第4話

野馬が、窓へ首を入れて、家の中を見まわした。鼻を鳴らして、大きな息をしたので、そこに寝ていた二人は眼をさました。

「こいつめ」

 西村は、馬の顔を、平手で撲った。

泰那は、股間のゲイ♂ボルクで天井を突きあげるような伸びをしながら、

「アーッよく寝た」

「陽が高いな」

「もう日暮れじゃないか」

「まさか」

 ひと晩眠ると、もう昨日のことは頭にない、今日と明日があるだけの二人である。

西村は、早速、裏へとびだして、もろ肌をぬぎ出した。清冽な流れで体を拭き、顔を洗い、太陽の光と、深い空の大気を、腹いっぱい吸いこむように仰向いていた。

 泰那は泰那で、寝起きの顔を持ったまま、炉部屋へ行って、そこにいるお遠と浩二へ、

「おはよう」

 わざと、陽気にいって、

「おばさん、いやに鬱いでいるじゃないか」

「そうかえ」

「どうしたんだい、おばさんの良人を打ったという辻風隆馬は、打ち殺してくれたし、そのこぶんも、こらしてやったのに、鬱いでいることはなかろうに」

 泰那の怪訝るのはもっともだった。隆馬を討ってやったことはどんなに、この母娘から欣ろこばれることだろうと期待していたのに、ゆうべも、浩二は手をたたいて喜んだが、お遠は、かえって不安な顔を見せた。

 その不安を、今日まで持ち越して、炉ばたに沈みこんでいるのが、泰那には、不平でもあるし、わけがわからない――

「なぜ。なぜだい、おばさん」

 の汲んでくれたアイスティーをとって、

泰那は膝をくむ。お遠は、うすく笑った、世間を知らない若者のあらい神経を羨やむように。

「――だって、泰さん、辻風隆馬にはまだ何百というこぶんがあるんだよ」

「あ、わかった。――じゃあ奴らの仕返しを、恐がっているんだな、そんな者がなんだ、俺と西村がおれば――」

「だめ」

 軽く手を振った。

 泰那は、肩を盛りあげて、

「だめなことはない、あんな虫けら、幾人でも来い、それとも、おばさんは、俺たちが弱いと思っているのか」

「まだ、まだ、お前さん達は、わたしの眼から見ても、嬰ン坊だもの。隆馬には、

辻風柊馬という弟があって、この柊馬がひとり来れば、お前さん達は、束になっても敵かなわない」

 これは泰那にとって心外なる言葉であった。けれど、だんだんと後家の話すところを聞くと、そうかなあと思わぬこともない。

辻風柊馬は、木曾の野洲川に大きな勢力を持っているばかりでなく、また兵法の達人であるばかりでなく、乱波(忍者)の上手で、この男が殺そうと狙つけねらった人間で天寿を全うしている者はかつてなかった。正面から名乗ってくるなら防ぎもなろうが、寝首掻きの名人には、防ぎがないというのである。

「そいつは、苦手だな、おれのような寝坊には……」

 泰那が、顎をつまんで考えこむと、お遠は、もうこうなっては仕方がないから、この家をたたんで、どこか、他国へ行って暮すほかはない、ついては、おまえさん達二人はどうするかといいだした。

「西村に、相談してみよう。――どこへ行ったろ、あいつめ」

 戸外にも、いなかった。手をかざして遠くを見ると、今し方、家のまわりにうろついていた野馬の背にとび乗って潮吹山の裾野を乗りまわしている西村のすがたが、遥かに、小さく見えた。

「のん気な奴だな」

 泰那は、つぶやいて、両手を口にかざした。

「おおいっ。帰って来いようっ」



枯れ草のうえに、二人は寝ころんだ。友達ほどいいものはない、寝ころびながらの相談もいい。

「じゃあ、俺たちは、やっぱり故郷へ帰ると決めるか」

「帰ろうぜ。――いつまで、あの母娘と一しょに暮しているわけにもゆくまい」

「ウム」

「女はきらいだ、男の方が好きだ」

 西村が、いうと、

「そうだな、そうしよう」

 泰那は、仰向けにひっくり返った。そして青空へ向って、どなるように、

「――帰ると決めたら、急に、おら、7の顔が見たくなった!」

 脚を、ばたばたさせて、

「畜生、7が、顎を洗った時のような雲があるぞ」

 と、空を指さす。

 西村は、自分の乗りすてた野馬の尻を見ていた、人間でも、野に住む者の中にいい性質があるように、馬も野馬は気だてがよい、用がすめば、何も求めず、勝手にひとりでどこへでも行ってしまう。

