16 逃走中のKiss

「急いで! 早く!」


 ミオが哲也をせかす。ミオはすでに哲也の十数メートル以上前を走っていた。


 哲也はただミオの後ろを必死について行くだけだった。角を右に左に曲がり、チューブトレインの軌道下を横切り、道ではない建物と建物のあいだをひた走った。哲也にはもうどこをどういうふうに逃げているのかさっぱりわからなかった。


 突然、前方を行くミオが胸を押さえてその場に崩れるようにうずくまった。あわてて哲也が駆け寄る。


「ミオ、大丈夫か!」

「だ、大丈夫……」


 ミオはそう言ったが、苦しそうに胸を押さえ顔面は蒼白で呼吸は乱れている。もうとても走れそうにない。


「まさか、撃たれたのか」

「違います。心臓が……」


 突然、哲也はエリカから受けた事前レクチャーを思い出した。作戦を見学するにあたって注意すべきことのひとつにそれはあった。ミオは心臓が悪いのだ。

 しかしこんなところでぐずぐずしてはいられない。こうしている間にも警官らはこちらとの距離を着実に縮めてきているはずなのだ。


「くそっ。どこかに隠れる場所は」


 すばやく左右を見回す哲也。少し先にふたつの建物に挟まれたせまい隙間が見えた。


「一か八かだ」


 哲也は短く言い放つとミオの体を抱え上げた。そしてそのままその隙間へと駈けだす。

 隙間は人がひとり通るのも難しいくらいの幅しかなかった。ミオをまず奥へと押し込む。続いて哲也がその隙間に滑り込む。

 警官の声が聞こえてきた。


「こっちだ! あの男はこっちのほうへ逃げたはずだ」


 警官は複数のようだ。ガサゴソという物音も聞こえる。どうやらそこら中の隙間を探索しているらしい。哲也は自分の心臓の鼓動さえ聞こえはしまいかとヒヤヒヤしていた。

 警官の声が間近に迫った。


「ミオ、ごめん!」


 哲也は小さくそう叫ぶとミオの体を抱き寄せ、外からは自分の背中が見えるような体勢を取ると、いきなり彼女の唇に自分の唇を押しつけた。


 ついに警官のひとりが彼らの隠れている隙間をのぞき込んだ。その目に飛び込んできたのは抱き合ってキスする若い男と女。互いに目を閉じ、見られていることなど気づいていないように一心に。

 一瞬ギョッとした警官だったが、見てはいけないものを見てしまったかのように慌てて視線を隙間からそらした。


「どうした。なんかいたのか」

「いたことはいたが、おふたりでお楽しみの最中だ」

「じゃあ違うな。通報だと『若い男がひとり』ということだからな」

「畜生っ。リア充なんか爆発すればいいのに」


 警官たちは口々にそういうと隙間から離れていった。


 足音が遠ざかっていく。それでも哲也はしばらくそのままの姿勢を維持し続けた。やがてゆっくりとミオを離した哲也は慎重にあたりの様子をうかがってみた。

 警官の姿はなかった。

 哲也はふうっと息を吐いた。緊張から一気に解放されて崩れ落ちそうだった。


「もう安心だミオ、やつらは行ってしまった」


 哲也はミオのほうへ振り向いた。ミオは顔面蒼白のまま目を閉じてぐったりとしていた。動く気配はまったくなかった。



 航路のアジト内。哲也の目の前には髪だけでなく顔をも真っ赤にしたエリカが怒りもあらわに立っていた。


「ばかやろう!」


 頬を叩く音が室内に響き渡った。


 哲也は固く目を閉じ、叩かれた頬を真っ赤に腫らしていた。そんな彼と怒りに震えたエリカを大勢の人間が見つめている。


「無事に救出できたからよかったものの、君のうかつな行動が一歩間違えれば組織に致命的な結果をもたらしたかも知れないんだぞ」

「すみませんでしたっ!」


 哲也は目をきつく閉じたまま精一杯頭を下げた。


「いいか、ここは遊園地のアトラクションじゃないんだ。自分だけじゃなくほかの人間の生死がかかっているってわかっているのか」

「申しわけありませんでしたっ!」

「それに言ったはずだったな、ミオ君には心臓に持病があるってことを。彼女は激しい運動をすることができない。だからこんなことがないようにくれぐれも行動には注意しろって」

「……」

「幸いペースメーカーのおかげで大事には至らなかったが、あんなことを何度も繰り返していたらそのうち死んでしまうぞ」

「……」

「まあいい。いくら見学だけだからといってミオ君と君をふたりだけにした私の判断ミスだ。もう何人かつけるべきだった」

「……」

「いつまでそうしているつもりだ。下がっていいぞ。早く部屋に戻って休みたまえ」

「あ、あのう、ミオは」

「大丈夫だ。医務室で眠っている」

「そうか、よかった」


 ふらふらした足取りで哲也は部屋を出て行った。彼らを取り巻いていた連中もそれぞれの持ち場に散っていく。


「ねえ、エリカ」

 ひとりの女性がエリカに話しかけた。浅いくせ毛にメガネを掛けている。


「ちょっとやり過ぎたんじゃない」

「いいの、アオイ。あのくらいでちょうどいいの。彼にはことの重大さを認識してもらわないと」


 エリカは普段まわりにするのとはまるで違った口調で答えた。

 アオイと呼ばれた女性は哲也が出て行ったほうを振り返り、片手でちょっとメガネのつるを触った。


「テツヤ君、あれでここが嫌いになってしまわないといいんだけど」

「大丈夫。あの程度で参るような人間ならそもそもここへは連れてはきてないし」

「そうね」

「ねえアオイ、あなたもわかっているでしょ。彼が私たちふたりにとってどういう人間か。彼はこれから何度も危険な目に遭うことになるはずよ。だから最初が肝心なの」

「わかったわ。あなたは間違っていないわ、エリカ」

「ありがとう。あなたがいてくれてよかったわ、アオイ」


 そう言うとエリカはやさしくアオイの肩を抱いた。

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