第2話
昼食と事件
「だんなさま、旦那さま。お食事の準備は整いました。もういつイシーンさまがいらっしゃっても、ばんたんです」
故国デルジアから伴ってきた小間使い、モーリが飛び跳ねんばかりの勢いで、カルナで使われる南方語で報告する。いや、実際軽く飛び跳ねていた。
「モーリ、はしゃぐのはわかるが、イシーン殿が来る前に花瓶でもひっくり返して、掃除をする羽目にならないように」
私も南方語でたしなめる。モーリにせがまれ、一日おきに自宅でも南方語で会話している。今日は南方語の日だ。
「はい」
ぴたりとモーリは飛び跳ねるのをやめ、しずしずと一礼して、私の書斎から玄関へと歩み去る。そう長くない廊下の途中から、また跳ね気味になったのが足音で分かった。踵を返したとき、小間使い装束の裾からのぞく尻尾が、左右に跳ねていたのが見えていたから、そうなるのはわかりきっていたことだ。
さっきはああ言ったが、モーリがそういった粗相をした記憶はほとんどない。彼女が貧乏領主のわが家へと、先代の縁者の口利きでやってきたのは、とある事件が元で、私が宮廷勤めから退いた時のことだ。領主邸宅とは名ばかりの小さな屋敷だが、留守を守ってくれていた執事夫妻も高齢で、手が足りないだろうと気を利かせてくれたらしい。
その縁者も、執事夫妻も既に鬼籍に入っている。
十をいくらか過ぎたほどの、整った顔を緊張させたヴィタ族の少女が屋敷にやってきたときのことを思い出す。猫のそれに似た、うすい灰色の毛に覆われた耳がぴんと立ち、同じく猫に似た、長い尻尾が不安げに揺れていた。尾の先端、一握りほどだけ、灰色の体毛が黒に近い濃い色になっている。
それまで貴族の家に入っての小間使いの経験はなかったというが、モーリはよく気がつき、よく働いた。執事夫妻が教える作法礼式の類もあっという間に身につけ、まともに学んだ事がなかった読み書きもみるみるうちに吸収した。そのうち、私にせがんで算術も習得してしまった。
屈託のない朗らかさで、執事夫妻には孫のように可愛がられ、さして多くもない領民たちにも人気があった。ふさぎがちだった当時の私が、縁の薄かった領民たちとも上手くやっていけたのは、彼女の功績で間違いはない。
カルナ赴任が決まった時、いっそ領地を返上し、多くもない財産も整理して、モーリに支度金を渡して自由な道を歩ませた方がいいのではないかと本気で考えていたのだが、私なぞよりよほど手際よく、主従ふたりでのカルナ行きの準備を進める彼女の手腕に見惚れているうちに、その考えは引っ込んだ。私の本気は脆弱なのだ。結局領地は返上せず、管理官に任せてある。私のように、すぐには本国に帰れない職務に就いた領主の留守を守る専門の役職だ。考えてみれば王宮勤めの間も、僻地にある領地にはすぐに帰ることなどできなかったのだが、国内にいるのならば良しとされるところが、いかにも硬直したデルジアらしい。
私の書斎の、質素だが頑丈な机の上に広げられているのは、カルナ王国の王都、すなわちこのレムトの地理歴史を絡めて多面的にまとめた書籍で、突きつめた専門性は無論他に譲るが、知りたいことを知るためのあたりをつけるのに最適な形式の逸品だ。ここに赴任するにあたっての知識を得るのにたいへん重宝した。それを元に、ここに越してきた時に買いそろえた書物の中に、今日これから赴くであろう、レムト北側の区画に関する一冊があったわけだ。
それに一通り目を通したところで、玄関で気怠い声があがった。玄関からすぐの部屋を書斎にしており、扉も開けておくようモーリに言ってあるため、訪問者の声は筒抜けになる。
「おおモーリ、今日も、いや今日は一段とかわいいね」
「ご冗談はおやめください、イシーンさま。ついこのあいだ、港でお目にかかったばかりではないですか」
「だから、このあいだよりも今日の方が特段にかわいい」
モーリの声がいっそう弾んでいる。ことによったら、また身体も跳ねているかもしれない。
