第2話 御神木

 我が家は大した格式もない小規模な神社である。名前はもちろんある。

 だけど地元高校のクラスメイトの中にさえ、ウチの神社名を知らない人がいるくらい、無名だ。私の胸の大きさを羨ましがるそのクラスメイトは、そもそも神社とお寺の違いも分かっていなかった。お寺は仏教であり、お坊さんがいる。ウチは神社であり、神の道と書いて「しんとう」と読む日本特有の宗教であり、神主さんや巫女さんがいる。仏教とは違う宗教であり、結婚式やお葬式などの儀式は、仏教やキリスト教などとは違う、神道式で行う。神主さんが幣を左右左と振ってお祓いをし、常緑樹の枝に紙垂を付けた玉串を奉奠し、白衣に緋袴の巫女さんが浦安の舞を奉納する、あの方式の儀式が神道である。

 ウチの神社は建物の規模は小さいけど、境内は広い。境内の全てを掃除するのは不可能だ。神社本殿の前と、社務所である自宅の前だけを、私は竹箒で清める。

 その広い境内には、一本の御神木がある。モモの木だ。

 モモにしては随分巨木であり、老木だ。樹齢は……私は正確には知らないけど、一〇〇年くらいか、あるいはもっとずっと長いのかもしれない。とにかくウチの神社の崇敬奉賛会にいる氏子の中で、御神木より先に生まれたという人は多分いないはず。

 ちなみに氏子というのは「うじこ」と読む。神社にとっての氏子さんは、仏教のお寺さんでいうところの檀家さんに相当する。森は、一本一本の木が集まって形成されるものだが、神社も同じだ。一人一人の氏子に支えられて初めて、地域社会の中で神社は成り立つのだ。

 神社周辺に住んでいる人はみんな鎮守の杜と共に育ってきた。だから多かれ少なかれ御神木に対して思い入れを持っている。この神社の境内は自然公園といっていいくらいで、近所の人々にとっては憩いの場所だ。特に子供たちにとっては格好の遊び場となっている。

 植生の豊富な杜は、ブナ、イチョウ、カシワ、スギ、コブシ、ウメ、シダレザクラ、ヤエザクラ、コブクザクラ、……他にも私の知らない名前の木々がたくさん生えており、それでいてかぶれるウルシのような危険な植物は無い。男の子も女の子も、カブトムシやクワガタやセミなど昆虫採集もやったし、木登りもよくやった。広場としても面積があるので、鬼ごっこ、だるまさんがころんだ、ゴム跳びなどもできる。隠れる場所も豊富なのでかくれんぼもよくやった。テレビゲームや携帯電話、インターネットが普及した現在でも、ウチの神社の周辺では昔ながらの屋外での遊びが廃れずに残っている。

 神聖なる杜。でも人を遠ざけるのではなく親しみ易い。そんな境内の象徴が御神木だ。

 ようやく冬が終わり、雪もとけて人々の心も少し開放的になってきたし、子供たちも外での遊びが本格的にできるようになってきた、というこの時期。氏子の一人である対馬造園さんが、神主に対して爆弾発言をした。

 私は竹箒で玄関前を掃きながら、その時のことを思い返す。土埃が舞い上がる。

 対馬造園さんは、御神木のモモを伐るよう申し入れたのだ。

 その瞬間、稲妻が轟いた……ということは無かった。マンガじゃないのだから当たり前だ。でもまさにその一瞬、窓の外では本当に突風が吹いて、大きな音が不吉に鳴った。

「御神木だぞ。神様だぞ。いいわけないだろう」

 その時、父は一秒すら考えずあっさり断った。神主として普通の判断だ。私も傍らで聞きながら、父に賛同して首が痛くなるくらい頷いた。

 だが相手は単なる父の同級生ではない。造園業者だ。植物に関するプロであり、少なくとも神主よりは専門的な知識と豊富な経験を有している。

「御神木は老衰だよ。いつ倒れるか分からない。もしかしたらあと五年大丈夫可能性もあるけど、下手をすれば明日倒れるかもしれない。遊んでいる子供や参拝客が巻き込まれて下敷きになったりしたら危険だろう。そうなる前に、伐ってしまった方がいいのではないか?」

 というのが対馬造園さんの主張だった。御神木を無理に守るより、神社の周りで生活している人間の安全を優先するための提案だ。理屈的には、確かに頷けるものだ。

 父は、いかに神主とはいえ自分一人の判断だけで決めてしまうわけにはいかないと思い、氏子たちの意見を広く聞くことにした。

 主な氏子たちがウチの神社に集まり、協議した。みんな忙しいにもかかわらず、出席者数は多かった。それだけ、御神木は氏子たちに愛着を持たれているのだ。

 まるで大相撲で物言いがついた時の勝負審判たちみたいに、氏子のみなさんは難しい顔をしていた。神主である父も反対したし、赤城酒屋さんも反対した。

 最後には私も意見を求められた。居候が三杯目のお茶碗を出す時のようにそっと「反対です」と短く言った。賛成する人もいたけど、反対意見の方が圧倒的に多かった。反対しそうな人ばかりを意図的に集めたわけではなかったが、予想された結果ではあった。

