただけただろうか? さて、ここからが本当のあとがきである。
というのは嘘である。
なお、前掲の文は巧妙に「本文」を装った「あとがき」である。
油断は禁物。
特に本書においては油を断つとギィギィと耳障りな騒音が発生するので注意されたい。チェーンの錆びた自転車かよ、とは口が裂けてもいえない。だから書いてみた。
閑話休題。
「本文」が「あとがき」であった以上、「まえがき」は「まえがき」でなく、「あとがき」なのであった。
私が言うのも憚られるが、正直ここまでくるともう「あとがき小説」ではなく奇書である。誰です、こんなもの書いた人間の精神が奇書く悪い、なんて言うのは。
いいでしょう、許しましょう。
だって精神は見えないから気色悪くても問題なし。
見た目が気色悪いって言われたら本気で落ち込む。
てか泣く。
ほーほけきょ。
春かよ。
頭がな!
そう、頭。頭だ。頭に問題があるのだ!
聞いていただきたい!
そして読者よ、私と共に怒れ!
半年前のことだ。
ある日突然、なんの前触れもなく私の頭に恐怖の大王が舞い降りたのである!
主に頭皮のあたりに!
信じられようか。
私は信じられなかった。
この現実に対して、私が最初に抱いた気持ちは「私に限って」であった。
これは重い疾患を発症した人、重大な事故の当事者になってしまった人が陥る精神状態となんら変わることがない。
つまり私は重篤な疾患を抱えてしまったと言っても何ら問題がない。
想像してみてほしい。
あなたの余命は六ヶ月です、と宣告された人の気持ちを!
私がなにをした? どんな悪いことをしたというのかッ!
タバコは吸わない、酒も飲まない、ギャンブルもしない! 妙齢の女性を追い掛け回すなど言わずもがな! なのに、なのにッッ!
なんでッッッッッ…………(涙)
見間違いに違いないと、私は鏡を凝視した。鏡なんぞ、思春期以降は数えるほどしか見ていなかったのに、見たくなかったから遠ざけていたのに。凝視する日が来ようとは運命の皮肉であった。そんなことはどうでもいい。鏡である。凝視である。それこそ鏡のほうが怖がって逃げ出すほど凝視した。しかし、鏡はやたらと間引かれた生え際を映すだけであった。
現実に打ちのめされた私はそれ以来、上を向いて歩くようになった。
前向きな気持ち、積極的な精神を獲得した訳ではない。
前から歩いてくる男たちの生え際を見定めるためだ。
後退した戦士たちとすれ違うたびに、私はああなるか、こうなんじゃなかろうか、と怯えることとなった。今まで気にしたこともなかったが、後退には実に様々なパターンがあったのだ! それこそ十人十色、百人百様であった。こんな発見したくなかった。
そうそう、鏡もよく見るようになった。普通は逆だろう、後退してしまった己を認識したくないから鏡から目を逸らすようになるはずだ。
だが私は違う。
そこいらの凡百の凡夫とは器が違う。
私は探すことにしたのだ。
世の中にはこんなにもたくさんの鏡がある。
ならば一枚くらい、間引かれていない私が映る鏡があってもいいじゃないかッ!!
実に前向き、積極的な精神と言わざるを得ない。
ちなみに、間引かれていない私が映る鏡が発見されたら、私はその鏡を命よりも大事にする。今現在、私の命より大事なものは幼女だけである。鏡は幼女に次に大事にされるであろう。
しかし――と思う。
若かりしころの私は若かった。
意味が分からない?
大丈夫、私と同じ年齢になれば分かる。
あのころ、私は禿げるくらいなら死んだほうがマシだと思っていた。
いやはや、まったく……
死んだほうがマシどころか、人類を滅亡させたほうがマシだ!
私の毛が滅びるくらいなら、世界が滅びればいいんだッッッッ!!!
