シンデレラの条件

吾妻栄子

シンデレラの条件

「あの人?」

 パーティ会場の奥でフルートグラスを手に談笑している彼女を見つけ、僕は小声で隣の父さんに念を押した。

 確かに新聞に載った白黒の写真で見たよりも、実物は栗色の勝ったブロンドに明るい青の瞳を持ち、すらりとした長身にトパーズ色のドレスを纏った、かなり目を引く美人ではある。

「そうだよ」

 父さんは頷きながらも、肘で僕の二の腕を軽く小突く。

「お前、くれぐれも失礼を働くんじゃないぞ」

「分かってるよ」

 僕は行く手に目を注いだまま、心の中で付け加える。

 それは、彼女が本物の皇女エカチェリーナだと見極めてからの話だ。


*****

「まあ、ペテルブルグからいらしたんですか」

 彼女は嬉しげに父さんに向かって念を押す。

 ロシア人と聞くと警戒するという噂とはどうも違うようだ。

「ええ、私の父の代までは宝石職人として宮廷にも出入りしていました」

 父さんは誇らしげに答える。

 今となっては、偽石を磨いて売り捌く方がはるかに多いのに。

「亡くなった妻は男爵家の出身でして、皇帝ご夫妻にお目通りしたこともあるそうです」

 母さんは外では極力、ロシア貴族の出だとは知れないようにしていたんだけどな。

「そうですか」

 得意げな顔つきの父さんに向かって頷く彼女の笑顔はどこか寂しくなる。

 母さんが革命で続出した没落貴族の娘と察したのかもしれない。

 父さんが余計なことを言い出すから……。

「息子はこちらに移ってから生まれたので、ロシアのことは何も知りません」

 父さんの言葉で彼女は改めてこちらに眼差しを向けた。

 ふわっとラべンダーの甘い香りが届く。

「ぼ、僕はアメリカ人です」

 堂々と反駁したつもりが、何故か震え声になった。

 彼女は、大丈夫よ、という風に微笑んで頷いている。

「私も今はそうよ」

 訛りのない綺麗な英語を話すという評判は本当みたいだ。

 この人が風聞通りポーランド人の女工だとすれば、いつ、どこで、外国語を身に着けたのか疑問が残るし、でも、実際のエカチェリーナは姉妹の中でも語学が苦手だったとも聞くし……。

