異世界召喚殺人事件

ngya

第1話

   最初の夜




 「面倒なことになったよ、旦那」

 私の顔を見るなり、ネスカフ・イシーンは、いつものように倦みつかれたような口調でそう言い、私が独り占めしていた応接室の、向かいの寝椅子に腰を下ろした。

 「もう少し、社交界らしい挨拶はないもんかね、千人隊長殿」

 言いつつ、私は手帳を閉じ、開けっ放しだったインク壺のふたを閉じた。どうせ今日は筆が乗らない。それに、この男がこういう物言いをするときは、たいてい何か面白い話題があるのだ。

 「千人隊長はやめてくれよ、ライプトンの旦那」

 イシーンは、卓上の蜂蜜酒に視線を送り、また私に戻す。私が手で促すと、わずかに目礼して伏せてあった杯の一つを手に取り、酒を注いでふたくちほど飲む。不躾なようでいて、先に飲んでいた者が勧めるまで、後から来た者が酒に手を出してはならない、という私の国のすたれかけた作法を、彼がないがしろにしたことは一度もない。ここは彼の国なのに。

 「あなたが、その旦那というのをやめてくれたら考えよう」

 「そりゃない、あんたは旦那じゃないか。初めて会った時に、あのかわいい小間使いが旦那様と連呼していた」

 「それはそう呼ぶだろう、モーリはうちの小間使いなんだから。なにがそんなに気に入ったんだい」

 「印象が強かったんだよ、憶えたてのこっちの言葉を一生懸命話してたからな。こないだ会ったが、すっかり上手になってたな」

 「若いころは何を憶えるにしても早い。あなたもそうだったろう」

 眉を寄せつつ、唇をひん曲げる。いつも気怠そうでちっとも武官らしくないこの男の苦笑する時の表情らしいが、なぜかおどけたように見える。

 武官と言ったが、我がデルジアと違って、ここカルナの役人は名目上、全員武官、軍人である。かつて南方の精強な軍事国家として大陸じゅうに名を馳せた名残だ。ここ百年ほどは国家間の戦争らしい戦争は起きていないが、今でもカルナ軍は大陸随一の強さだと、半年ほど前、ここに赴任する際、知り合いの武官から聞いた。私はさほど興味はなかったのだが。

 「それで、面倒事とは」

 「ああ」

 自分で言い出しておいて、思い出したように生返事をすると、イシーンは寝椅子の肘掛にもたれ、応接室のデルジア風の調度を見渡す。カルナはかつて、いわゆる貴族制と、それに伴うデルジア風の貴族文化というものとは縁遠かったらしいが、各国家間のいさかいがなりをひそめるにつれ、「文化面」でも精強を目指し始めたようで、軍における階級を爵位にあてはめ、貴族社会を作り上げていった。もちろん、外交上やらなにやらの付き合いの中で、均衡を取るという側面も大きい。

 何百年も前、ほぼ大陸全土を支配していたかつての大帝国、今では硬直し腐敗した、我が落日のデルジアに倣い、実力者の貴族たちが邸宅や別宅を社交場として開放している。この応接室もその一つ、クジル第一爵夫人の大邸宅の第六応接室だ。外交特使付きの文官という名目で赴任した時からここに入り浸っているが、応接室が全部でいくつあるのかわからない。

 「あんたはいつもここに陣取ってるが、やはりここの調度がお国ふうで落ち着くのかい?」

 面倒事の話はまだ始まる様子はないように思えるが、雑談のようで核心の話題のまくらかもしれない。この男はそういう話し方をよくするのだ。

 「最初に私がここを紹介されたとき、使ってよい部屋の中で、いっとう小さいのはここだと教えていただいたんだよ。貧乏貴族の身としては、広すぎる応接室は宮廷にいたころを思い出してね、気が休まらない。この部屋は、うちのつつましいお屋敷の広間と同じくらいで、まあそういう意味で落ち着くかな」

 イシーンは笑った顔をつくったが声は出さない。そして二杯目の酒を飲み干すと、

 「見知らぬ土地、他の国、そんなところに来た時、人はやはり慣れ親しんだ場所に似たところとか、故郷を思わせるものに惹かれるものかな、と思ってね」

そう言い、銀杯を顔の前に持ち上げた。杯でなく、杯に反射した、背後のランプの灯りを見ている。

 「まあそうかもしれない。私は国を出ることができて年甲斐もなく浮かれているから、参考にはならないかな。他ならぬ千人隊長殿は、若いころは方々でご活躍だったとうかがったが」