しかし私はライトノベル作家である。転んでもタダでは起きない。
この体験からひとつのプロットを起こした。
起きないのに起こす。
もはや陶酔できるレベルの特殊能力。
話を戻そう。
薄毛に悩む天才科学者の物語である。
彼はその天才的な頭脳をフル活用し、薄毛を治す研究ではなく、地球上のすべての男を薄毛にするウィルスの研究に取り組む。全員が薄毛なら、薄毛は悩みではなくなると考えたからだ。天才の肩書きに恥じない壮大なプランである。そして巻き起こる騒動。天才科学者を応援する薄毛連盟。薄毛ウィルス散布を阻止せんと立ち上がる整髪料業界と理容師たち反薄毛連合。
薄毛ウィルスを巡る争奪戦!
飛び散る毛髪!
死に絶える毛根!
シュールレアリスム・スリラーの傑作になること受けあいである。
ふむ? 退屈そうですな。
仕方ない、髪の話はここまでにしましょう。
では次はカミの話にしましょうか。
ふざけるな?
いやいや、カミはカミでも神の話――
□ □ □ □
「リリエラ! あなたいい加減に寝なさい! 二十日間も徹夜するなんて神様でも根を詰めすぎよ!」
「ああ、もろみさん、見つかってしまいましたか」
「見つかるに決まってるでしょ」
「すみません……あれ? でもどうして二十日間って知ってるんですか?」
「! そ、それは……」
リリエラは暢気な顔でもろみを見ている。もろみは耳まで赤くして黙り込んでしまう。
「なんだかすみません。困らせてしまったみたいで」
完全な見当違いを平気で述べてしまう男に、もろみも助かったと喜べばいいのか、脱力すればいいのか複雑な気持ちになる。
本当は二枚目なのに、寝てないのと入浴していないのでヨレヨレなリリエラは儚げに微笑んでみせる。
それは、恋愛なら百戦百勝を自負するもろみをも蕩けさせる微笑。
ひとの気も知らない鈍感男、なんでこんな男を――もろみは自分自身を呪いたくなる。
「い、いいから来なさい。お弁当つくってきたからそれを食べて、少し寝なさい」
「すごいですね、もろみさんお料理できるんだ」
「うるさい!」
もろみは怒ってみせながらも持ってきた包みをほどき、三段重ねの重箱を取り出す。
何故もろみが怒っているのか理解できない男は、頭を掻きながら久しぶりに立ち上がると応接用のテーブルに移動する。
リリエラの顔を見ながら、もろみがちょっと得意げに蓋をあけた。
出汁巻き卵、キンピラ、ポテトサラダ、手羽元の甘辛煮、ドレッシングで和えた生野菜等々が彩りも鮮やかに現れる。二段目には牛肉の竜田揚げや鳥の唐揚げ、焼き魚などのメインディッシュ。そして三段目には寸分たがわず同じ形に整えられた三角おむすびが並んでいる。
リリエラはもろみと重箱を交互に見て、口を動かしかけた。
「言いたいことは食べてからにして!」
職場では才媛で知られ、合理主義と完璧主義の極みのようなもろみがこうやって家庭的な一面を見せたことは今までなかった。リリエラはもろみに言われた通り、黙って三角おにぎりに手を伸ばす。
「いただきます」
はぐっ、と一齧り。昆布と一緒に炊いたごはんの旨みと甘み、刻んだ梅肉の酸味がリリエラの口内に広がる。もろみが息をつめて見ていることにリリエラは気づかない。
もぐもぐと咀嚼していたリリエラの動きがぴたりと止まる。
「おいしいです、もろみさん」
リリエラは率直な感想を述べた。
緊張していたこと、鈍感男の笑顔に安堵したことがどうにもこうにも腹立たしくなり、もろみはリリエラの感想を無視して熱い香茶を入れる。かぐわしい香りが立ち昇り、埃っぽい研究室に満ちる。
たちまち一つ平らげたリリエラが香茶に手を伸ばした。
「すごいですねもろみさんは。仕事だけじゃなくて家事も完璧にこなしちゃうんですね」
「あ、当たり前でしょ、わたしを誰だと思ってるの」
