4.


 十一時を過ぎた。

 目を瞑るのさえ面倒になってきた。

 ビックリするくらい眠くならない。

 寝る場所の問題じゃなく、寝る時間の問題だった。

 普段のぼくは朝六時すぎに寝床につく。

 こんな時間に眠れるわけがなかった。

 幼女たちの寝息がかすかに聞こえる。

 とんでもない一日だったと今さら感じた。

 バイトの面接でボロクソに貶されるわ、帰ったら帰ったで幼女が三人もいるわ、しかも神様だと言うわ、余命を寄越せと迫られるわ……ぼくの頭は大丈夫なのだろうか?

 自分で心配になってきた。

 ついでに喉も渇いてきた。

 ぼくは幼女たちを起こさないようにそっと布団を抜け出した。

 豆電球の灯る色は子供のころの色なのだと気づいた。

 夕焼けの色に似た光の中、抱き合って眠る幼女たちが見えた。

 禍々しい神様とは思えない可愛らしい寝顔だった。

 あんな喧嘩をしながらも、あっさり仲直りしてしまうのは子供だからという部分もあるのだろうが、それでもやっぱり仲が良いのだろう。

「なに? 夜這い?」

 もろみさんの声に振り向く。

 ゴージャスお姉様は手に持つグラスを振った。

 液体に浮かぶ氷がグラスにぶつかる、涼やかな音が鳴った。

 端に寄せたちゃぶ台には角瓶。

 酒飲みの嗅覚には恐れ入る。もろみさんが飲んでいるウィスキーは我が家にある唯一のアルコールだ。それも仕舞った本人であるぼくでさえどこへやったか忘れていたものだ。

 恥ずかしい過去が蘇る。

 大学に入ってすぐの頃。なんというか、リア充になるためにはウィスキーは欠かせないと本気で信じていた。ウィスキーを飲めば青春! みたいな安易な思考で角瓶に手を出したのだ。

 一舐めしてリア充になるのを諦めた。

 体が受け付けなかったのだ。養命酒とは根本的に違うものだと知った。

 捨てようかと思ったのだが、部屋に遊びに来る友達ができた場合のことを考え、台所の棚に放り込んだ。が、想定した事態は発生しなかった……。

 本当に恥ずかしい過去だ。

 ちゃぶ台を挟んでもろみさんの向かいに座る。

「……一人で手酌とは寂しいですね」

「大人の時間よ、大人の時間。子供のお守って大変なの」

 ちゅるるちゃんが暴走していたとき寝ていたひとの科白とも思えない。

「で、どうして起きてきた? 夜這い? それとも一人でゴソゴソ?」

「――なんつーこと聞くんですか!」

「声が大きい」

 ぼくは慌てて口を手で覆う。幼女たちを振り返る。ちゅるるちゃんがみゅるるちゃんの頭を抱きしめて、むにゅむにゅと寝言をいう。みゅるるちゃんはすごい迷惑そうな表情で寝息をたてている。にゅるるちゃんはちゅるるちゃんのパジャマの中に頭を突っ込んで眠るという荒業に及んでいた。

 カラン、と乾いた音。

 もろみさんが別のグラスに氷を入れ、新しい一杯を作り、ぼくの方へ滑らせた。

 ぼんやりとした灯りの下、ぼくはもろみさんとグラスを見比べる。

「おねーさんからのサービス」

「……いただきます」

 いろいろと非現実すぎて脳に過剰な負荷がかかっていた。それを緩和させたいと無意識のうちに思っていたらしい。ぼくは抵抗なく、グラスに口をつけた。かなり薄めの水割りだった。

 もろみさんはグラスに残っていた酒を一息に飲み干してしまう。

「ウィスキーだとアタリメが欲しくなるわねー」

 どっからどう見てもミスユニバース北欧代表みたいな美女がそんなことを言う。見た目とのギャップに思わず吹き出してしまう。

「笑うとこなんてなかったでしょ」

「えぇ……」

 ぼくは笑いを噛み殺して相鎚をうつ。が、笑ったせいだろう、たった一口の水割りが首から上を熱っぽくさせる。

「んー? 下戸だな?」

 ぼくの顔色の変化を見ながら、もろみさんは自分のグラスに氷を入れウィスキーをどばどばと注ぎ、ほとんどオン・ザ・ロックと変わらない水割りを作ると、またしても半分ほどを一息に飲んでしまう。

