第4話 ハヤシサイクル

「おい神主! 御神木を伐る相談をしておるのだろう!」

 ヒステリックな老爺の叫びと同時に、広間の戸が乱暴に開けられた。

「うっ、林さん……」

 落ち窪み気味の大きな目が特徴の、ロマンスグレーのお爺さんだった。自転車店ハヤシサイクルのご隠居で、怖いカミナリ爺さんとして有名だ。父の世代も、子供の頃には悪戯をしては林さんに怒られていたらしい。米寿は過ぎていたはずだが矍鑠としている。

「林さん。樹医さんに看てもらって、やっぱり安全のためには伐った方がいい……」

「バカなことを言うな!」

 大声で怒鳴りつけた林さんは、黒革の大きなバッグを床に叩きつけるよう置いた。

「神主よ。私は、樹医を呼ぶことに同意した覚えはない。いつの間に決まったのだ!」

「先週の会合の時です。林さんにも連絡しましたよ。でも欠席されましたから……」

 神主である父が萎縮している。また眼鏡がずれているけど、気付く余裕すら無い模様だ。

「先週は体調が悪くて寝て……いや違う、同級生が死んでしまって葬式に行っておった。会合の結果をなぜ私に伝えなかった?」

「氏子宅には回覧板を回したんですけど」

 この手の議論は大抵が平行線だ。

「そんな物は見ておらん! 誰が何と言おうが、御神木を伐り倒すなど言語道断だ! 私の目と髪の毛の黒い内は絶対にさせない!」

 目はともかく、ロマンスグレーの林さんの髪は既に半分が白髪になっている。

「落ち着いてくださいよ林さん。私も神主として、御神木の最期を見届けなければならないのは辛いですが、まあ、もう役目を終えてお休みいただく、ということです」

「黙れ黙れ。いかに言葉を飾ったところで、あの御神木を伐ることには変わり無いではないか。とんでもない暴挙だ。東京から樹医を呼んだ、という話を聞いたから駆けつけてみると、案の定、変な方向へ話が転がっているではないか!」

 興奮した林さんが怒鳴るたびに唾が飛ぶ。

 床に置いた鞄から、林さんが何かを取り出そうとしている。帰ろうとしていた樹医さんは、林さんに出口を塞がれたので、その場に立ち尽くしている。樹医さんは長身なので、私の視点からだと、まるで頭が天井をこすりそうなくらいに見えるのだが、唐突な超展開に明らかに萎縮してしまっている。

「お前が樹医か。誰に、幾らで雇われた?」

 樹医さんと比較すると、中肉中背の林さんは小さく見える。だが林さんは、身に纏った迫力で大柄な樹医さんを圧倒していた。

「それはもちろん、神主さんに、御神木の診察を依頼されたのですよ。金額は、それはまあ、東京から来ますので出張費と宿泊費も出していただくという約束で……」

「そういうことを言っておるのではない。『御神木はもう寿命なので伐らなければ駄目です』と言うように、誰かに頼まれて、幾らか握らされたのだろう?」

「え? いや、そんな……」

「幾らもらった? 私が雇い返す。封筒に百万入っているから、本当のことを言え!」

 林さんは鞄から取り出した厚みのある袱紗包みを樹医さんに向かって突き出した。樹医さんは困惑の表情を隠し切れない。

「さっさと受け取れ! 領収書はいらん!」

「いや、こんな物、受け取れませんよ」

「足りないというのか? 幾らならいいのだ。二か、三か? まだ出せというのか?」

 広間の隅に立ったままの私は思わず口をぽかんと開けてしまった。御神木が大切という気持ちは痛いくらいに分かるのだが、そのために百万円を出そうとは……そもそも御神木を伐るように誘導するために樹医を買収しようという者がいるとは思えないのだが……

「あのう、私は、誰にも賄賂なんか貰っていません。普通に御神木を診察をしまして、いつ倒れたとしてもおかしくない様子なので、そう申し上げただけです」

「誰がそんな戯れ言を信じるか!」

 シミの浮いた顔を真っ赤にして林さんは怒鳴る。神主の家にいきなり上がり込んで大声をあげる。普通なら許されない無礼だが、この場で林さんに文句を言える人は誰も居なかった。林さんは今は息子さんに店を譲って隠居しているけど、自転車屋の店主だったのだ。近所の人はみんな子供の頃から林さんの店で自転車を買ってお世話になっている。近辺では有名なカミナリオヤジで、かつては市議会議員を三期務めたこともあるという。議員時代は武闘派で鳴らしていたらしい。だから林さんに頭が上がる人はご近所にはいない。

 父、対馬造園さん、赤城酒屋さんは互いに顔を見合わせた。御神木を伐る、という方向で無事に意見が纏まるはずだった。他の氏子たちの説得はさほど難しいとは考えられなかった。だが最後に一人、林さんという説得困難な人物が残っていたのを失念していた。

「買収されたのでもないのに、御神木を伐らねばならないとは、そんなことを言うのは藪医者だ! さっさと東京に帰れ! 排気ガスで薄汚れた街路樹でも診ておれ!」

 失礼な物言いだが、林さんの凄まじい剣幕が周囲の空気を制しているので誰も突っ込むことができない。言われている樹医さんですら、長身にもかかわらず及び腰だ。

「帰れと言っておるのだ。そしてここには二度と来るな!」

 林さんは、樹医さんが受け取ろうとしなかった紫紺の袱紗に包んだ現金を、乱暴に鞄にしまい込んだ。代わりに、細長い物体を取り出した。右手で柄を持ち、鞘から抜き取り、鞘は鞄の中に放り投げるようにして戻す。