腕組みし、ただでさえ豊かな胸を強調するかのように胸を張る。拳を握りこみそうになるくらい嬉しい褒め言葉だったが、それを知られるのが嫌でついつい尊大な態度をとってしまう。もっとも、鈍感男は鈍感だから鈍感男なのだ。美女のそんな葛藤など知る由もなく、暢気に出汁巻き卵を口に放り込み、二つ目のおにぎりに手を伸ばしている。
もろみはリリエラが二十日間も向き合っていた実験装置に目を向けた。それは機械的機構とは無縁であり、フラスコや試験管といったものでもない。見た目は子供用の玩具に似たブロックや小さな動植物の模型だ。これは神の実験道具だ。玩具ではない。
もろみは呆れた声で聞く。
「で、あなたは何をそんなに熱中していたの?」
「ああ、これはですねぇ……」
二つめのおにぎりを平らげた学究肌の神は、目をショボショボさせつつ、香茶で一息つく。
「天地創造の漸次元シミュレートをしていたんです」
それは死神課所属の課員の仕事ではなかった。
「あなたねぇ……複雑な生物が増えてきて、死神課も忙しくなってきているのよ? 新人クンを指導する立場のあなたがこんなことじゃ――」
「もぐもぐもぐもぐ」
リリエラは子供のような表情で三つめのおにぎりに集中している。
もろみは膝に頬杖をついて、そんなリリエラに見入ってしまう。
手作り弁当で釣り、もう無茶はしないようにとお姉さんキャラで諭す。
いつもの能吏としての一面とは違う、料理や気遣いもできるところを演出する。言ってみれば、こちらが女であることを鈍感男に意識させる作戦だったのだが、邪気なくおにぎりをほおばるリリエラを見ていると、そんなことがどうでもよくなってくる。
上機嫌でこちらを見ているもろみの視線にリリエラも気付いた。
「ああ、すみません。ええっと、なんでしたっけ?」
あまりに無防備にリリエラを見つめていたことにやっと思い至ったもろみはうろたえた。
「な、なにって……べ、べつにあなたに見蕩れてたわけじゃないわよ! よく食べるなぁ~って思ってただけで……」
「?」
「だから……その……」
「ああ、アズズくんのことでしたね」
たしかに死神課に配属されたばかりの新人を話題に出したのはもろみだ。先輩としての自覚を促すためだったが、ここでそれを思い出して話を戻すズレっぷりは鈍感男の面目躍如といったところか。
あまりにもあまりなスルーっぷりに、もろみはポカンとしてしまう。朱に染まっていた頬も元の白さを取り戻す。
「うん、アズズくんは良いコですよ。今は自分の考えや感情を優先しがちですが、それも彼が真っ直ぐな性格をしているからです。そういったところを経験や思慮で補えるようになったら、きっと立派な神様になります」
「……そう、ね」
なんというか、もろみは自分の空回りっぷりが自分でおかしくなってきた。
ため息と小さな笑いが同時に込みあがってきた。それを抑えようと顔を伏せ、身を縮こまらせた。リリエラはそんなもろみを不思議そうに見ている。具合が悪くなったのだろうかと見当違いも甚だしいことを思う。もろみがなかなか顔を上げないので、リリエラは小刻みに肩を震わせる美女の顔を覗き込む。
と同時に、廊下から騒がしい足音が急に近づいて来た。
「もろみさんもろみさん! さっきの案件ですけど――」
ノックも遠慮もなくドアが開き、活きの良い若者が部屋に飛び込んできた。
話題の新人アズズだった。
アズズはそこに予想とは違うものを見つけてしまい硬直する。
屈んでいたリリエラがゆっくりと身を起こし、後輩に穏やかな笑みを向けた。おかげでアズズは金縛りが解けた。
「ちちちちち、違うんです! ぼぼぼぼぼ、僕、何も見てませんからっ!」
両手を高速で左右に振り、必死に取り繕う。動揺しまくって激しくどもっていた。