 杯を顔の前から下ろし、イシーンが眉をひそめる。それでもまだ気怠そうなので、怒っているかどうかいまひとつ判然としない。

 「誰がそんな与太を飛ばしたんだ、もし俺の部下だったら来月からの攻城教練にねじ込んで、吐くまで穴を掘らせてやる」

 話の内容を聞く限り怒っているようだ。私は軍事には詳しくないが、かつてカルナ軍は攻城、籠城戦を不得手としていたが、二百年ほど前の戦乱期に頭角を現した武官が見事な手腕を見せ、カルナ亡国の危機を救ったという。以来、カルナ軍教練の伝統となったのが、その武官が考案したと伝えられる攻城教練だ、と聞いた。私は直接見たことはないが、身分階級の区別なく、参加する全部隊、総出で穴を掘るそうだ。

 「与太ね。それを私に吹き込んだのは、ここの主、クジル夫人の末の弟君、ロダル殿だよ。ねじ込むかい」

 「ああ、あの子か。いったい誰から何を吹き込まれたんだか。それじゃねじ込めないな、俺の部下でもないし、成人したら少なくともどこかの第二爵は継ぐはずだ」

 「あの子呼ばわりもできなくなるね」

 「まあそれはいいんだ。めでたい。それにどっちみち、攻城教練には行くことになる。嫌なら出奔か他国に婿入りだな。教練が嫌で爵位も家も捨てて出奔というのは面白いな。気骨があるのかないのかわからん」

 「あなたの話の方がよほど与太話じゃないか。でもさきほどの与太というのは、あなたは国からは出てないということかい」

 「与太はご活躍の部分だよ、旦那。まあそこそこ回ったよ、あんたのデルジアにも行った」

 「それじゃあどうだった、故国カルナが恋しく思えたかな」

 「故国ねえ」

 千人隊長は三杯目を注いで、大仰に献杯の仕草をとった。

 「恋しかったのはカルナが誇るこの蜂蜜酒と、海の幸かな。任地は内陸が多かったんでね」

 私もこの蜂蜜酒はおおいに気に入っている。そして最初は二の足を踏んだ貝料理も、今ではたいへん気に入っている。

 「まあそういうものなんじゃないか、故郷を思わせるものに惹かれる、というのは」

 「うん? ああ、そうか、そうだな」

 妙に納得したようにうなづき、イシーンは思案顔になった。私も飲みかけだった自分の杯を干し、酒を注ぐ。そろそろ本題かもしれない。

 「無理矢理、異国に連れてこられた者はどうだろうな、さらわれるなりなんなりして、異国に来て、言葉も通じない、見るもの聞くものなじみがない。自由を奪われ、どうすれば自分が元いた場所に戻れるのかもわからない。それがどうにかして逃げ出すことができた。だがほんとうに異国だ。帰るための手掛かりもない」

 どうも本題らしいが、何とも具体的なところに踏み込まない。とは言え、彼がかかわる面倒事、というならこの王都レムトで起きているのだろう。

 「なんだか穏やかじゃないね。五百年も前の術師帝ガイメレの時代に、大陸のほとんど全土で奴隷制は禁じられたし、同時期に種族融和も行われた。ああ、非合法な人身売買がらみの話かい?」

 話しつつ、私はイシーンの表情を探るが、これが的外れな話なのかどうかは判断がつかなかった。かまわず続ける。

 「それとも戦時捕虜とかの方かな。だが最近はそんな戦争やらなんやらは聞いてないね。それに、言葉が全く通じないというのはどういうことだい? 長い帝国支配時代に、各地の言語は禁じられたわけじゃないが、デルジア語はいわゆる共通語としてよかれあしかれ定着した。独立独歩の気風の強い貴国カルナでも、この王都の人々はちょっとした日常会話ならデルジア語は話せるじゃないか。うちのモーリだって、家に出入りしてる魚屋の子からカルナ語を教わって上手くなったんだ。ときどき私もその子と話すが、癖はあるけど見事なデルジア語だよ」

 長々と喋りつつ、私は段々とじりじりしてきた。ぼちぼち私の話をさえぎって、聞く側に回してくれないものか。さもないと私は本題に関係あるかどうかもわからぬ話をだらだらとしゃべり続ける。悪癖だ。