 僕の思いをよそに彼女は腰掛けてグラスに唇を付ける。

 流れるような所作だ。

「置かれた場所で咲け、とよく言うわね」

 この人の顔には、例えばやや厚すぎる下唇だとか、ふとした瞬間に三白眼気味になる目だとか、一見して美人の典型から外れる特徴が少なくない。

 身に着けている衣装やアクセサリーにしても、パーティ会場に集まった女性たちの中では、むしろ大人しめの部類だ。

 にも関わらず、黙って腰掛けているだけで、まるでシャンデリアを燈したように、そこの空気が明るく彩られて見えるのだ。

 それが本物の皇女であるが故の輝きなのか、それとも、皇女を完璧に演じ切る女優としての華やぎなのかはすぐ近くで眺める僕の目にも判然としない。

 だが、もし、ポーランドの貧しい農家に生まれた女工という噂が本当だとしても、汗や泥まみれの労働の中に埋もれさせるべき存在だったとは思えなかった。

 というより、この人が貧賤に育ったとしても、「生き残った皇女」とはまた別な形で掬い上げられて、ここにいた気がしてくる。

「こちらにいらしたんですね!」

 聞き覚えのある声に振り向くと、サイのように丸々肥った体にまるで軍人の勲章みたいに宝石で飾り付けたドレスを纏った中年の女が立っていた。

 この人はこの前、うちの店に来た銀行家の奥さんだ。

「随分、探しましたわ」

 頭取夫人は香水の点け過ぎでむせ返りそうなローズの匂いを撒き散らしながら、まるで他の人間を押し退けるようにして、腰掛けている彼女に直進していく。

「お久しぶりです」

 彼女が苦笑気味に会釈すると、頭取夫人はこれまたサイそっくりの肥った顔いっぱいに笑顔を浮かべた。

「ええ、もう本当にご無沙汰してましたわ! 今日は主人と子供たちも来ておりますので……」

 頭取夫人はさながら機関銃のように喋り始めた。

――聞きました? 生き残ったロシアの皇女だなんて人がこの辺りの社交界にも顔出しするようになったんですよ。

――本当のところはどこで何をして成り上がったか怪しい女よ。

――胡散臭い人が来ると、集まりの格が落ちるわ。

 この前、うちで新しく指輪を作らせながら、この人は盛んにそんなことを話していた。

 蔭であれこれ言い立てる人でも、いざ本人を前にすると、腹心の女官か従僕のように振る舞い出す。

 彼女の姿や立ち居振る舞いが「これはぞんざいに扱うべき人でない」と観る者に本能的に思わせ、「この人の目に映る自分を少しでも愛すべきものにしたい」と感じさせるのだ。

 でも、僕は自分の目でこの人が本物だと見極めるまで、跪いたりしない。

 むしろ、彼女が真に皇女であっても、自分だけは抗したい気がした。

 ここは自由と平等の国だ。

 僕は父さんや銀行家の奥様みたいに、高貴な血筋を崇めたりなんかしない。

 大体、皇帝の娘だから、それが何だ?

 生まれしか誇れるものがないのなら、偽物と変わらない。

 父さんが別の部屋に挨拶に行くのを横目に、僕は知らず知らず拳を固く握り締めていた。

 ふわりとラベンダーの香りが鼻先を撫でる。

 優しい花の匂いを後に残しつつ、すらりとした後姿が廊下に消えていく。

 今だ!