「こういう問題は、多数決で決めることじゃないだろう?」

 対馬造園さんにそう言われると、大多数の氏子たちは反論の言葉を失う。

 反対している人たちの中で、樹木について専門的な知識を持っている人は一人もいなかった。せいぜい家庭菜園でプチトマトを作っているか、趣味で盆栽をやっている人がいるくらいだ。誰もが理屈では御神木が危険な状態だと理解し、感情では御神木を守りたいと思っている。二律背反に苛まれ、何も言えず、世界遺産の白神山地ブナ原生林よりも深い沈黙の樹海に沈む。一人が手を挙げた。みんなの視線を集めたのは、いつもながら赤ら顔の赤城酒屋さんだった。

「確かに、対馬の言うことにも一理ある。神様というのは、基本的に人間を見守ってくださる存在のはずです。その神様である御神木が倒れて、万が一、人を傷付けるようなことがあっては本末転倒も甚だしい。……そこで、樹医に頼んで、御神木を診察してもらおうと思うのですけど、みなさんどうでしょうかね? 御神木に対して利害関係の無い樹医が、伐るべきですと診断したら、人の安全を優先して伐る。どうでしょう?」

 神主である父が大きく頷き言葉を継いだ。

「それはいい意見ですね。私もそうしたいと思います。費用はうちの神社から出させていただくということで、どうでしょうか?」

 どうでしょうか、とは問うても、答えは決まっている。神社のことに関して一般の氏子と神主とでは、発言力が違う。神主が「第三者の専門家の意見に従う」と言うのだから、何らかの形で初穂料を出している氏子たちであっても否定意見など出しようがない。初穂料というのは奉納金のことだ。その年最初に収穫された稲を神社に奉納することから転じて、冠婚葬祭の費用やお守りやお神籤の代金なども含めて、神社に対して納めるお金全般のことを初穂料という。

 あまり乗り気じゃなさそうな人も数名いたけど、とりあえず樹医を呼ぶという案は、その場に参加していた氏子全員の了承を得た。

 一番最後に私も意思を聞かれた。眉根を寄せ、腕組みをして考えてみた。腕組みをする時、胸のボリュームがなんとなく邪魔になるのはいつものこと。樹医を呼び、御神木を診察してもらう。費用はかかるけど、氏子たちも了承していることだし、私が敢えて反対する理由は無い。

「賛成です。来てくれる樹医さんがいるかどうか、インターネットで調べてみます」

 父を含め、氏子のみなさんは年配の方が大部分だ。パソコンとかITとかは苦手という人が多い。こういう時も、私がしっかりしなければならない。

 御神木を伐るかどうかの本題は先延ばしとなったが、樹医を呼ぶ、という結論が出たのだから、結論が出ないでケンケンゴウゴウするだけの会議よりは随分と上等だったはずだ。

 ……って、それにしても私、ケンケンゴウゴウなんて難しい言葉をよく知っているものだ、と時々自分で呆れ感心する。さすがに漢字で書くのは難しいけど、普通の女子高校生だったら読むのも困難だろう。級友には「照代って、なんかオッサン臭いよね」と言われることがある。神社の巫女として、氏子のオジサンやお爺さんたちと付き合うことが多いので、自然と難しい言葉を覚えてしまい、それだけでなく考え方までどことなくオジサン臭くなってしまったのだ。職業病のようなものだろう。巨乳と肩凝りがセットであるのと似たようなものだ。

 重苦しい雰囲気を引きずったまま、会議は終わった。ここからは私が頑張らなければ。

 パソコンのスイッチを入れインターネットに接続し、出張診療してくれる樹医を探す。

 いざ調べてみると、樹医なのだか樹木医なのだか、なんだか複雑でよく分からなかった。こちらとしては細かい定義の違いはどうでも良かった。

 目星を付けた東京の樹医に、手早く依頼メール書いて送信。パソコンの電源を切る前に、夕食のメニューを何にしようか迷ったのでレシピのページもついでに覗いて、冷蔵庫の残り物で作れそうな料理をチェックしておいた。

 ……それが、先週の日曜日の話であった。

 ……掃除をしたので本殿前と社務所前は概ねきれいになった。掃き掃除は単純作業だが、竹箒を扱うのでそれなりに体力を費やす。

 日が沈み、西に聳える山の稜線から茜色の残光がのぞくだけになった。境内で遊んでいた小学生の女の子たちも帰宅したようだ。


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