第10話


深夜、青龍は一人庭に佇んでいた。



ひどく不思議な気持ちだった。

自分の心は池に映った月のようにゆらゆらと頼りなく、

今日まで何事もしっかりと打ち込んできたその真っ直ぐな心持ちがばらばらと拡散してしまうようで。


頭の中にあるのは出会ってまだ一週間ほどの丙のことばかり。


その訳はつい先刻の会話にあった。









「ありがとうございます」



神社から無事帰還し、共に寝泊まりしている一室に戻ってきた丙が唐突に礼を述べる。

未だ沈んだ表情で俯いたままの彼に少々気を揉みつつも、

青龍は意図の掴めないそれに内心戸惑った。


「…礼を言われる様なことはしていないぞ」

「いえ…」


丙は漸く顔を上げ泣きそうな顔で微笑んだ。


「僕を気にかけて下さっていたじゃないですか」

「そんなつもりは…」

「それでも、僕を、僕の存在を、認められた気がして。本当に、嬉しかったんです」

「存在…」


あまりにも透き通った声で紡がれる言葉に、青龍は面食らってしまう。

彼の話の大きさに驚いたのも勿論、その言葉は自分の心の内にも、密かに宿っているものだったからだ。


「僕、実は、青龍さんの元に来る前のこと、殆どなにも、憶えていないんです」

「……」

「生まれた家、両親や兄弟、育った場所、環境、友人。みんな、どこかに行ってしまったみたいに、なにも、わからなくて」


丙は何やら儚げとでも言うか、一見表情豊かなようだが、対して中身が圧倒的に薄い、空っぽなような印象を受けていたが、

記憶の欠落がそうさせているのだと、青龍は悟った。


「僕を気にかけて下さった方は初めてだから、本当に嬉しいんです。ありがとうございます」


自分を見失いかけていた時に、青龍の秘められた優しさに救われたのだと、丙は語った。


ぺこりと頭を下げる丙の言葉を噛み締めて、青龍は彼に近づく。

そして、やれやれと溜め息を吐くと、丙の頭を撫で、目線を合わせてやった。


「いつか、思い出せると良いな」


それは同情でも気休めでもなく、彼の本心から出た言葉だった。


丙は大きな瞳を輝かせ、とびきりの笑みを浮かべた。







そんな会話を思い出しながら、青龍は池を覗き込んだ。

なんとも言えない表情をしている男が一人、こちらを見ている。


「変だな…俺らしくもない」


そう独りごちて頭を掻く。

元服してから早三年。

この三年間、ことごとく見せ付けられてきた人間の汚い部分。

特に親しくしている友人も恋人も居らず、仕事上の上辺だけの付き合いが長く続いていた。

 

そんな自分が、出会って間もない一人の少年にあんな気持ちを抱くなんて。


「どうかしてるな」


自分も、孤独だったのだ。丙と同じように。


そう気付いて、青龍は苦笑した。





(続)

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