 僕は彼女の後を追った。


*****

「すみません」

 胸の高鳴りを必死に抑える僕とは対照的に、足を止めて振り返った白い顔は、まるで呼び止められることを予想していたかのように親しげな笑いを仄かに帯びていた。

 しかし、ここで止めるわけにはいかない。

 両のポケットから同時に一点ずつ指輪を取り出した。

「これ、片方が本物のダイヤで、もう片方はそっくりに作った偽物です」

 貧弱な僕の両手の先に、二点の虹色の輝きが点った。

 どちらもプラチナの台に一カラットの石が嵌め込まれている。

 大きさも、形も、色合いも、そして輝きまでもが、まるで双子のように酷似した二点の指輪。

「どちらが本物か当てて下さったら、そのまま差し上げます」

 一息に言い終えてから、彼女が口を開きかけたのに被せて、僕は言葉を継ぐ。

「あなたは皇女様ですから」

 挑戦的に言い放ったつもりだったのに、なぜか懇願じみた調子になった。

 広間では音楽が始まったらしく、バイオリンの音色が遠く聞こえてくる。

 事情を知らない人が僕らを見かけたら、馬鹿な職人の息子が綺麗な女性にのぼせ上がって求婚の真似事でもしていると思うかもしれない。

「あなたは、私に本物を選んでほしいのかしら」

 彼女の目は真っ直ぐ僕を観ている。

 廊下に点けられた灯りが、白々と彼女の顔を照らし出していた。

 広間のオレンジの灯りの下では明るい青の瞳だと思ったが、こうして眺めると、僅かに灰色が混ざっている。

――亡き皇帝陛下は明るい青、皇后陛下は灰色が勝った茶色の目をしていらして、ご夫妻とも本当に美しかった。

 母さんが繰り返し語った言葉が頭の中で蘇る。

「私が選んだ方を偽物だと言いたいのではないの」

 長い睫毛に覆われた青灰色の目は穏やかに微笑んでいる。

 怒りや狼狽の色は微塵も見えなかった。

 だからこそ、僕はこの人と向き合っている状況が急速に怖くなってきた。

「二つとも、とっても綺麗だわ」

 むしろあどけないほど純粋な賛美の口調だったにも関らず、お前は醜い、と言われた気がした。

 彼女は絹のように柔らかな声で続ける。

「だからこそ、どちらかだけは選べない」

 どちらも偽物だから、と告げられた気がした。

 模造のダイヤモンドの光を反射した彼女の瞳は、しかし、眩いほど煌めいて見える。

 もし、こんな石があったら、どんな高値がついても、売りに出さず、自分の引き出しに収めておきたいと頭のどこかで思う。

「私はね、一度、死に掛けてから、他人の決めた尺度より、自分がより良いと思う方を選ぶことにしたの」

 彼女は無邪気な調子でそう言い切ると、いたずらっ子のように笑った。

――あの女の正体は、爆発事故で気のふれた女工。

――王家の遺産を狙う連中に利用されているだけの操り人形。

 曇りのない瞳で笑う彼女を前に、頭の中で耳にした噂話がぐるぐる回る。

「それじゃ、ごきげんよう」

 夜会服の背を向けて、彼女は広間に去っていく。

 露になったうなじから背にかけての際立った白さが、目に酷く焼きついた。

 どこからか忍び込んだ風がひやりとラベンダーの香りを吹き流して、彼女の身に着けていた匂いにずっと包まれていたことに改めて気付く。

 彼女の姿が見えなくなってから、僕は二つの偽ダイヤを手に持ったまま棒立ちになっている自分に気付いて、ポケットにしまった。

 どちらも選ばなかったことで、彼女は正解を出したのだ。

 同時に、僕の用意したものも何の価値もなくなってしまった。

「こんな所にいたのか」

 振り向くと、父さんが立っていた。

 眉間に深い切れ目のような皺が一本入っていることからして、今日はあまり良い客が見つからなかったらしい。

 父さんだって、好きで偽石を大量に売り捌いているわけじゃなくて、本当に価値ある宝石を買って大事にしてくれる人を求めているんだ。

 僕は今更ながらそのことに気付いた。

 いや、気付かなかったのではなく、ずっと、認めるのを避けてきたのだ。

「皇女様とお話してただけだよ」

 本当に、ただそれだけだ。

「何か失礼をしていないだろうな」

 父さんの表情には不安を通り越して恐怖めいたものすら見える。

 パーティはもうお開きらしく、広間からぞろぞろ人影が出てきた。

 同時に煙草やら整髪料やら香水やらの混ざった匂いも僕ら父子を取り囲むように流れてくる。

「それは、向こうが決めることだよ」

 父さんが何か言い掛ける前に、僕は流れに身を紛らして歩き出した。

 彼女はもう帰ったのかな?

 それとも、まだ広間にいるのかな?

 胸の内ではそればかりが気に懸かるのに、見回してあの青灰色の瞳に再びぶつかる瞬間が怖い。

 会場を出てしばらく行ってから振り返ると、オレンジ色の灯りの点いた部屋には、まだ、ちらほら黒い人影が動いていた。


*****

「おじいちゃん」

 休日の恒例で少し遅く起きた、まだ十歳になったばかりの少年が、パジャマ姿のまま新聞を手にせかせかと書斎に入って来る。

 紙面には、巻き髪を下ろし白いドレスに真珠のネックレスを着けた幼い皇女の写真と夜会服の上に黒い毛皮を羽織ってどこか挑むような眼差しをこちらに向けて笑う若い女の写真が並んでいた。

「皇女エカチェリーナの遺骨が見つかったんだって」

 安楽椅子に腰掛けたまま、白髪頭を振り向けた老人の目は、ぼやけたセピア色のあどけない少女ではなく、殆ど三白眼に近い目つきをした黒い毛皮の女に注がれた。

「やっぱり革命の時に殺されて、家族とは別の場所に埋められてたみたいだよ」

 少年はまるで自分が新しい発見でもしたかのように紙面を指差しながら興奮気味に語った。

「DNA鑑定したら、おじいちゃんの昔、会った人は完全に別人だったって」

 孫息子は紙面に目を凝らして、ふといぶかしげな声を出す。

「わざわざ調べなくても、この人、最初から、全然似てないよね」

 白黒写真に浮かび上がった若い女の鋭い目もふくよかな唇も、最初から無邪気な姫君に似せようとすらしていないかのように、彼女独自の面影を持っている。

「死んだ後に骨を調べたら、やっぱり嘘でしたってか」

 老人はカラカラと喉を震わせて笑うと、膝に置いた、宝石職人特有のりだこは目立つものの、年の割には肌の瑞々しい大きな手に目を落として呟いた。

「馬鹿なことをする奴がいたもんだ」

 安楽椅子から立ち上がって眩しい陽の差し込むガラス戸の方に歩いていくと、老人は水差しを取り上げて赤紫の鞠に似たアリウムの花が咲く鉢植えに水を注ぐ。

「彼女が死ぬまで皇女だと言い続けて、出会った人は皆、敬服したのだから、それが全てじゃないか」

 密集して咲く花々の上に散った雫は、眩しい陽射しを受けてキラリと輝くと球体の奥に吸い込まれた。(了)

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シンデレラの条件 吾妻栄子 @gaoqiao412

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