第5話 先延ばし

 遅くなったが、夕食は、予定通り『冷製パスタ マリノ姫風』を作ることにした。

 昨日から特製トマトソースを準備していた。……主役のトマトは、ヘタを取って湯むきする。五ミリくらいの粗切りにして、芯にあたる部分を取り除く。ボウルに、そのトマトと皮を剥いたニンニクとオリーヴオイルを入れ、塩、胡椒で味を調えれて、なるべくならば一日くらいおいて味をよく馴染ませれば、特製トマトソースは完成だ。

 せっかくソースは作ったのだし、たとえ林さんが倒れようと、私たちは生命活動を継続するために食事をしなければならないのだから。パスタを中止する理由は無い。この料理、パスタ自体は単純に茹でるだけ。特製ソースを作る昨日の過程こそが本題だといえる。

 林さんの騒動が過ぎ去っても、台風一過とは違って快晴という気分ではなかった。もう既にカーテンを閉めた窓の外は真っ暗になっている。

 それでも、気を取り直して料理をする。いかに気が動転しているからといって、私が作らなければ食事は無しになってしまう。私がしっかりしなければ。

 たっぷりのお湯を沸かして、パスタを少しやわらかめに茹で、ザルに取って冷水につけ、素早く冷ます。余分なことは考えず、作業は機械的に行う。麺の水気を切って、ニンニクを取り除いたトマトソースを合わせ、塩、胡椒でざっと味を調える。

 気分を変える意味も含めて清涼感のある器に盛り、ヒマワリ油をかけ、緑色も鮮やかなパセリの粉末を振り掛けた。紆余曲折はあったけど、無事に夕食できあがり。

 私と父、家族全員、二人で一緒に食べる。

 日頃から、食事中にそんなに楽しく会話が弾むというわけではないが、今日は特に黙々と食べるだけだった。気分は晴れないけど、客観的にいってパスタは美味しかった。

 食べ終わった頃に、金属的なベル音が鳴った。我が家の電話は、昔ながらのダイヤル式黒電話だ。日曜日に長年放送されている家族物アニメ番組に登場している、現在では滅多にお目にかかれないちょっとした文化財級の型だ。父が電話に出て、私は後片付けをする。

「林さんの容態についての連絡だったよ」

 洗い物を終えた私に、父は棒読みのような平坦な口調で言った。

 病院に運ばれた林さんは、幸い一命は取り留めた。ほっと一安心。でもそれはあくまでも「一」だけの安心であって完全ではない。

 林さんは、普段は威勢のいい怖いカミナリ爺さんだが、年齢が年齢だ。私の記憶が正しければ、今年で満八八歳。確か去年、数え年で米寿のお祝いをしていたはずだから。

 ……以前から体調を崩し気味だった林さんは御神木よりも危機的な状況らしい。もうあまり長くは保つような見込みは無いという。

 事態は滞ったまま、夜は更けた。

 どんな事件があっても、人は生きている限り、お腹が減る。そして、生きているからには、裏を返せば、いつか必ず死を迎える。

 ご家族はもとより、知り合いの誰もが倒れた林さんの心配をした。だが素人が気を揉んでもどうしようもない。お医者様の治療と、林さんが持ち直すことに期待する以外は無い。

 私も、普通に高校へ通って、友達と遊んで、勉強をして、部活をして、帰宅して、巫女として神社の仕事を手伝い、料理をする。

 普通に、自分の日々を過ごす。

 それだけしかできない。もどかしいけど、それだけしかできない。


   †   †   †


 その日もまた風が強かった。乱れた髪を抑えながら帰宅すると、会議室には父を含めて七人が集まって話し合っていた。対馬造園さんも赤城酒屋さんも、入院した林さんの次男であるハヤシサイクルさんもいた。他のメンバーも自営業の人が主だ。今日はお茶が既に出ていた。

 軽く挨拶をしてから、少し立ち聞きする。話題は、境内の御神木をどうするか、についてだった。今の時期にこの神社に集まって協議するべき問題はそれだけだが。

「伐るのは保留するのがいいんじゃないかな。今日なんかも随分風が強いけど、まあ今すぐ倒れると決まったものでもないしねえ。万が一があったら困るから一時的な措置としてワイヤーを四本も張って支えておけば、台風くらいでは大丈夫だと思うよ」