 おそるべき酒豪ぶりである。

「もろみさんはウワバミですね」

「ま、面倒なことが増えれば酒量も増えるってとこね」

「それってちゅるるちゃんのことですか? ちゅるるちゃんてやっぱり……」

 聞いていいものなのか急に不安になった。

「みゅるるが言ってたとおり。『何もできない神様』よ」

 もろみさんは遠くを見るような目をする。このひとは寝たふりをしてちゃんと聞いていたのだ。

「……おちこぼれ、ってことですか?」

「まぁ、そうとしか言いようがないわよね」

 ぼくも立派なおちこぼれだが、不完全を旨とする人間である分、まだ救いがある。神様でありながら能力に欠けるというのは、人間であるぼくが考えるより深刻な問題なのではないだろうか。

「あの……ぼくが余命換金に同意したら、ちゅるるちゃんは――」

 『何もできない神様』という汚名を返上できるってことですか? と聞こうとして恐くなり、後半は喉の奥に引っ掛かった。

「……ちゅるるの立場や評価なんて気にしなくていいわ。あんたは自分が思ったように行動すればいいの」

 意外な応えだった。

「人間なんだから神様の言われたとおりにしろって言わないんですね」

「言って聞くようなら人間の社会は今みたいになってないでしょ」

「そう、ですね……」

 ものすごく突き放した考え方をされる天使様は、水かジュースと錯覚しそうなペースでグラスの中身を飲み干す。そしてまた水割りもどきを作る。

「だいたいねー、神様がみんな全知全能で完璧かって言ったらそうでもないのよ?」

「えっ?」

「考えてもみなさい。一神教だろうが多神教だろうが、神様なんて不完全なのよ。そもそも全能なら手助けする天使を作る必要さえないでしょ。補佐役を創造した時点で自分は全能じゃないって宣言してるようなものよ」

 うーん、言われてみればそうかもしれない。

 しかし天使なのに、もろみさんは神様に厳しいですね。なんかこの辺は、上司に不満を持つサラリーマンの愚痴と同じだなーと思う。

「あーん、なんでこんな辛気臭い話してるわけー? あんたが変こと言うからじゃん! せっかくのウィスキーが不味くなっちゃう」

「……すみません」

 なんとも理不尽な気がしたが、酔っ払いに逆らうほどぼくもアホではない。

「ということで、椎原慎太くん、酒の肴になりなさい」

「すげー、天使すげー」

 話の脈絡もなにもあったもんじゃない。

「幼女と老女、どっちがタイプ?」

「唐突すぎるし、両極端すぎるでしょ……!」

「さあさあ、答えて答えて」

 もろみさんの満面の笑みがなぜか恐ろしい。

「……同年代の女の子がいいです」

「幼女に老女に同年代! 節操ないわねー」

「自分の発言をソースに話を膨らませないでください!」

「文句ばっかり言ってて飽きない?」

「…………………………………………」

「ま、あんたの人生であって私の人生じゃないからいいんだけどね~」

 ハッとさせられた。主体性がなく、いつも批判だけで、何かに反対することでしか自我を保てないヤツだと言われたような気がしたのだ。オレンジ色の光の下、ゴージャスお姉様は見下すでも哀れむでもない目でぼくを見ている。しかし、それもわずかな時間だけだった。

「と、いうワケで。面白い話して」

「??? 無茶振りにもほどがあるぞ……!」

「気にしない気にしない。身の上話でもいいわよ」

「……ヤですよ」

「できるだけ不幸な話がいいわ。笑えるくらい哀れなの」

「性格悪いな、このお姉様は」

「大学行ってないんだっけ? その辺から始めれば?」

「聞いてねぇ。しかも既にぼくが話すって前提になってる」

「栄えある第一号の指定対象に選ばれたのって、そのあたりに関係あるんじゃない?」

「そう、なんですか……?」

 ぼくが大学に行けなくなったことと余命換金に何か関連があるのか? この程度のことで余命換金係の死神がやってくるなら、何万人という大学生のもとに死神幼女がやってくると思うのだが。