「おおおおお、お取り込み中、失礼しました!」
アズズはそれだけ言うと大慌てで踵を返す。
何故、後輩がこんなに慌てているのかリリエラには全く理解できない。
しかしもろみは瞬時に察した。
部屋の入口からは、もろみとリリエラがかぶって見える。もろみの顔を覗き込もうとしたリリエラともろみの頭が重なって見えたに違いない。つまりアズズには、もろみとリリエラがキスしていたように見えたのだ。
途轍もなく分厚い革装丁の本がちょうど手近にあった。
考えるより先にそれを掴み、躊躇なく投げつけていた。
逃げ出そうと背を向けていたアズズの後頭部に本がめりこんだ。
アズズは昏倒した。
もろみはヒールを鳴らして歩み寄り、革装丁の本を拾い上げて胸に抱く。
「何も見てないとか、お取り込み中とか、勘違いするんじゃないの!」
後頭部をさすりながら起きるアズズ。
「え……? だって、あの……キ――」
重量級の本がアズズの頭頂部に突き刺さる。再度、昏倒する哀れな新人死神。
「勘違いするなって言ったでしょ」
ドスの利いた声音で恫喝する女傑。
「いい? あなたが見たことはすべてあなたの勘違いであり妄想よ。それ以上でもそれ以下でもない。分かるわね?」
「はい……」
頭蓋骨陥没をギリギリ免れたアズズは恐怖心から神妙な返事しか出来ない。
「あなたは下世話な妄想をした。わたしは寛大だから妄想するだけなら許してあげる。でもね、妄想を吹聴するのは……ちょっと許せないかも」
分厚く重たい本がヒュンと風切り音を発して、アズズの肩に触れるか触れないかのところに静止した。もろみが振り下ろしたのだが、あまりのスピードにアズズは目視できなかった。
アズズの怯える表情を見て、もろみは満足する。
「お話は終わりましたか?」
場違いなほど暢気な声に、もろみとアズズの間にあった緊張感が霧散する。ひょろりと背の高い死神はおにぎりを後輩にひとつ手渡した。自分もひとつ頬張る。
「とても美味しいですよ、アズズくん。もろみさんに感謝しましょう」
事態をまったく理解できていないリリエラがその場をあっさりと収めてしまった。
+ + +
「リリエラ! その研究は禁止されたはずよ!」
現場を押さえたもろみの声は鋭い。
「ああ、もろみさん。見つかってしまいましたか」
言いつつも、実験器具から手を離さないリリエラ。もろみはヒールを鳴らして歩み寄ると、リリエラの手首を掴んだ。
「漸次元シミュレートなんて言い訳はもう通用しないわよ」
「もろみさん、ご存知ですか? 勢力の伸張著しい生命体のこと」
リリエラはやっと顔を上げた。もろみの顔を見て、穏やかに微笑む。いつもと変わらない微笑み。
「……その生命体なら『人間』と呼称することが正式決定されたわ」
「ああ、そうなんですか。その――人間、ですか? 一番偉い神様も想定していなかったみたいですね。知能や自我まで獲得するとは」
「………………………………」
「もろみさんは不思議に思いませんでしたか? 一番偉い神様が今ごろになって生命体を誕生させたこと。それも『進化』なんてものを与えてまで。一番偉い神様なら、どんな『種』でも、そのものを創造できるのに……。敢えて『進化』なんてものを組み込んでまで新たな『種』を創った。そこに、なにか意図があったんじゃないかと思うんです。これは推測ですが……一番偉い神様は、我々、神の行く末を危惧しているんじゃないでしょうか」
もろみは緊張して体を強張らせた。
疑問を疑問として口にしているだけでリリエラの口調は淡々としている。そこに、危険な発言をしているという自覚はない。
「……リリエラ、あなたおかしいわよ。どうしたの? なにがあったの?」
「ああ、すみません。でも、聞いてほしいんです。こんなこと話せるの、もろみさんしかいないから……」
