巫女の杜

kanegon

第1話 四人で卓を囲んで

「今日の夕食は……『冷製パスタ マリノ姫風』だったわね」

 部活が終わって帰宅中の私は、神社の境内を歩きながら呟いた。

 以前に新聞の生活欄で見て、いつか作ってみたいと思いメモしておいた料理だ。昨日の内に特製トマトソースを仕込んでおき、味を馴染ませてある。

 桜前線や梅前線が来るまではもうちょっとかかりそうだけど、新年度になった。春になって気温は上がったけど、その分風が強くなった。油断すると制服のスカートがめくれてしまいそうだ。胸の大きさにはそれなりに自信があるけど、脚線は……引き締まっているとは思うけど、ちょっと太いのが気になっているので、スカートが風で翻るとちょっと恥ずかしい。

 大きなモモの木を迂回して、赤い鞠をついて遊んでいる近所の子供たちと挨拶を交わして、家に着いた。強風のせいか、家の前は砂埃や落ち葉で汚れていた。風が弱まったら、明日にでも竹箒で掃いておかなければならないようだ。

 玄関の広い三和土には、数人分の男物の靴があった。我が家においては別に珍しいことではない。が、それらの内の一つは随分大きいサイズの靴だった。この足の大きな来客が元になって後で大騒動に発展するのだが、帰宅したばかりの時点では私には予想のしようもなかった。早くシャワーを浴びたい気持ちだけが前のめり気味に先走っていた。

 自室に鞄とラケットを置き、浴室に向かう。


   †   †   †


 長い黒髪は纏めて、最初に熱めのシャワーを直接肩にかける。シャワーの勢いも強めにして、少しでもマッサージ効果を高めている。気休め程度にしかならないだろうけれど。とにかく肩凝りが辛い。胸が大きいのは良いことばかりではない。ただ巨乳というだけで何もしなくても肩が凝って痛いくらいなのだから、一面では損をしているともいえる。

 私は忙しい。私がしっかりしなければ家のことが色々滞って困る。ざっと汗と砂埃を流す程度のシャワーを終え、私服ではなく装束を着る。清楚な純白と朱色のコントラスト。舞を奉納するわけではないので千早は着ないが、髪を首の後ろで一つに束ね直すと心身共に引き締まる。

 会議室として使われている広間に行くと、男性四人が卓を囲んでいた。麻雀ではない。飴色のテーブル上には書類が載っていて、四人は難しい顔で話し合っている。

 一人は私の父、この神社の神主だ。今は神主の正装ではなく、作業服のような地味な普段着だ。狩衣も烏帽子も着用していない。眼鏡の奥では、夜の合歓のように睫毛が伏せられていた。

 父と三人のお客さんに「ただいま。いらっしゃいませ」と会釈して、私は再度テーブルの上に注目した。書類が載っている。やはりこういう時は、女の人の細やかな気配りが無いといけない。私がしっかりしなければ二人暮らしの生活が色々滞るし、神社としての業務も困る。

「お父さん、お客様にお茶も出さないで」

「ああ、済まん済まん忘れてたよ」

 もう二人の中年男性も顔見知りだ。一人は妙に四角張った顔が特徴の対馬造園(有)さん。土汚れの染み込んだグレーの作業服を着て、臙脂色の夫婦鶴柄座布団に体育座りをしている。短く刈り込んでいる髪も角刈りだ。

 もう一人は、常に赤らんだ顔も丸いけど体型もやっぱり丸い赤城酒屋さん。自分が酒店だからって飲み過ぎだ。ダイエットと休肝日が必要だろう。今の内からきちんと健康管理をしないと、いずれ脳梗塞あたりになってしまいそうだ。脳の病気は恐ろしいんだから。

 私は台所で手早く準備をし、四人にお茶を出す。スーパーの安売りで買った普通の緑茶だ。家計を考え、常にチラシに目を通し、安売りしている日を虎視眈々と狙っている。

 巫女服は何度着ても慣れない。作業をする時に大きな袖が邪魔になるから。同級生たちよりも遥かに胸が大きいのは秘かに自慢だが、和装の時は困る。和服って、胸が大きいよりも小ぶりの方が全体的に美しい線になるような構造になっている。

「話を戻すけど、神主さん、もう分かったでしょう? 迷う気持ちは察しますけど」

 対馬造園さんは、幼稚園小学校中学校高校まで私の父とは同級生だったそうだ。二人ともやんちゃボウズで、悪さをして歩いていたらしい。当時の自転車屋のご主人さんにしょっちゅう雷を落とされたそうだ。でも今、対馬造園さんは、私の父を名前ではなく「神主さん」と呼んだ。しかもですますを付けた敬語で話している。畏まった真剣勝負の言い方。

 父はテーブルに右肘をつき、掌に顎を乗せて「んー」と唸る。あまり、いや全然お行儀は良くないが、これでも神主として氏子の皆様から信頼を寄せられている。

「赤城先輩はどうですか? 利害のかかわらない第三者を呼んで診察をしてもらおう、って先週提案したのは赤城先輩でしたよね?」

「ああ、そうだなあ」

 竜胆柄の湯飲み茶碗をふーふー吹いていた赤城酒屋さんは、対馬さんから話を向けられて赤ら顔に困惑の表情を浮かべた。赤城酒屋さんと対馬造園さんは、中学時代に部活の先輩後輩だったという関係だ。対馬造園さんの方が後輩だけど、強い口調で言われて、先輩である赤城さんが全く反論できないでいる。