 会話のテンポにつられて、アルコールが体を巡っていく。そしてそのアルコールは熱っぽい顔と頭をさらに熱くする。そんな頭では、大事なことなんて考えられるはずもなく、思考は同じところをぐるぐると周回しはじめる。

 なんか、目まで回ってきたような気がする。世界がふにゃふにゃと柔らかく、自分のいる場所が不安定な感じがしてくる。

 そうか。

 つまり、ぼくは酔っているのだ。

「話してみなさい。おねーさんが聞いてあげるから」

 さっきまでの揶揄するような、人の不幸を期待するような調子とはまるっきり違う調子だった。その態度の変化に、ぼくの気持ちも変化する。なにより、一口の水割りが、ぼくの人生を邪魔しつづける過剰な自意識を弱らせていた。

「……つまらない話っスよ」

「それを聞いてやるって言ってんのよ」

 分かったうえでの提案だったらしい。

 喉が渇いていたことを思い出し、ぼくは手の中で玩んでいたグラスを一息に呷った。

 冷たい水割りが食道を駆け下りるのを感じた。

 アルコールに反応して気管が締まるのが分かる。

 酒に滅法弱いぼくはこの一杯で完全に出来上がってしまった。

 喋りたかったというより、本当は誰かに聞いてもらいたかったのだ。

 誰かに知ってもらいたかった。

 ずっと一人だったぼくは、たぶん自分で思っている以上に寂しかったのだ。

 豆電球の優しく懐かしい色が切なかった。

 壊れた蛇口みたいに、ぼくは喋りだしていた。






 友達が欲しかった。

 彼女が欲しかった。

 充実した毎日が欲しかった。

 それだけだった。

 そんなに大それた望みだろうか?

 しかし小中高と十二年かけても、ぼくはどれも手に入れられなかった。

 だから実家を離れ、大学に入るという一大転換イベントで仕切りなおしたいと思った。仕切りなおせると思っていた。

 結果は無残だった。

 完璧だと思われた計画――友達を作る→女友達を作る→彼女ができる→リア充――は灰燼に帰した。

 最初のハードルが高すぎた。

 周囲が着々と大学生活を満喫し、充実させていくのを見て、ぼくは大いに慌てた。

 取り残されてる感じに恐怖した。

 このままでは高校時代の再現だと焦ったぼくは、いくつかの段階をすっ飛ばし、逆転満塁ホームランを狙った。

 頭が悪いとしか言いようがない。

 それは狙うものではなく結果としてそうなるものであり、しかも日々のたゆまぬ努力と精進があってこそ初めて実現の可能性を帯びる。

 オメデタイぼくの脳ミソではそんな当たり前のことにも考えが及ばなかった。

 ただただ、この不満だらけの境遇から脱することしか頭になかった。

 逆転満塁ホームラン――それは女性とお付き合いすることで自分に自信を持てるようになることだった。

 友達がいなくても、〝彼女〟さえ出来れば、すべてが解決する。すべてが順調で、すべてが丸く収まる、と信じるに至った。

 そのころ、同じ学科に気になる子がいた。

 今となっては顔もよく思い出せないが、かわいい子だったと思う。

 第二外国語の授業が一緒なのをいいことに、休講や宿題の情報を交換する名目で彼女とメールアドレスを交換できた。

 浮かれたのは言うまでもない。

 浮かれすぎた。

 そして、愚かなぼくは愚かにも、愚かしい内容の愚かメールを彼女に愚か送信した。

 彼女は大人だったと思う。

 翌日に当たり障りのない返事をくれたのだから。

 当時のぼくはそれに舞い上がった。なぜなら、はじめて女の子からもらったメールだったから。今なら、その内容が「事務連絡用にアドレス交換しただけだから、私的なメールは送ってこないでね」と読み取れるが、舞い上がっていたぼくに読み取れるはずもない。