私は腰を上げて二冊を書架に戻し、客を出迎えるため玄関に向かう。
それにしても、あんな気の入っていない声の、上手くもない口説き文句で、モーリは本当に喜んでいるのだろうか。若いころ、意中の人におくるための、少しでもしゃれて聞こえそうな口説き文句を、無い知恵を絞って考えていたことを思い出し、すぐにその記憶を胸中から払い落とす。寒気がしたからだ。
実のところ、千人隊長殿と出会ってから、彼がご婦人を口説いているところを見たこともなければ、彼の浮名を誰かから聞かされたこともない。私が彼と懇意にしていることが知れ渡っている事を差し引いても、解せないことだ。なにしろ彼を狙っているご婦人は枚挙にいとまがないのだから。
いつも怠そうな雰囲気を身にまとってはいるが、イシーン千人隊長をあらためて見てみると、これはなかなかの男振りだ。面構えは美男と言うより男前で、造作自体は整っている。額の傷も武人にとっては誉のようなものだろうし、千人隊長という地位も、長く戦乱が遠のいた今となっては大貴族でもない者にとって武官としての最高位に近い。身を固めていないのは任務上やむを得ぬ事情と聞いたが、任務も事情も変わることはあるだろう。
イシーンがモーリに本気だったらどうしたものだろう。
二人の目の前で、手をあげて挨拶の言葉を発しようとした瞬間、さっきよりずっと強烈な悪寒が背筋に走り、実際に身体が震えた。
モーリに身震いを見られたため、玄関口で、私が風邪をひいた、ひいてないで一悶着あったがそれはいい。ともあれイシーンは、モーリが腕によりをかけたデルジア家庭料理におおいに満足したようだ。もともとモーリの料理はうまかったが、カルナに来てからまた上達したように思える。そう私が口をすべらすと、
「食材が新鮮で、種類も多いですから。ライプトン領でとれるものはみなおいしかったですけど、遠くからのものはどうしても」
ものおじせずにモーリが言った。言われてみればあたりまえの話だ。貧乏領主をよくねたにする私だが、当時からいろいろとやりくりしてくれていたのだろう。
「実はさいしょ、水が心配だったのですが、大きい街なのにレムトの水はきれいでびっくり、いえ、驚きました。旦那さまもすぐなじまれて」
「よくできた娘だなあ、モーリは。確かに、ライプトン殿と親しくさせていたただいて、もう半年も過ぎたが、さしでがましくもお目にかかるたびにお顔の色が良くなっていくと思っていた。初めての土地での激務の中で、いや流石は外交特使の懐刀と噂される御仁だと感嘆していたのだが、そうかモーリの功績だったのだなあ。すばらしい。そのうえかわいい。柔らかい灰色の毛に飾られた、その耳もかわいい」
いつもイシーンはモーリに対してこの手の軽口をたたくが、今日は一段と乗っているようだ。
「イシーンさま、またそんな、ヴィタ族の者はみんなこんな耳です」
モーリが食後の香草茶を淹れる手をつい止めてしまう。
「デルジアから南の都市のうちで、もっとも多くのヴィタ族が暮らしてるのは、このレムトだよ。その中で、やはりモーリの耳が一番かわいい。光の加減で銀色に輝いて、とてもきれいだ」
段々と技巧を凝らしはじめた。イシーンの攻勢を受けつつも、モーリは茶を淹れ終えたので、一礼して奥に退く。
「あんまりモーリをからかわないでくれたまえよ、千人隊長殿」
「なにをおっしゃる、ライプトン・ライプトン卿。このネスカフ・イシーン、武人ゆえに、こと戦場では敵に計略をもってあたることはあれど、鎧を脱いだ平時においては、愚直がとりえの」
「長いよ」
ぴたりと長広舌をやめ、意味ありげに口の端を上げて、イシーンは私を見たままわずかにモーリの去っていった戸口へと顔を向け、最後に眉を上げた。
「モーリは心得ている。食事の後はあなたの仕事について、しばらく話をしてから
出かけるとね。狭い家だが、大声でなければヴィタ族の耳でも話が聞こえない所に引っ込んでいるよ」
「いいねえ旦那」