 むこうで、浩二が、

「御飯ですようっ――」

 と、呼ぶ。

「飯だ」

 二人は起き上がって、

「泰那、かけッこ!」

「くそ、負けるか」

 浩二は、手をたたいて、草ぼこりを立てて駈けてくる二人を迎えた。

 ――だが、浩二は、午すぎから急に沈んでいた、二人が、故郷へ帰ると決めたことを聞いてからである。二人が家庭に交まじってからの愉快な生活を、この少女は、この先も長いものと思っていたらしかった。

「お馬鹿ちゃんだよ、お前さんは、何をメソメソしているのだえ」

 夕化粧をしながら、後家のお遠は、叱っていた、そして、炉ばたにいた西村を、鏡の中から、睨みつけた。

 西村はふと、前の晩の、枕元へ迫った後家のささやきと、甘酸い髪の香をおもいだして、横を向いた。

 横には、泰那がいた、酒の壺を棚から取って、自分の家の物のように勝手に酒瓶へうつしているのだ、今夜はお別れだから大いに飲もうというのである、後家の白粉は、いつもより念入りだった。

「あるったけ飲んでしまおうよ。縁の下に残して行ったってつまらない」

 酒壺を三つも倒した。

 お遠は、泰那にもたれかかって、西村が顔をそむけるような悪ふざけをして見せた。

「あたし……もう歩けない」

 泰那に甘えて、寝所まで、肩を借りて行く程だった。そして、面あてのように、

「西さんは、そこいらで、一人でお寝。――一人が好きなんだから」

 と、いった。

 いわれた通り西村はそこで横になってしまった。ひどく酔っていたし、夜もおそかったし、眼がさめたのは、もう、翌日の陽がカンカンあたっている頃だった。

 ――起き出て、彼がすぐ気づいたことは、家の中が、がらんとしていることだった。

「おや?」

 きのう浩二と後家がひとまとめにしていた荷物がない、衣裳も、履物はきものも失くなっている。第一、その母娘のすがたばかりでなく、泰那が見えないのだ。

「泰那っ。……おいっ」

 裏にも、小屋の中にも、いなかった。ただ開け放しになっている水口のしきい際ぎわに、後家のさしていた朱い櫛が一枚落ちていただけである。

「あ? ……泰那め……」

 櫛を鼻につけて嗅かいでみた、おとといの晩の恐い誘惑をその香は思い出させた、泰那は、これに負けたのだ、なんともいえない淋しさが胸をつきあげた。

「阿呆っ、7さんを、どうする気か」

 櫛を、そこへ、たたきつけた。自分の腹立たしさより、彼を故郷で待っている7のために泣きたい気がする――

 憮然として、いつまでも、台所にぶっ坐っている西村のすがたを見て、きのうの野馬が、のっそりと、軒下から顔を出した。いつものように、西村が鼻づらを撫でてやらないので、馬は、流し元にふやけている飯粒を舐なめまわしていた。


 

山また山という言葉は、この国において初めてふさわしい。播州龍野口からもう山道である、作州街道はその山ばかりを縫って入る、国境の棒杭も、山脈の背なかに立っていた、杉坂を越え、中山峠を越え、やがて英田川の峡谷を足もとに見おろすあたりまでかかると、

(おやこんな所まで、人家があるのか)

 と、旅人は一応そこで眼をみはるのが常だった。

 しかも戸数は相当にある。川沿いや、峠の中腹や、石ころ畑や、部落の寄りあいではあるが、つい去年の茂ヶ原の戦いくさの前までは、この川の十町ばかり上流には、小城ながら新免伊賀守の一族が住んでいたし、もっと奥には、因州境ざかいの志戸坂の銀山に、

鉱山掘が今もたくさん来ている。

 ――また鳥取から姫路へ出る者、但馬から山越えで備前へ往来する旅人など、この山中の一町には、かなり諸国の人間がながれこむので、山また山の奥とはいえ、旅籠はたごもあれば、呉服屋もあり、夜になると、白い蝙蝠こうもりのような顔をした飯盛女も軒下に見えたりする。

