7 訓練開始
「テツヤ君、何してるんだ。十二時はとっくに過ぎてるぞ」
レイラが彼を呼びに近づいてきていた。しかし哲也は彼女のほうを振り返らず、あの人影らしきものが消えたあたりをじっと見つめて動かなかった。
「テツヤ君」
「あっ、レイラさん。今あそこに誰かいたような」
「なんだって」
レイラのこめかみがわずかにピクッと動いた。哲也には彼女がつぶやく声が聞こえた。
「まさか……、早すぎる」
レイラは哲也が示したあたりを入念に調べ始めた。さらにはそこから先の様子を見に行ったりもした。
しかしレイラは何も見つけられなかった。哲也のところに戻ってきた彼女は明らかに苛立っていた。しかし口調だけは気持ちを抑えるようにこう言った。
「テツヤ君、君はなんであそこに人がいるって思ったんだ」
「えっ。いや、なんか人影が見えたような気がしたから」
「人の姿を見たのか」
「い、いや。一瞬だったからよくわかんなくて」
「何か声を掛けられたりは」
「別にそんなことは」
「本当か。本当に声を掛けられたり、まさか会話などしてないだろうな」
「うん……」
力なくうなずく哲也。その様子をレイラはしばらく見つめていた。
なぜ哲也がレイラに本当のことを話さなかったのか。彼には予感があったのだ。「良い予感」か「悪い予感」かはわからなかったが、“あの声のことを彼女に知られてはならない”という予感が。
「よし。じゃあそろそろ行こうか」
突然、レイラが哲也の腕を引っ張った。予感に気を取られていた哲也には一瞬なんのことかわからなかった。
「えっ、行くって、どこへ」
「何を言ってる。昼食だ。もう忘れたのか」
レイラのあきれたような目線には哲也のことを疑っている様子は微塵もなかった。その目線が哲也には痛かった。
その翌日。
今日から哲也のチップ埋め込みのための訓練が始まる。訓練センターへと滑り込んだ車の中には哲也とレイラの姿があった。
「じゃあがんばりたまえ。訓練が終わったあたりでまた寄るから、一緒に帰るとしよう」
片手を上げたレイラだけを乗せて車は去って行く。彼女はそのまま職場に行くのだという。
車が見えなくなってしまうと、哲也は訓練所の受付に来意を告げた。
「お待ちしておりました。誘導表示に沿ってお進みください」
アンドロイドの受付嬢は一見すると人間と見間違えそうだ。彼女の言葉どおり通路に誘導表示が光っていた。それに従って歩いて行くとある部屋の前に着いた。
ドアが開き中に入ったが誰もいなかった。なにやらあちこちに装置が並んでいるのが見えた。
哲也が物珍しそうにそれらの装置を眺めていると、彼が入ってきたのとは別のドアが開いた。
「こんにちは。君がテツヤ君ね」
明るい声とともに二人の女性が部屋に入ってきた。どちらも年格好はレイラとあまり変わらない。
「は、はい。こんにちは」
不意を突かれて戸惑ったものの、なんとか笑顔を作って答える哲也。
女性ふたり組はそんな彼の様子に笑顔を見せながら話しかける。
「まずは自己紹介ね。私はテラオカ・アヤ」
「そして私がゴトウ・ミクよ。私たちがこれから手術まで君の訓練を担当するわ。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
彼女らの声はレイラと違って底抜けに明るかった。哲也は緊張から解放されていくのを感じた。
アヤと名乗ったほうの女性が哲也に話しかける。
「資料を見たけど、テツヤ君ってもしかしてレイラのところに同居してるの」
哲也は思わずめまいを感じた。まさかここでレイラの名前が出るとは思いもしていなかった。
「えっ、レイラさんのことをご存じで」
「やっぱりそうなんだ。ええ、彼女のことならよく知ってるわ。LTぐらいからのつきあいだもの」
「私もそう。あの頃は三人でよくつるんだものよ」
ミクも笑顔で相づちを打つ。
おもむろに哲也が尋ねた。
「あのう、“LT”ってなんですか」
「あっごめんなさい。テツヤ君は知らないのよね。義務教育の後半を担当する学校を“後期校”って言うの。十才から十四才が対象で、私たちはローティーンに引っかけて“LT”って呼んでたの。本当は十二才まではローティーンじゃないし、ローティーン自体が和製英語らしいんだけどね」
アヤとミクは声を揃えて笑った。哲也は疑問が解消された上に、思わぬ形であの「後期校」の意味も知ることができた。
「わかりました。じゃあレイラさんが俺のサポート役についたのはここの関係者だからなのかな」
哲也はレイラの姿を探すかのようにあたりを見回した。しかしミクの答えは彼の期待とは違っていた。
「ううん。彼女の職場はここじゃないの。彼女の職場はまったく別。聞いてなかったの」
「はい。仕事については何も教えてくれませんでした」
「なるほどね。まあ確かに教えたくはないでしょうね」
「えっ、どういうことですか」
アヤとミクは顔を見合わせてフフッと笑った。
「あのねここだけの話、レイラはテツヤ君に嫌われたくないのよ。だから自分の仕事がなんなのか教えようとしないのよ」
「そうなんですか」
「そうよ。だからテツヤ君もレイラには仕事のことは聞いちゃダメ。嫌いになりたくないでしょ、レイラのこと」
「はい」
途端にふたりは吹き出した。
「あー、もしかしてテツヤ君、レイラのこと好き?」
「ち、違いますよ。ひどい。引っかけたんですか」
「ごめんごめん。つい出来心でね。でもレイラに仕事のことを聞いちゃダメって言うのは本当よ」
「そうなんですか。でもなんで」
「まあ、いずれそのうちわかるわ。じゃあそろそろ訓練のほうを始めましょうか」
アヤとミクはてきぱきとした様子で訓練の準備を始めていた。
訓練初日は無事に終わった。哲也はレイラとともに再び車の中にあった。
訓練所に来るときは訓練への不安だけが哲也の心を占めていた、しかし今日の訓練が何事もなく終わった今、初めてレイラと車に乗ったときのあのドキドキ感が再び哲也の心に満ちていた。
いや、もしかするとあの時以上だったかも。それはアヤとミクに『レイラのこと好き?』と聞かれたことが多分に影響していたのかもしれない。
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