言って、イシーンは茶に手をのばす。
「なんだい、さっきのおべんちゃらは。今日、くどい話をするのは私のはずだろうに」
「おい旦那、モーリの料理はたいしたものだが、茶を淹れるのもうまいんだな」
本当に驚いた様子のイシーンに、なんだかばかばかしくなった私は、投げやりに応える。
「良い茶なんじゃないのかね。さっきモーリが言っていただろう、いろいろと試しているようだ」
「らしくないことを。この香草はここの特産だよ。俺は飽きるほど飲んできたが、いやいやまったくあの娘は逸材だな」
言われてみればその通りだ。適当なことを言ってしまったが、これ以上香草やモーリの話題を続けていると、いつ仕事の話ができるかわからない。
「まあ今日のところはモーリの話はいいだろう。ゆっくりできるときにいくらでもほめてやってくれていいよ」
「ゆっくりできるときねえ」
言いつつ、懐から数枚の紙片を取り出す。大きさも不揃いで綴じられてもいない。注釈が書き込まれた街路図、走り書き、報告書の下書きのようなもの、字を見るに、イシーン自身の手によるものらしい。
「専門家のところに行く前に一通りのところは伝えておかないとね。昨夜は、この書き物がまだまとまってなかったから、話が半端になってしまって申し訳なかった」
「なるほど」
「俺のところにこの話が持ち込まれたのは、昨日の昼前、ああ、ちょうど今時分かな。守備隊の担当からだった。直接は知らない男だったが、同僚に俺の元部下がいるそうでね」
特に居住まいを正すでもなく、千人隊長は仕事の話に入る。声の調子も気だるげなままだ。
「いいのかね、そんなので。軍というのは何でもかんでも上から話が来るもんだろうに」
「いいんだとさ。俺のとこには上下左右、どこから来た話でも一旦通すんだ」
「それでやっていけてるのかい」
「だめだったら別のやり方を試すとさ。その辺の詳しいいきさつは中の話だからあんまり言わないでおこう」
紙片に目を通しつつ、私はうなづく。カルナ軍の内部事情にさして興味はない。
イシーンが続ける。
「二日前の夜、真夜中は過ぎていたそうだ。北区画の〈粉屋通り〉を定時巡回していた衛兵が騒ぎに気づいた」
言われても〈粉屋通り〉がどこなのか私にはわからないが、いま口頭で詳しく説明する必要はないのだろう。黙って聞いておく。
「繁華街からは遠いが、近所の者が飲みに来る酒場くらいはあるとこでね。そこの店先で数人が声を上げていた。喧嘩かと思ったが、話を聞いてみると刃傷沙汰らしい。客の一人が店から出た時、ぼろをまとった若い男が駆け寄ってきて、何か叫んだ。聞いたことのない言葉だったそうだ。何事かと他の客が店の前に出てくると、そこへ抜き身を手にした男が三人、やはり駆け込んできた」
「おだやかじゃないね」
「まったくだ。若い男はそれを見て逃げ出した。客の一人が後から来た三人に何事かと問いただして止めようとしたが、三人組の一人が邪魔だ、と叫んでその客に斬りつけた」
「カルナ人は勇気があるな」
「酒が入ってたからね。いまでも街中で武器を持つのは違法じゃないが、ながものを持ち歩くようなのは流行りじゃない」
「その客は?」
「傷はあさでだった。肩口をちょっと斬られただけだ。だが、脅しのつもりで斬ったのだとしたらなかなか腕がいい。足を止めず駆け抜けざまだったそうだ。そんなのを見たら後も追えない。店の主人が出てきて血止めをし、衛兵の詰め所に人をやろうかというときに巡回が来たんだ」
「話を聞くに、そんなに時間はたってないね」
「いま話してるのはまとめた話だから、その時巡回が聞いたのは、抜き身を持った物騒なのが三人、男を追ってむこうに行った、ぐらいだな。なので、巡回の衛兵二人は、詰め所に知らせを送るよう店の主人に指示し、後を追った。さして夜中に人通りのある所じゃないが、巡回は街を知ってるもんだ。逃げたくなる道にあたりをつけて進むと、叫び声が聞こえた。それを頼りに裏通りに入ったところ」