 ここが、幸坂村だった。

 石を乗せたそれらの屋根が、眼の下に見える小林寺の縁がわで、7は、

「アーッ、もうじき、一年になる」

 ぼんやり、雲を見ながら、考えていた。

 孤児であるうえに、寺育ちのせいもあろう、7という処女は、香炉の灰のように、冷たくて淋しい。

 年は、去年が二十三、許嫁の泰那とは、一つ下だった。

 その泰那は、村の西村といっしょに、去年の夏、戦へとびだしてから、その年が暮れても、沙汰がなかった。

 正月には――二月には――と便りの空だのみも、この頃は頼みに持てなくなった。もう今年の春も四月に入っているのだった。

「――西村さんの家へも、何の音沙汰がないというし……やっぱり二人とも、死んだのかしら」

 たまたま、他人に向って、嘆息をもらして訴えると、あたりまえじゃと、誰もがいう。ここの領主の新免伊賀守の一族からして、一人として、帰って来た者はいないのだ、戦いくさの後、あの小城へ入っているのは、みな顔も見知らない安藤系の武士衆ではないかという。

「なぜ男は、戦になど行くのだろう。あんなに止めたのに――」

 縁がわに坐りこむと、7は、半日でもそうして居られた、さびしいその顔が、独りで物思うことを好むように。

 きょうも、そうしていると、

「7さん、7さん」

 誰かよんでいる。

 庫裡の外だった。真っ裸な男が、井戸のほうから歩いてくる、まるで煤にかけた羅漢である。三年か四年目には、寺へ泊る但馬の国の雲水で、三十歳ぐらいな若い禅坊主なのだ、胸毛のはえた肌を陽なたにさらして、

「――春だな」

 独りでうれしそうにいう。

「春はよいが、半風子のやつめ、藤原道長のように、この世をばわがもの顔に振舞うから、一思いに今、洗濯したのさ。……だが、このボロ法衣も、そこの茶の木には干しにくいし、この桃の樹は花ざかりだし、わしが生半可、風流を解する男だけに、干し場に困ったよ。7さん、物干し竿あるか」

 7は、顔を紅らめて、

「ま……柊万さん、あなた、裸になってしまって着物の乾くあいだ、どうする気です?」

「寝てるさ」

「あきれたお人」

「そうだ、明日ならよかった、四月八日の灌仏会だから、甘茶を浴びて、こうしている――」

 と、柊万は、真面目くさって、両足をそろえ、天上天下へ指をさして、お釈迦しゃかさまの真似をした。




「――天上天下唯我独尊」

 いつまでもご苦労さまに、柊万が真面目くさって、誕生仏の真似して見せているので、7は、

「ホホホ、ホホホ。よく似あいますこと。柊万さん」

「そっくりだろう、それもそのはず。わしこそは悉達多太子の生れかわりだ」

「お待ちなさい、今、頭から甘茶をかけてあげますから」

「いけない。それは謝る」

 蜂が、彼の頭をさしに来た。お釈迦さまはまた、あわてて蜂へも両手をふりまわした。蜂は、彼のふんどしが解けたのを見て、その隙に逃げてしまった。

 7は、縁にうつ伏して、

「アア、お腹なかがいたい」

 と、笑いがとまらずにいた。

 但馬の国生れの柊万と名のるこの若い禅坊主には、ふさぎ性の7も、この青年僧の泊っているあいだは、毎日笑わずにいられないことが多かった。

「そうそうわたしは、こんなことをしてはいられない」

 草履へ、白い足をのばすと、

「7さん、どこへ行くのかね」

「あしたは、四月八日でしょう、和尚さんから、いいつけられていたのを、すっかり忘れていた。毎年するように、花御堂の花を摘つんできて、灌仏会のお支度をしなければならないし、晩には、甘茶も煮ておかなければいけないでしょう」