「確かに言ったかもしれないな。でもあの時、渡谷さんも、矢川写真店の銀ちゃんも、樹医さんを呼ぶことには反対っぽい態度だったじゃないか。みんながほとんど賛成したから、渡谷さんも銀ちゃんも仕方なく空気を読んで歩調を合わせたような感じだったぞ」

「今更そんなこと言っても関係ないでしょう。もう東京から来てもらったんですから」

「そりゃま対馬の言う通りだわな……でも俺、あの御神木には思い入れがあるんだよな」

 吹いていた湯飲みに口もつけず、赤城酒屋さんは独白を始めた。

「子供の頃、三月三日に桃の節句だからって、あのモモの木の下で白酒を飲んだんだ。生まれて初めて飲んだ酒だったけど、旨かったなぁ。大人になってからは正月にはお屠蘇、クリスマスにはシャンパン、夏にはビール。嬉しい時や辛い時に御神木と一緒に酒を飲んできたよ」

 赤城酒屋さんは思い出話までもが酒関係だ。しかもビールくらいならともかく、キリスト教の行事であるクリスマスにシャンパンを飲んでいたなんて。ここは教会ではない。神明型の鳥居があって本殿の屋根には千木と鰹木が森厳な雰囲気を醸し出す神社なのに……。

 テーブルを囲んでいる最後の一人は、私にとっては見覚えの無い人物だ。座っていても周囲からは頭一つ以上抜けている程の長身で、まるでカマキリのように痩せていて、イメージとしてはひょろ長い。二〇歳代後半くらいと思しき、すっきりした顔立ちの美男子だった。この人が話に出てきた樹医さんに間違いない。樹医という職業名からイメージするのは熟年と呼ばれる世代なのだが、この樹医さんは随分若いようだ。

 会議室には重苦しい雰囲気が漂っている。空気の密度が増して圧迫感を覚えずにはいられない。お茶を出してお盆を片付けた私は、広間の隅で立ったまま、議論の行方を見守ることにする。会議の空気が感染したのか、私の気持ちも十和田湖よりも深く沈む。

「思い出があるのは誰も同じです。……神主さん、優柔不断じゃダメですよ。決断してください。子供や参拝者が怪我をした、なんて話になってからでは遅すぎるんですよ!」

 父が首を捻る。居心地悪そうな赤城さんは紺色のエプロンを弄びつつ沈黙する。

「俺も神主として、理に適った決断をしなければならない。対馬の言っていることが正しいのは判る。見た目にも明らかに危ないし。……でも、今の赤城さんの話もそうだけど、神主という立場を別にして俺個人としても、思い出も思い入れもあるし……名残惜しいじゃないか」

「何度も言うけど、俺だって好きで提案しているんじゃないんですからね!」

 対馬造園さんも顔が赤くなってきた。人間、ヒートアップすると、同じ内容の発言ばかりを執拗に繰り返すようになる傾向があるかもしれない。

「今だから言うけど俺、中学二年の時にテニス部のマドンナと言われていた代々木先輩に手紙を出したことがあるんです。御神木の下に呼び出して告白するつもりだったんです」

「……ああ、代々木先輩か。確かにきれいな人だったな。俺も憧れてはいたけど、対馬とは違って身の程知らずな告白をしようなんて気は起こさなかったぞ」

「身の程知らずで悪かったな……。俺、御神木の下で代々木先輩が来てくれるのをずっと待っていたんですよ。運悪く雨が降り出しちゃって、結局日が暮れても来ないから、帰っちゃったけど……そしたら、家のポストに代々木先輩が直接入れた手紙があって、そこにはただ一言だけ『ごめんなさい』って書いてあったんです。……まあ、青春時代の思い出です」

 告白を終えた対馬造園さんは落ち着かなげに腰を動かし、やっぱり体育座りで腰を落ち着け直す。四角い顔の表情に動きは無いものの、やはり照れくさかったのかもしれない。

「……そういうことで。俺だって御神木には思い出があるんです。何度も言いますけど好きで伐ろうと言っているんじゃないんです。そこのところを理解してもらいたいんですよ」

 言って対馬造園さんは、父と赤城酒屋さんの顔を睨むようにして交互に見つめた。父は僅かに顔を伏せ、赤城酒屋さんは小さく首を捻った。

 ぽつり。雨が降り始める時の一番最初のひとしずくみたいに、父が呟いた。

「……仕方ないのかな。樹医さんの診断も出てしまったし。……伐るか、御神木」

 赤城酒屋さんが色めき立ってつい腰を浮かした、が、すぐに座り直した。

 私は下がりめの眉尻を更に下げた。悲しく重いものだ。今の父の決定は。

 でも父にとっては、先週日曜日に開かれた会合での発言がある。やむを得ない決断だ。

 気が付くと、もう外は薄暗くなってきている。木の枝の動きを見ると、風は先程よりも弱まったようだ。明日に先延ばしせず、完全に暗くなる前に表の掃除を済ませておこうと思い、オブザーバーである私は会議の場を退出した。先延ばしは良くない。


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