 対馬造園さんだった。保留論を唱えているのは。いつものグレーの作業服を着ているが、心なしか普段より少し汚れていて、疲れた印象だ。四角張った顔も、少し角が取れて丸くなっているようにも見える。体育座りはいつも通りだ。安全のために御神木を伐るべきだ。と最初に言い出したのは対馬造園さんだったはずなのに。その対馬造園さんが意見を翻した。

 植物のプロである対馬造園さんが、ワイヤーを張れば大丈夫と言っているのだから、他の素人には反対意見の出しようもなかった。そもそも御神木を伐らないで済むのなら、それに越したことはない。最初からワイヤーを張るという方向で考えていれば良かったのだ。

「まあワイヤーを張るといっても、場所的に考えるとどうしても広場を横切る格好になりそうだけどね。子供の遊び場としては狭くなっちゃうけど……広場を避けるとなると今度は参道を横切る所に張るしかないし。それだと今度は参拝客の邪魔になっちゃうからね」

「子供たちの遊び場が狭くなって気の毒だけど、仕方ないか……」

「そうだね。何事をするにも、ある程度の犠牲はつきものだから」

 対馬造園さんの意見に、他の人々は米つきのように頷く。神主である父は口を真一文字に結んだまま、氏子さんたちの意見交換を黙って聞いている。

 私はその場を離れた。春一番、ではなく春九番くらいの強い風を受けていて、髪の毛が埃っぽい。早くお風呂に入りたい。こんな会議の場に一秒も長居したくはなかった。

 何かが違う。間違っている。大人たちの会合を聞いていて釈然としない思いが胸に芽生えた。みんな自分に嘘をついているような、本心から意見を言っていないような、不満足を抱えているのが見え見えだ。

 形としては、顔が四角い対馬造園さんがまぁーるくおさめた、ということになろう。

 みんな、分かっているのだ。息子のハヤシサイクルさんも含めて、暗黙の了解だ。

 林さんは、率直に言ってもう長くない。

 御神木を伐ることにあくまでも反対を貫き通しているのは、林さんただ一人だった。

 渋江さんや渡谷さんや矢川さんも反対派ではあるけど、林さんほど強硬ではない。きちんと説得すれば渋々ではあっても賛成側に回ってくれるであろうという見込みはある。原則的に周囲の空気を読んで、無用な嵐を起こさずに長い物には巻かれるタイプの方々だ。

 説得が困難なのは、頑固な……いや、意志が極めて固い林さんだけだ。

 だとすると、今、慌てて御神木を伐ろうとして波風を立てて病床の林さんを無駄に刺激する必要は無いのだ。林さんが亡くなれば、御神木を伐るのに反対する人は実質的にいなくなる。それまで少しの間、我慢して待てばいい。短期間ならば、ワイヤーを張ることで安全は確保できる。子供たちの遊び場が狭くなるが、その程度はやむを得ない。痛み、犠牲を伴わない改革はあり得ないのだ。結論の先延ばし。時間稼ぎ。

 氏子たちが最終的に選んだ方法がこれだ。……でも、天国で見守ってくれている私のお母さんは、納得してくれるだろうか? 髪を洗いながら自問自答する。

 私がしっかりしなければ!

 神社の娘である私にとっても、御神木は心の原風景だ。御神木は、私が生まれる前からずっと見守ってくれていた。幼い頃から境内の広場は格好の遊び場だった。お母さんが病気で急逝して辛くて悲しんでいた時も、御神木は雨の日も風の日も雪の日も夏の暑い日も境内に仁王立ちしていた。その御神木が今、最期の時を迎えようとしている。

 氏子みんなが納得した形で、御神木とお別れしたい。心の準備も何も無いままの突然の別れは、お母さんが旅立った時だけでもうたくさんだ。母親孝行なんていつでもできると思って先延ばししていたら、永遠に機会を失ってしまった。先延ばしで後悔するのも、もうたくさんだ。


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