そう言われてしまえば、もろみも弱い。リリエラの救いを求めるような視線と口調に渋々ながらリリエラの手を離す。リリエラはもろみのために椅子を引き寄せた。仕方なしに聞くのだ、と態度に滲ませつつもろみはその椅子に腰を下ろした。
いつもなら見つめていたくなる鈍感男の横顔も、今は見たくなかった。もろみはわざとリリエラから目を逸らす。
鈍感男はそんな美女の心中を察しているのかいないのか、静かに語り始めた。
「われわれ神は『進化』して今の姿になったわけではありません。世界が始まった当初から神であり、今も神です――でも、これからも神であり続けられるのでしょうか?」
もろみは硬直してしまう。もろみは天使で、リリエラは神だ。天使は神の存在そのものに疑義を抱くことさえできない。それは前提や設定などの次元の話でなく、そういう摂理なのだ。
「神は『進化』できません。なぜ神は『進化』できないのでしょう? なぜあの生命体――人間だけが極端な『進化』を成し遂げられたのでしょうか?」
真摯に、そして理知的に問うリリエラ。もちろん、もろみに答えを求めているわけではない。自分自身に問うているのだ。
「誰か――そう、『世界』がそれを求めていたとしか思えない」
もろみはどんどん息が苦しくなっていくような気持ちになる。止めなくてはいけない。止めなくては……。
「『世界』とは言い換えれば、われわれ『神』のことです。では神が人間を求めたのか? われわれ神は己の命運、己の末路を予見し、神に代わる者を――」
「リリエラ、そこまでに――」
探求する神は美女の制止を無視した。
「神に取って代わる者を、神である我々自身が求めているということでしょうか?」
もろみの脳裏に『忘却の地平』という言葉がよぎる。神でいられなくなった者が赴くという、事象の地平の遥か彼方。『世界』の終わるところ、と呼ぶ神もいる。不吉な場所。リリエラを失う予感に、もろみは激しく動揺する。
もろみの苦しげな視線に気付き、リリエラは穏やかに微笑んでみせる。
「ああ、もろみさん。そんな顔をしないでください」
「……人間の進化を応用しようと考えたのね」
否定してほしい気持ちで、やっとそれだけ聞けた。
リリエラの澄んだ青い瞳。そこに浮かぶのは満足だ。もろみの勘の良さ、鋭さに満足しているのだ。なぜなら、それを期待してリリエラはもろみにこの話をしたのだから。
「あの『進化(ギミック)』を我々自身に応用できれば――」
「やめなさい」
自分でも驚くほど冷たく切迫した声だった。リリエラももろみの気迫に気づき口を噤む。
「あなたがやろうとしているのは、禁忌よ」
「……………………………………」
「神が神であることを疑うなんて……『忘却の地平』へ行く気?」
「……もし、そこが到達すべき地であるなら、吝かではありません」
もろみは右手で左手をギュッと握り締め、胸に抱いて俯いた。
そうでもしていないと耐えられなかったのだ。
次から次へと悔恨が湧き起こってくる。
もっと早くに止めていれば……。
もっと早くに気づいていれば……。
愛しいひとだったのに。
あんなに見つめていたのに。
少しも気づけなかった。
愛した男がこんなにも苦しんでいたなんて……。
もろみは自身を責める。
今にも泣きだしそうなもろみの頭をリリエラは優しく撫でた。
もろみの豪奢な金髪が波打つ。
男が初めて触れてくれた。
こんな時なのに、愛情の表れではないと分かっているのに……。リリエラに撫でられて嬉しいと感じる自分を卑しいと思う。一方で、男の手の大きさと温かさに癒されるのも事実だった。もろみは哀しくて嬉しくて、ずっと撫でられるままでいた。
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