 「元からのデルジア語圏でなく、カルナの南方語圏でもない地方の、しかも僻地からさらわれた者がいると? それとも、まさかとは思うが、いわゆる帝国文明圏の外からの、というんじゃないだろう? 大洋を越えようなんて気概が、デルジアはもちろん、西方の都市国家群や北方のフレム王国にも、今あるとは思えんがね」

 「まあ、大洋は越えてないかな」

 ようやくだ。たいがい、この男は私にある程度喋らせてから核心を切り出す。

 私は自分の杯を取り、口に運んでちびちびと舐めつつ、イシーンの茶褐色の瞳から目をそらさないまま、眉を上げる。さあ、とっとと話せ、千人隊長。


 「ううん、どうもね、『召喚』らしいそうだ」


 あやういところで、私は蜂蜜酒を吹き出すのをこらえた。いい年をして酒でむせるところを人に見られたくない。

 なるほど、越えたにしても海ではないようだ。少しの間、私は考えを巡らせる。自宅の物よりずっと豪華な銀杯の中の酒の揺れが収まるのを待ち、卓に置く。イシーンはどうやらまた私に喋らせたいようだ。

 「元素の精とか、手足がやたらと多い怪物とか、辺土の魔神とかの話じゃなさそうだね。かつての魔法帝国デルジアの貴族としては事情通ぶりたいところだが、ご存知の通り、もうずっと前から魔術は専門家のものになってしまった。とりわけ私は、召喚術はからきしでね」

 イシーンは身を起こし、腿に肘をついて前かがみになる。私から視線は外さない。下から見上げるような形になると、いつもの気だるげな雰囲気はなくなった。右の生え際に残る、剣の傷痕が良く見えるからだけではない。私は話を続ける。

 「実際に召喚を見たのは数えるほどだし、熱心に知識を得ようともしなかったが、聞くところでは、その手の召喚生物は術者の統制を離れたら勝手に元いた世界に戻るようにできている、のだそうだ。それに、よほどの小物でもないと、心話で意思の疎通はできるそうだよ。私は話したことはないがね」

 私は心話自体が苦手だ。思念で会話する初歩の術だが、相手の声の聞こえ方というのが人それぞれらしく、私の場合、喉から腹までねじ込まれた太い笛が声を奏でている、という感覚なのだ。私がちゃんとした魔術に触れたのは貴族の子弟が入る幼年学校でのことで、初めて心話の術を使った時のことが脳裏によみがえる。きちんと習いさえすれば、文字通り子供でも扱えるような魔術を使って、私は腹の中の朝食を教練室の床にぶちまける醜態をさらしたのだ。私は貴重な教訓を得た。感覚というものがいかにたやすく自分の肉体をだますのか、そして人には絶望的な向き不向きがある。

