6 “声”
■
ふたりはマンションの一室の前に立っていた。レイラがドアの前へと進むとロックの外れる音がしてドアが自動で開いた。おそらくチップシステムが開けていい相手かどうかを判別しているのだろう。
「さあ、入りたまえ」
レイラは両手を広げて哲也のほうへ振り返った。
「お、お邪魔します」
対する哲也は必要以上におどおどしているように見えた。本当に自分がこんなところへ入ってもいいのかまだ疑っているかのようだった。
「何をおどおどしているんだ。今日からテツヤ君はここに住むんだぞ。ここが君の家になるんだ」
「で、でもココって明らかに誰か住んでますよね。ここに小物が飾ってあったりするし、そこの鏡もなんかちょっと汚れているような気が」
「悪かったな、汚く住んでいて」
「えっ、じゃあもしかしてココは」
「そう、ご想像の通りここは私の家。そして今日からは君の家でもあるというわけだ」
「えっ」
哲也は絶句した。自動車の中でのふたりっきりでさえ十分にどぎまぎしたのに、今度はひとつ屋根の下で暮らすのだというのか。哲也の中で何かのメーターが一気に振り切れた。
思わずよろめく哲也。すかさずレイラが脇から支える。
「大丈夫か。あれくらいの距離を歩いただけでめまいか。報告書にはどこも悪いところはないとあったが」
「あ、ありがとうございます。大丈夫です。ちょっと意外だっただけで」
「そうか、ならいい。さあ、こっちだ。こっちが君の部屋だ」
哲也がレイラに腕をつかまれたまま案内されたのは六畳ほどの部屋だった。
「取りあえずベッドと机は用意させた。チップ埋め込みの訓練に関する資料は明日届くはずだ。ほかに何か必要なものがあったら遠慮なく言ってほしい」
「どうも」
「昼食は十二時だ。まだ少し時間があるな。なんなら下の公園にでも行ってくるといい。時計はこれを使ってくれ」
「どうも」
「これは少額決済や緊急通報の機能も持っている。こう操作するとメッセージとともに君の座標が私に届く。あっ、それからトイレは玄関入って左手のドアだ」
「どうも」
哲也の姿はマンションのまわりに広がる公園にあった。
公園は広かった。たかがマンション前の公園と侮っていた哲也は、ここでは2016年の常識が通じないことを改めて実感していた。公園が広すぎて地上に降りた彼からは全景を見渡すことができないのだ。緑が豊富にあってあちこちに楽しそうな家族連れの姿が見える。所々に飲み物や食べ物を売る売店や屋台まである。哲也は思い切ってそのひとつに飛び込んだ。一分後には彼の右手には飲料のパックが握られていた。ドキドキした割にはあっけなかった。
「『案ずるより産むが易し』、か。『あれこれ悩む前にやってみろ』って、爺ちゃんによく言われたっけ」
哲也はふうっと息を吐いた。心臓の鼓動がまだはっきりと感じられる。
彼はパックと一体化した飲み口をくわえた。ほんのり甘酸っぱい味が彼ののどを通っていく。
公園をいくらか見て回ったところで哲也はベンチに腰を下ろした。正面前方にはあのマンションが見える。これから暮らす部屋のある47階ははるか上だ。
「すごいところへ来ちゃったもんだな」
哲也はぽつりとつぶやいた。
あの黒い穴に落ちたと思ってから彼の認識ではまだ一週間もたっていない。そして今、彼は人類が到達したある意味理想社会の中にいるのだった。
それだけではない。チップ埋め込み手術が行われるまでの二週間、少なくともそのあいだはあの美女レイラと一緒に暮らすのだ。改めてそれを思っただけで哲也は自分の体が火照るのを感じた。あんな魅力的な人と一緒に二週間も暮らせば、何か“アクシデント”が起こることは十分ありえる。“ハプニング”といったほうが適切か。もちろん彼のほうから積極的に何かを仕掛けていくような勇気は今のところない。しかしそんなものがなくてもひょっとしたら、もしかしたら……
ふと哲也はレイラから渡された時計に目を落とした。「昼食の時間」と言われた十二時を数分過ぎていた。
「やべっ、たぶんレイラさんは時間にも厳しいぞ。早く戻らなきゃ」
哲也はいそいそとベンチから立ち上がりかけた。
その時だった、あの“声”が響いたのは。
「逃げて」
背後から突然聞こえた“声”に哲也は不意を打たれた。若い女性のように聞こえた。
「えっ」
思わずあたりを見回す哲也。しかしそばに人の姿はない。
哲也はそのまましばらく待った。さっきの“声”が自分への呼びかけであるならば、待っていればもう一度呼びかけてくるはずだと思ったのだ。しかし聞こえるのは公園のざわめきのみ。
「おかしいな。俺への呼びかけかと思ったんだけど違ったかな。ここ数日でいろいろなことがあったし、今日だけでも驚くことばかりでさすがに疲れて幻聴でも聞こえたのかな」
哲也は首を左右に振りながら再びベンチに腰を下ろした。少しでも疲れを取ろうと大きく伸びをしたり上半身を左右にねじったり大きく円を描くように回転させたりした。彼のまわりでは初夏の日差しが木漏れ日としてキラキラ光っていた。
“こんな風景を純粋に自分の目だけで見られるのもあと二週間なのか”
哲也の心にふと情緒的な気分が浮かんだ。
そのとき再びあの“声”がした。
「逃げて、今すぐに」
哲也は思わず飛び上がった。電撃が自分の体を貫いたように感じた。さっきよりはっきりとその“声”は聞こえた。若い女性というより少女といったほうが適切かもしれないその“声”。それは以前どこかで聞いたことがあるような気もしたが、それがいつ、どこでだったかは思い出せなかった。
すばやくあたりを見回す。背後の植え込みの裏、十数メートル先に小柄な人影のようなものが走り去るのが一瞬見えてすぐに消えた。
「あっ、待って」
思わずその方向へ呼びかける哲也。しかし答えはない。風が植え込みの木々を揺らしているのが見えるだけ。
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