「――花を摘みにゆくのか。どこへ行けば、花がある」

「下庄の河原」

「いっしょに行こうか」

「たくさん」

「花御堂にかざる花を、一人で摘むのはたいへんだ、わしも手伝おうよ」

「そんな、裸のままで、見ッともない」

「人間は元来、裸のものさ、かまわん」

「いやですよ、尾いて来ては!」

 7は逃げるように、寺の裏へ駈けて行った。やがて負い籠を背にかけ、鎌を持って、こっそり裏門からぬけてゆくと、柊万は、どこから捜してきたのか、ふとんでも包むような大きな風呂敷を体に巻いて、後から歩いてきた。

「ま……」

「これならいいだろう」

「村の人が笑いますよ」

「なんと笑う?」

「離れて歩いてください」

「うそをいえ、男と並んで歩くのは好きなくせに」

「知らない!」

 7は先へ駈け出してしまう。柊万は、雪山から降りてきた釈尊のように、風呂敷のすそを翩翻と風にふかせながら、後ろから歩いて来るのであった。

「アハハハ、怒ったのかい、7さん、怒るなよ、そんなにふくれた顔すると、恋人にきらわれるぞ」

 村から四、五町ほど下流しもの英田川の河原には、撩乱と春の草花がさいていた。7は、負い籠をそこにおろして、蝶の群れにかこまれながら、もうそこらの花の根に、鎌の先をうごかしている――

「平和だなあ」

 青年柊万は、若くして多感な――そして宗教家らしい詠嘆を洩らしてその側に立った。お通が、せっせと花を刈っている仕事には手伝おうともしないのである。

「……7さん、おまえの今の姿は、平和そのものだよ。人間は誰でも、こうして、

万華の浄土じょうどに生を楽しんでいられるものを、好んで泣き、好んで悩み、愛慾と修羅の坩堝へ、われから墜ちて行って、八寒十熱の炎に身を焦やかなければ気がすまない。……7さんだけは、そうさせたくないものだな」



菜のはな、春菊、鬼げし、野ばら、すみれ――7は刈りとるそばから籠へ投げて、

「柊万さん、人にお説教するよりは、自分の頭をまた蜂にさされないようにお気をつけなさいよ」

 と、ひやかした。

 柊万は、耳も貸さない。

「ばか、蜂の話じゃないぞ、ひとりの女の運命について、わしは釈尊のおつたえをいっているのだ」

「お世話やきね」

「そうそう、よく喝破した。坊主という職業は、まったく、おせッかいな商売にちがいない。だが、米屋、呉服屋、大工、武士――と同じように、これもこの世に不用な仕事でないから有ることも不思議でない。――そもそもまた、その坊主と、女人とは、三千年の昔から仲がわるい。女人は、夜叉、魔王、地獄使じごくしなどと仏法からいわれているからな。7さんとわしと仲のわるいのも、遠い宿縁だろうな」

「なぜ、女は夜叉?」

「男をだますから」

「男だって、女をだますでしょ」

「――待てよ、その返辞は、ちょっと困ったな。……そうそうわかった」

「さ、答えてごらんなさい」

「お釈迦さまは男だった……」

「勝手なことばかしいって!」

「だが、女人よ」

「オオ、うるさい」

「女人よ、ひがみ給うな、釈尊もお若いころは、菩提樹下で、欲染、能悦のうえつ、

可愛、などという魔女たちに憑きなやまされて、ひどく女性を悪観したものだが、晩年になると、女のお弟子も持たれている。龍樹菩薩は、釈尊にまけない女ぎらい……じゃアない……女を恐がったお方だが、随順姉妹となり、愛楽友となり、安慰母となり、随意婢使となり……これ四賢良妻なり、などと仰っしゃっている、よろしく男はこういう女人を選べといって、女性の美徳を讃たたえている」