 「小物か。小物じゃあ、なかったかな」

 貴重な教訓は心の引き出しにしまいこもう。

 「心話についてはわからんがね」

 千人隊長の順番らしい。その声の、もの憂げな響きは変わらない。

 だが、いつもとは違った、ざらついたものがある。

 「なかった? 見たのか。そして話は通じなかったと」

 「話はできなかった。俺が見たのは死体だからね」

 私は杯に手をのばすかどうか迷い、すぐにやめた。どうも、今飲んでもせっかくの酒がまずくなりそうだ。

 「突飛だったら笑ってもらってかまわないが、召喚されたものというのは」

 「らしい」

 「召喚されたらしいもの、というのは、人間か」

 「まだガキのね。種族は俺たちと同じくシン族。せいぜい十四、五の男。もっと幼いかもしれない」

 「そして死んでいる」

 「殺されたんだ。それはわかってる。剣の傷は、よく知ってるからね」

 面倒なことになっているようだ。


 「それで、わざわざ私にその話を持ってきたのは」

 私が言うと、イシーンは寝椅子から立ち上がった。腰の剣環がわずかに鳴る。千人隊長である彼は、ここはもちろん、謁見の間でも佩剣を許されている。

 「明日から、しばらく付き合ってくれないか、ライプトンの旦那。紀行文のネタがまたふえるよ」

 言って、卓上の手帳を指した。まあ確かに紀行文もいいかもしれない。

 「なんだい、続きは明日かい」

 「旦那が付き合ってくれるならね」

 「前も言ったが、荒事は勘弁だよ。私が文官なのに剣を下げてるのは」

 「貧乏とは言え、一応は領地持ちの貴族だから、だったか」

 以前、自分で言った事だが、あらためて人に言われると笑いもできない。怒るつもりは毛頭ない。

 筆入れを片づけ、手帳と一緒に懐にしまってから、私も立ち上がり、肩をすくめた。

 「紀行文とはちょっと違うが、まああなたに会ってなければまず係われない、しかも珍しい話だ。付き合いましょう。私が何かの役に立つとは思えないがね」

 「そんなことはない」

 イシーンは真顔で言って、扉に歩き出す。私も続き、横に並んだ。戸口も廊下も広い。大の男が二人どころか三人並んでもまだ余裕がある。私が陣取っていた応接室はデルジア風の金細工の装飾が多用されているが、廊下はやはりカルナ風の質実な印象だ。装飾も銀細工が主で、これは優良な銀鉱山がカルナに多いからでもある。応接室のあった右の棟から、玄関のある本棟へつながる回廊はさらに広い。まだ宵の口だ。本当にきらびやかな連中が集まってくるのはこれからになる。

 幾人かの顔見知りに、慇懃な笑顔と挨拶を振りまく。私も若いころはこういう薄っぺらさを嫌っていた気もするが、成人してからの宮廷勤めですっかり身についてしまった。

 いっぽうの千人隊長はカルナ精鋭らしい、実直な黙礼だ。愛想を振りまくなど、むしろ精強、剛健なカルナ軍人の威厳を損なうのだ、と初めて会ったころに真顔で言われた。後になってわかったが、この男が真顔で何か言ったときは全く心がこもってないことが多い。

 大広間を抜け、玄関で執事長に退去の挨拶をしている間、イシーンは先に庭に出て、私を待っていた。今まで特に聞いた事もなかったが、一体この男はどういう位置づけなのだろう。もちろん千人隊長というのは確かだが、社交界に付き物の長々とした挨拶だのなんだのをしているところを見た事がないし、誰かにそれを求められることもない。いつもの黙礼でこの国随一の実力者の邸宅にも飄々と入ってくる。

 執事長の禿頭ごしに、ここの小間使いの娘たちが千人隊長殿を見ながら華やいだ笑顔を浮かべている。モーリによると、それこそ小間使いたちから結構な貴族の令嬢まで、いる娘たちは多いそうだ。貴族制が強まったカルナだが、そのあたりは以前通りに融通を利かしている。

 長い挨拶が終わり、私が近づくとイシーンは夜空を見上げていた。月を見ていたようだ。

 「待たせたね」

 「お気になさらず、ライプトン卿」

 今度の礼はデルジア式だ。様になっている。私は笑い、門を指した。庭も広い。玄関から門までで、うちの本宅が三つくらいは並べられそうだ。私たちはまた並んで歩き出した。

 「それで、明日はどうするね、千人隊長殿」

 「午前のうちにお宅にうかがわせてもらうよ」

 「わざわざ? まあかまわんがね。ところでどこを連れまわされるかも、まだ聞いてないが」

 「なに、遠出はしないよ。王宮近辺から、行っても街の北区画、外門までは行かないだろう」

 北区画と言えば、どちらかと言えばごみごみしたところだ。私はあまり足をのばしたことはない。

 「何か用意しておくものはあるかい、鎧を着ておけ、とかはごめんこうむるがね」

 「いつもどおりの旦那でいいよ。くどくどとした長い喋りと、俺の話でも辛抱強く聞いてくれる寛容さ。いいねえ、美徳だ」

 「私もそこそこ南方語には自信があったんだが、今のはカルナ風の冗談か皮肉か、判然としないね」

 「デルジア語でもういっかい言おうか? 内容は変わらないが」

 「じゃあ、明日はあなたの話を聞いて、私の愚にもつかない長話を聞かせればいいのかい。それは楽そうだ、普段会ってる時とさしてかわらない」

 「話を聞くのもするのも、俺相手じゃあないんだ。明日は専門家に会いに行くんだよ」

 「召喚術の?」

 「さっき、旦那はああ言ってたが、俺はもっとずっと知識がないんだ。デルジアはやはり基礎から違うんだな。そのうえ、その専門家が苦手な相手でね」

 私はすぐ横を歩くイシーンに顔を向けた。やや、私の方が背が高い。彼はちらりと私の顔を見たが、向き直るでもなく、立ち止まる様子もない。精一杯、苦い顔をしてやったのだが。