イシーンが紙片のうち、街路図が描かれた一枚を指す。路地と思しき一角に二重の丸印が書き込まれている。
「血を流して倒れている男と、その周りに立つ武装した三人、そしてもう一人、夜目にも鮮やかな赤い長衣をまとった男」
「追っていたのは三人だけではなかったと」
「まあそうだろう」
言って、イシーンは頬杖をつく。
「ここからがどうもな」
「ずいぶん気乗りしない口ぶりだね。ここまで話したんだ、一応はあなたの方でまとめた話を聞かせてほしいね」
先ほど目を通した紙片のうち、報告書の下書きのような一枚に、ここまでの話の続きらしい一節があったが、そのことに関して彼がどのような見解を持っているのか聞いておきたい。
「巡回二人は抜剣し、四人に武器を捨てるよう命じた。武装した三人は長衣の男を護るかたちに一、二歩動いたが剣は捨てず、だが抜きもしなかった。ここで長衣の男が口を開く。
『貴殿らをわずらわせたのは申し訳ない。これは我が本意ではなく、この国のために勤める貴殿らを害するわけにもゆかぬ。あいすまぬが、ここは目をつむってくれまいか』
これを聞いて巡回のうち片方があたまに来て馬鹿にするな、と叫んだ。袖の下でも出すつもりかと思ったそうだ。ところが突然、巡回二人の目の前に強烈な光がはじけて」
「言われた通り、目をつむることになった、と」
「くだらないが、巡回二人には冗談ごとではすまなかった。単に光で目がくらんだなどというものではなく、激痛で立つこともままならないほどだった。酒場の主人の知らせを受けた増援が二人を発見した時にも両目から出血していて、警笛を、ああ、巡回や門衛が首から下げてる警笛、目立つだろう? なのにあれも奪われていなかった。あれを吹いて位置を報せることしかできなかったそうだ」
「だろうね。あれをまともに食らったらそうなる。まず失明まではしないが、十日は元に戻らない」
光を扱う術は、あらゆる系統に多かれ少なかれ存在し、結果が似通っているものも多い。ありふれているが、危険なものだ。
「うん、うちの術士もそういっていた。ともあれ、増援が来た時にはその状態の二人と、全裸の若い男の死体が残されていた。これは追われていた男でまず間違いない。酒場の客が確認した。まとっていたというぼろは残されていなかった。最初の巡回二人が発見した時には、着たままで倒れていたというから、四人が持ち去ったんだろうな」
「わざわざ」
「そう、わざわざ。どうもばかげている」
「まあ、そうだね」
私はうなづく。異国の言葉を話す男を夜の王都で追いかけまわし、人通りの少ない路地裏で斬殺したすえ、現場に駆けつけた衛兵二人を魔術で無力化しておきながら、衛兵の命は奪わず姿を消す。
「赤い長衣の男は年齢三十程度、髪は明るい茶、瞳も同じ、おそらくカルナ人」
とってつけたようにイシーンが怠そうに言う。報告書未満の一枚に書いてあった。
そう、いかにもなその男は顔も声もさらしていたのだ。そして報告書未満の最後の一行、その下に殴り書きで「あほうか」とある。
「足がつくのを防ぐためなんだろう、ぼろ布まで回収しておきながら、長衣の男は巡回にこう言い残している。
『悪く思うな。貴殿らも、いやこのカルナの民すべて、ひいてはこの世界の人々すべて、我の偉業を称える日がじきに来る。この大召喚士ガリアガルの』
憶えておいてなんだが、口に出すとほんとにばかばかしいな、これ」
「ガリアガルの大召喚により、世界は破滅の危機から救われるのだ、と」
途中でイシーンが音をあげたので私が最後まで引き継いだ。下書きの報告書に書いてある。「あほうか」の走り書きは無論この一節に向けたものだ。
「召喚がどうのというのがどこから出てきたのかと昨夜は考えていたが、まさか犯人が自白していたとは思わなかった」
「そう。おまけに名乗った。犯人はガリアガルというらしい」
「〈夜の影〉参上、みたいになってきたね」