 銀色。研ぎ澄まされた刃物の綾模様が、蛍光灯の光を照り返し、妖しく匂った。

 自転車屋のご隠居さんが、どこで入手したのか。ヤクザ映画などでよく見るようなタイプの刃物、匕首だ。通称ドスとでも言うべきだろうか。日本刀よりは随分短く、鍔も無いけど、充分に物騒な得物だ。存在自体が銃刀法に引っかかっているのでは……。

 樹医さんが小刻みに震え始めた。刃物まで登場するとは、この神社に来るまでは予想していなかったであろう。この状況ならば、怖がったからといって、臆病者の誹りを受けるいわれはない。私もまたあまりの恐ろしさに、足が竦んで動けなかったのだから。

「か、帰りますよ……言われなくても」

 長身を屈める格好で、樹医さんは逃げるように出て行った。いや逃げた。樹医さんが出て行く後ろ姿を見送った林さんは、残った三人の方へ振り返った。手に匕首を持ったまま。刃の部分は、どんなニシキヘビの紋様よりも妖しい、波のような紋様が浮き出ている。

「お主ら、この刃をよく見てみろ!」

「は、はい……」

 三人は震える声を合わせて返事した。部屋の隅には震えて声も出ない私がいる。

「これで斬られたら痛いと思わないか? 自分の体で試したいとは思わないだろう?」

 父、対馬造園さん、赤城酒屋さんの三人は頷いた。私もつられて首を縦に振っていた。

「刃物で斬られたら痛い。人間だけではなく御神木だって同じだ。そうは思わないか?」

「……あっ……」

 父から漏れた呻きは、私の心の声でもあった。御神木を伐る、ということにばかり注意が向いていて、伐られる瞬間に御神木が感じるであろう痛みにまでは、思いが至らなかった。

 御神木は年老いて、もう今にも倒れそうではあるが、まだ死んだわけではない。勢いは若木には負けるものの、新しく芽も出ているし葉も生えている。今もちゃんと生きている木なのである。既に死んでいる木ならば、刃物を入れたとしても痛くはないのかもしれないが……御神木のモモは、まだ存命中に伐り倒すことになるのだ。

 私は、自分の胴体が大きなチェーンソーで真っ二つに切断されてしまう場面を脳内で想像した。恐怖のホラー映画のワンシーン以上に強烈な痛みだ。肩凝りどころの痛みではあるまい。生唾を呑んだ。唾だから液体のはずなのに、妙に固く喉に引っかかった。

「どうした! なんとか言ったらどうだ!」

 刃物を突き付けられたら大抵は言いたいことも言えなくなるだろう。顔見知りの林さんとはいえ、刃物まで持ち出しては尋常ではない。警察に一一〇番通報すべきか否か、私は本気で考え始めた。電話をかけようとする私を林さんがドスで刺すかもしれない、という危険を考えると下手に刺激するような言動は避けた方が賢明か。でも私が躊躇している間に興奮した林さんが三人に斬りつけたりしても取り返しのつかないことになる。

 士農工商の時代じゃないんだから、刃物で人を斬った経験のある人は、現代日本においてはそう滅多にいるとは思えない。でも、想像力を働かせることはできる。料理の際、包丁で大きめの肉を捌く時の感触ならば、私だって知っている。肉は、柔らかい部分もあれば、腱のような固い部分もある。骨に当たれば、余程の力でなければ刃物は通らない。林さんが持っているドスは、見た目からして随分と切れ味が良さそうだ。あれならば、衣服も皮膚も筋肉繊維も血管もすっぱりと直線的な断面で切れることだろう。父、対馬造園さん、赤城酒屋さん、そして私。四人斬ったら、何リットルくらい血が出て飛び散るのだろうか。

 ……って、私の想像、というか妄想、ヘンな方向へと脱線しまくっていないだろうか? どうしちゃったんだろう、私。もしかして、一歩間違えば殺陣シーン開始という修羅場のこの状況に、冷静なフリをしていながら動揺しまくっているのかもしれない。い、いや、ビビってなんかいないんだからね。勘違いしないでよね、私。……これはきっと、『安寿と厨子王』に登場する安寿姫の呪いに違いない。

「待ってくださいよ。話せば分かります」

「問答無用だ!」

 父と林さんの会話は、殺害された首相と青年将校のようだ。日本史は繰り返すのか。

「林さん、まずは落ち着いてください」

「私は落ち着いておる。勘違いするな!」

 酔っ払いに限って「俺は酔ってない!」と言うのと同じで、どう考えても林さんは炎上しまくっている。赤城酒屋さんが林さんを宥めようとするが、火に油かアルコールを注ぐだけのようだ。興奮で湯気が上がりそうな林さんは、赤城酒屋さん以上に顔が赤くなっている。丁寧に櫛を入れているであろうロマンスグレーの髪も乱れ始めていた。

「御神木と、ばぁ……思い出、守る! ……ま、も……うっ、守る……うぐっ……」

 張り詰めていた広間の空気が歪に捻れた。

 唾を飛ばしながら叫んでいた林さんが、急に苦しみ出したのだ。窪んだ目からは光が失われ、膝からは力が抜け、そのまま床にゆっくりと倒れ込んだ。

 まさに朽ち木倒しだ。持っていたドスも重い音を立てて床に転がった。

「あっ」「林さん!」「どうしたんですか?」

 恫喝されていた三人が慌てて林さんに駆け寄る。私だけは別の方向に駆けていた。結局、年中無休、二四時間営業のところに電話をかけることにはなったが、警察への一一〇番ではなく救急車を呼ぶ一一九番になった。


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