 「それでは、明日は一日つぶして、召喚術に精通した偏屈じいさんだかばあさんだかの相手をさせられるわけかな?」

 「そのうえで、とても常人には理解が及ばない深遠な叡智を、この武骨な一軍人にわかりやすく伝えてくれると大変助かる。なんだよ旦那、今までで一番眉間のシワが深くなってるぞ。まあまあ旦那、見返りに、我が偉大な大将軍も食したことのない、絶品の海の幸をこっそり献上するよ、全部かたがついてからでよければね」

 大きく出たものだ。カルナで大将軍と言えば即ち国王のことである。

 私は心を決めた。いや、最初から迷っていたわけでもない。私はせいぜい気難しく聞こえる声で言った。

 「貝はあるかな」

 「いまなら、蟹も時期だな」

 「乗った」

 千人隊長は立ち止まり、向き直った。左拳を肩の高さに上げる。私も向き合い、それに倣って、互いの左拳の甲を打ち合わせる。カルナ風だ。

 「明日、昼前には来ると言ったが、うちで昼食をとっていくかい? 時間は合わせるし、モーリも張り切る」

 「ああ、それはうれしいね、腹を減らしてうかがうよ」

 ようやく門を出た。顔なじみの衛兵が黙礼しかけ、私の横に並んでいるのがイシーン千人隊長だと気付いて、すぐさま最敬礼に切り替えた。なんとなくたるんでいる印象だった衛兵が、途端に鍛えあげられた兵士に見える。

 イシーンは略礼で返し、衛兵に近づいて二言三言何か話し、すぐ戻った。私たちが立ち去るとき、衛兵はいつもの黙礼を送ったが、やはりたるんだ印象は消えている。

 「知ってる兵かい、千人隊長」

 「あいつが新兵のころにね。まあ今でもまだ若いが。次にあの門で俺に最敬礼したら、この王都の本宅じゃなく、クジル第一爵夫人がレムト湾の孤島に持ってる別宅に飛ばしてもらうと脅しておいた」

 「そりゃひどい」

 「別に無人島じゃないし、魚もうまいとこだ」

 「それで、本当は何を話したのかな。彼は笑顔だったよ」

 「明日飛ばされるんじゃないとわかって、ほっとしたんじゃないか」

 まあいい、今度顔を合わせた時にあの衛兵自身に聞いてみよう。考えてみれば、千人いるはずのイシーンの部下に、私はほとんど会ってない。

 通りに出て、別れ際、イシーンは不意に声を上げた。どうも茶番じみている。

 「さっき言い忘れたが、専門家はじいさんでもばあさんでもないんだ」

 そのとき私は、モーリに頼む明日の昼食を、デルジア料理にするか、こちらに来てからどんどん腕を上げているカルナ料理にするか考えていたが、頭から吹き飛んだ。

 「それは、偏屈なご老人よりも厄介なお方という意味かな、千人隊長」

 また私は精一杯苦い顔を作る。

 以前は齢に似合わぬ童顔と言われていた、私の顔のシワがこの男と会ってから、だんだんと増えているのは気のせいではない。

 「そんなことは言ってない。俺が苦手なだけで、旦那とは相性がいいかもしれない。ことによると、旦那は俺に感謝することになるかもなあ」

 明日の昼は何も出さないことにしようかとも思ったが、イシーンが来るのにそんな扱いをすれば、モーリがへそを曲げるに決まっている。

 「もういいから聞かせてもらえないかな」

 「美人だよ。カルナで見てもデルジアで見ても美人は美人。妙齢で美しい魔術師と白皙の文官の異国での出会いか。うん、デルジア風だな。吟遊詩人に書かせるかい」

 この男は、こんな浮いたセリフを吐くときでも、なぜこんなに気怠そうなのか。特異な才能のように思えてきた。

 「千人隊長殿」

 「じゃあ明日。昼食はデルジア料理がいいな」

 言い置いて、イシーンはさっさと歩み去る。現職の軍人だからか単に私の次の言葉を聞くつもりがないからか、かなりの速さだった。

 結局私は呼び止めることもできず、夜空を見上げた。先程、イシーンが見ていた月が浮かんでいる。

 満月は少し前に過ぎた。

 「これは面倒なことになった」

 不本意なことに、発せられた私の声は、今夜最初に聞いたイシーンの口調そのままの、倦みつかれた響きだった。

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