夜の影、と名乗る怪盗が活躍する物語は旧帝国以前の古典から存在する。詩歌、宮廷戯曲から辻芝居、形態もさまざまで時代によって色々と変遷してはいるが、壁に書きのこしたり、暗闇から聞こえてきたりと、とにかく「〈夜の影〉参上」と自分から名乗るのが約束事だ。ちなみに実際に〈夜の影〉を名乗るお調子者の盗賊も根強く現れるが、たいていすぐに捕まる。
「私はあまり詳しくないから大きなことは言えないが、悪ふざけじゃないとしたらどうも、いかれているように思えるね。いや人死にが出てるのだから、悪ふざけというのもはばかられるか」
「まあ俺もそう思いたいが、残念ながら悪ふざけで人死にが出るのはそんなに珍しくはないんだ。まあ、この大召喚士がふざけているか、いかれているか、世界を破滅の危機から救おうとしているか、どれが真でどれが偽でも、ひとごろしは追わせてもらう」
頬杖をついたまま、気だるい声のままで、イシーンは言った。
「術者がらみは面倒だけど、旦那がいると心強いなぁ」
「そんなに役に立つとも思えんがね」
自分の茶を注ぎ、私は一息にあおった。
「話のあたまだけで、三人も物騒なのが出てきたじゃないか。そのうえで大召喚士とかまで出てこられたらもう、荒事がどうこうとか言う話じゃない」
「危ないと思ったら、走って逃げてかまわんよ。大声で助けを呼びながらだとなおいい」
「あなた一人を危地に置いて一人で逃げるのは心苦しいが、いざとなったら迷わずそうするよ」
「ああ、そうしてくれ。俺は別方向へこっそり逃げるから」
私は苦い顔を作ってみたが、イシーンはそっぽを向いて窓を見ていた。
イシーンの話は途切れた。だがまだ腰を上げようとしない。
「茶が切れたが、淹れさせようか」
「ありがとう、でも俺はいいかな」
なんだろうか、この男は。そろそろ出かけるのか、と私のほうから水を向けたのはわかっているだろうに、そのまま返してきた。なんと話を継いだものか、私が広げられていた紙片をまとめていると、
「この家、借家だそうだね、旦那」
と、まったく別の話を始めた。
「なんだい、急だな。仕事の話はもういいのかい」
「いまのところはね。専門家に会いに行くにも、少し早いかと思ってね」
「かまわんが、なんだってそんな話になるんだか」
「外交官用の、お宅の国の持ち家が余ってるなと思ってね」
「ああ、たしかに」
官舎扱いの屋敷はあったが、どうにも広すぎる。あれでは新たに何人も人を雇わねば手が回らなくなる。
「息苦しくてね。自分の裁量で出来る範囲で、だらだらさせてもらってるよ」
一応公職だ。なんでもかでも雑談のネタにはできない。話してどうという事もないが、実はと打ち明けるような事でもないのだ。
「知り合って半年もたつのに、まったく旦那は正体不明だなあ」
それはお互い様だ。
「なんだい、急だね」
「古き帝国デルジアの伝説的な外交特使が赴任してきて、半年前は外交まわりの連中はそりゃあ張りつめてたんだよ。旦那はその右腕だ、懐刀だと噂されていた。なにせライプトン家に関してはよくわからない。もちろん役職に関する記録は、国交があるんだから通常わかる範囲で残ってるが、外交筋では皆無だったからね。なのに、知ってみれば名目だけの閑職。社交界をふらふらとしているが、よくある有力貴族の顔つなぎというわけでもないらしい。何やら熱心に書き込んでいる手帳をこっそりのぞき込んでも紀行文だ」
「手帳をのぞき込むのはやめてもらいたいね」
「貝料理のことをいくら調べられても、間諜容疑で捕まえられないなあ」
「そうか。うすうすそうじゃないかと思ってはいたが、やはりあなたは防諜の任務に就いていたのか。当てを外れさせて悪いことをした」
「防諜は、もうちょっと熱心なやつに任せるな、俺なら。休めないだろうからね」
「それで、家の話なのか、私の仕事の話なのか、よくわからんよ。あなたの仕事とも係わりがある話になったりするのかい」
「いや、このぐらいの家だったら、年でいくらかと思ってね。ここの人間の俺が、半年前に越してきた旦那に聞くような事じゃないが、俺は官舎暮らしが長くてね」