 ぼくは何通も何通も彼女にメールを送信し、彼女からの返信を心待ちにして日に何度も何度もケータイをチェックした。

 二分おきにケータイをチェックするまでに病気は進行した。

 挙句に「なんで返事くれないの?」的なメールを送ったのだから相当痛い。

 サヨナラ逆転満塁ホームラン級のバカだった。

 そもそも四点で引っくり返せるようなスコアではないのだ。ぼくは百点差で負けていることにさえ気づけない正真正銘の愚か者だった。

 結果だけ、それも良い結果だけを求めると人は容易に壊れる。

 メールの内容が悪いほうへエスカレートしていった。

 彼女はそれを友達に相談した。

 あとは伝言ゲームだ。

 初めは女子の間で話題になり、それがイケメンリア充たちに伝播。最終的にはクラスのほぼ全員に知れ渡った。

 もっとも、ぼくに面と向かって何かを言う者はいなかった。

 同級生たちのニヤニヤ視線、責めるような視線、関わりを拒否する視線、汚いものを見るような視線、視線、視線、視線……。

 当然のことだが、ぼくを擁護する者などいなかった。

 ぼくはやっと自分のしでかしたことを理解した。

 みんなの視線で我に返ったのだ。

 いたたまれなくなったぼくは学校に行けなくなった。

 学校に居場所がなかったのだ。

 どこに居てもあの視線が追いかけてくるのだから。

 誰の視線もないところへぼくは逃げ込んだ。

 安全なのはこの部屋だけだった。ぼくは引き篭もって、ぼくではなく周囲が悪いという架空のストーリーを捏造して自分を慰めて過ごした。

 そのうち夏休みに突入した。

 誰とも顔を合わせずに過ごしているうちに、ぼくの羞恥心のほうは若干落ち着きを取り戻した。そのころから一つの希望に縋りだした。

 長期休暇がみんなの記憶を曖昧にし、恥ずかしい話の熱を冷ましてくれないものか、と。夏休み明け、素知らぬ顔で何食わぬ顔で学校へ行き、なかったことにしてしまえるのではないか、と。

 無理だった。

 あの視線を思い出すだけで足が震えた。

 あの視線がとてつもなく怖かった。

 冷たく、鋭利な視線が死ぬほど怖かった。

 死にたかった。いや、やっぱり死にたくない。死にたくないけど死にたい。

 ぼくの口癖が「消えてしまいたい」になった。

 ……あぁ、だから余命を換金してくれる死神がやって来たのか。

 時間が解決してくれる問題もあれば、時間がこじらせる問題もある。

 あり余る時間、過剰な自意識、人一倍の羞恥心。

 余計なことがさらに余計なものを連れて来る。

 親に知られてないのをいいことに、ぼくは部屋に籠もり続け、ぐだぐだと無意味な思索に没頭した。

 そんなことをしていると、だんだんと「生きる」ということ自体が怖くなってきた。

 自分が生きていることが怖かった。

 つらいんじゃない。

 怖い。

 針で刺される痛みとまったく同じ質感で、その恐怖を肌に感じた。

 痛い、怖い、痛い、の繰り返し。

 そんな自分に疲れてしまった。

 〝誰か〟にではなく、〝自分自身〟に疲れるのだ。

 嘘みたいな本当の話。

 疲れ果ててしまった。

 それで分かったことがある。

 それはつまり――

 どこに居ても、自分が変わらなければ、何も変わらない。

 どこへ行っても、なにをしても、結局ぼくはぼくのままなのだ、と。

 子供の頃はどこか遠くへ行きたいと願っていた。

 自分の足で遠くへ行ける歳になった。

 どこへ行っても同じなんだと思い知らされただけだった。

 世間にはこんなにもモノが溢れているのに、ぼくの手に入るモノはあまりにも少ない。

 しかもぼくの手に入るモノはみすぼらしいモノばかりだ。

 他人の手にあるモノはあんなに魅力的なのに。

 夢は夢でしかない。

 希望も希望でしかない。

 そうとわかる年齢になって、ぼくはなにを期待して生きてるんだろう。

 なにに期待して今を生きてるんだ?

 笑えるくらい惨めだった。

 だから、ぼくは消えて無くなりたいと痛切に願った……。

 酔いの回ったぼくにはもう、自分が喋っているのか寝言を言っているのかすら分からない。それでもぼくは喋り続ける。

 ときどき相鎚をうったり、ぼくが詰まったら言葉を足したり、もろみさんは本当にただ聞いてくれているようだった。おねーさんが聞いてあげる、か。外見と言ったことと行動にブレがない、とんでもないゴージャスお姉様だ。

 限界だったらしい。ぼくは聞こえるはずのない、意識が遠ざかる足音を聞いた。それと共に慈しむような声を。

 ――なんであなたが選ばれたのか分かったような気がする、と。

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