「やっぱり、男のつごうのいいことばかりいってるんじゃありませんか」

「それは、古代の天竺国が、日本よりは、もっともっと男尊女卑の国だったからしかたがない。――それから、龍樹菩薩は、女人にむかって、こういうことばを与えている」

「どういうこと?」

「女人よ、おん身は、男性に嫁とつぐなかれ」

「ヘンな言葉」

「おしまいまで聞かないでひやかしてはいけない。その後にこういう言葉がつく。――女人、おん身は、真理に嫁かせ」

「…………」

「わかるか。――真理に嫁せ。――早くいえば、男にほれるな、真理に惚れろということだ」

「真理って何?」

「訊かれると、わしにもまだ分っていないらしい」

「ホホホ」

「いっそ、俗にいおう、真実に嫁ぐのだな。だから都の軽薄なあこがれの子など孕まずに、生れた郷土で、よい子を生むことだな」

「また……」

 打つ真似をして、

「柊万さん、あなたは、花を刈る手伝いに来たんでしょう」

「そうらしい」

「じゃあ、喋舌てばかりいないで、すこし、この鎌を持って下さい」

「おやすいこと」

「その間に、私は、お吟様の家へ行って、あした締める帯がもう縫えているかも知れないから、いただいて来ます」

「お吟様。アア、いつかお寺へ見えた男人の邸か、おれも行くよ」

「そんな恰好で――」

「のどが渇いたのだ。お茶をもらおう」



もう男とはいえの二十五である、容姿が醜いわけではなし、家がらはよいのだし、そのお吟に婿入り話がないわけでは決してなかった。

 もっとも、弟の西村が近郷きっての暴れんぼで、本位田村の泰那か幸坂村の西村かと、少年時代から悪太郎の手本にされているので、

(あの弟がいては)

 と、縁遠いところも多少あったが、それにしてもお吟のつつましさや、教養を見こんで、ぜひ――という話は度々あった。しかしその都度つど、彼の断る理由は、いつでも、

(弟の武蔵が、もうすこし大人になるまでは、わたくしが、母となっていてやりとうごさいますから――)

 という言葉であった。

 兵学の指南役として新免家に仕えていた、父の夢精斎がその新免という姓を主家からゆるされた盛りの時代に建てた屋敷なので、英田川の河原を下にした石築き土塀まわしの家構えは、郷士には過ぎたものであった。広いままに古びて、今では屋根には草が生え、そのむかし十手術の道場としていた所の高窓と廂のあいだには、燕の糞が白くたかっていた。

 永い牢人生活の後の貧しい中に父は死んで行ったので、召使もその後はいないが、元の雇人はみなこの幸坂村の者ばかりなので、そのころの婆やとか仲間とかが、かわるがわるに来ては台所へ黙って野菜を置いて行ったり、開けない部屋を掃除して行ったり、水瓶に水をみたして行ったりして、衰えた夢精斎の家を守っていてくれている。

 今も――

 誰か裏の戸をあけて入ってくる者があるとは思ったが、おおかたそれらの中の誰かであろうと、奥の一室に縫い物をしていたお吟は、針の手もとめずにいると、

「お吟さま。今日は――」

 うしろへ7が来て、音もなく坐っていた。

「誰かと思ったら……7でしたか。今、あなたの帯を縫っているところですが、あしたの灌仏会に締めるのでしょう」

「ええ、いそがしいところを、すみませんでした。自分で縫えばいいんですけれど、お寺のほうも、用が多くって」

「いいえ、どうせ、私こそ、ひまで困っているくらいですもの。……何かしていないと、つい、考えだしていけません」

 ふと、お吟のうしろを仰ぐと、燈明皿に、小さな灯がまたたいていた。そこの仏壇には、彼が書いたものらしく、

行年十七歳 新免西村之霊

同年    本位田泰那之霊

 ふたつの紙位牌が貼ってあり、ささやかな水と花とが捧げてあるのだった。

「あら……」

 7は、眼をしばたたいて、

「お吟様、おふたりとも、死んだという報しらせが来たのでございますか」

「いいえ、でも……死んだとしか思えないではございませんか、私は、もうあきらめてしまいました。

茂ヶ原の戦いくさのあった八月十日を命日と思っています」

「縁起えんぎでもない」

 7は、つよく顔を振って、

「あの二人が、死ぬものですか、今にきっと、帰って来ますよ」

「あなたは、泰那さんの夢を見られるか? ……」

「え、なんども」

「じゃあ、やっぱり死んでいるのだ、私も弟の夢ばかり見るから」

「嫌ですよ、そんなことをいっては。こんなもの、不吉だから、剥がしてしまう」

 7の眼は、すぐ涙をもった。起って行って、仏壇の燈明をふき消してしまう。それでもまだ忌まわしさが晴れないように、捧げてある花と水の器うつわを両手に持って、次の部屋の縁先へ、その水をさっとこぼすと、縁の端に腰をかけていた柊万が、

「あ、冷たい」

 と、飛びあがった。



5話へ続く

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