それはその通りなのだろうが、どうも話がぼんやりしている。
「私はこちらの大使館の者に事情を話して、紹介してもらった家主から直接借りているが、仲介を生業とする者を介したり、商館につてがあるのならそこから紹介されたりと、いろいろあるだろうから、一概にこうとは言えないが、世話してくれた者の言葉をそのまま言えば、まあ相場ですよ、という値段だそうだよ。不都合はないから確認したわけじゃないが。本当に知りたいならお教えしようか」
「いや、すまない、ばかな話だし、さすがに礼を失していた」
急に居住まいを正されるとこちらが居心地悪くなる。金の話をしていてこれでは、貧乏領主ねたも控えた方がいい気がしてくる。
「かまわんが、事件の話はもういいなら、そろそろ出るかい。時間が早いと言ってはいたが、王宮近くに行くのなら、暇を持て余すこともないだろう」
「そうだなあ」
イシーンがようやく腰を上げる。
「うっかり遅れても余計に面倒になることだし、行くとするか、わがカルナが誇る第一軍旗下、人呼んで〈天照灯台〉へ」
まあそうだろうな、と思っていた目的地を千人隊長は告げた。カルナで第一軍と言えば王である大将軍の直轄軍であり、天照灯台と呼ばれる王宮に隣接する尖塔は、つまりはいわゆる宮廷魔術師たちの塔だ。カルナで公職にある者が頼る専門家と言えば、まずはそこだろう。そこに所属する個々人の相性は別の問題で、その別の問題を薄めるために、この男は私を殺人事件の調査に巻き込んだのだ。私は手帳に書き連ねている紀行文まがいの駄文のネタをもとめ、さらにまゆつば物の海の幸の話に釣られてそれを受けた。
事件の話は、いまひとつ乗り切れない印象だ。人は死んでいるが、犯人(で、あろう、おそらく、さっき聞いた話が事実そのままならば)の、長衣の男ガリアガルの物言いは常軌を逸しているように感じられる。それでいて彼は力ある術士であることもうかがえる。それを護っている剣士が三人はいる。
狂気に取りつかれた力ある魔術師が腕の立つ剣士たちに護られながら王都の夜の中を暗躍している。まとめてみると、乗り切れないどころか乗りたくない話だ。
だが、気になるのは殺された若い男が「召喚された」という点だ。そこの部分は昨夜の話から出ていない。ガリアガルは召喚について口にしているが、殺された男を召喚したと言ったわけでもないようだ。
気にはなるが、今からその専門家に会いに行くのだから、ここでイシーンにわざわざ聞くこともあるまい。
私も立ち上がり、身支度を整える。と言っても上着を着るだけだ。王に謁見するわけではない。普段から着ている服が外交着のようなものなのだ。
外出を告げるためにモーリを呼ぶと、奥から半ば駆け足でやってくる足音が聞こえたが、私たちの視界にはいる直前にイシーンがいることを思い出したのか、廊下に姿を見せたモーリはかろうじて走ってはおらず、だが尻尾が裾の中で振られているのが布地の動きで見て取れた。おしい。もう一歩で、はしゃぎすぎないすました自分をイシーンに見せることができたのに。
「出かける。遅くなるだろうから、夕食はいい。先に休んでおきなさい」
いつも通りの言葉なのだが、後ろで他人が聞いていると何か妙な感じがする。
「かしこまりました、だんなさま」
「ではモーリ、また近いうちに会えるといいね。なに、ライプトン殿のご都合次第だが、今度はゆっくりさせてもらえるそうだから」
そんなことを私は言っただろうか。
それを問いただしたところで、イシーンのもの憂げな長広舌が始まるだけだ。
私は期待に耳をぴんと立てたモーリへのイシーンの挨拶を長くなる前に切り上げさせ、次回の招待を約束して、ようやくレムトの街へ出た。
異世界召喚殺人事件 ngya @gyan
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