第8話 北の山にて
「マリナさん、少しよろしいでしょうか」
「オーミさん。旅の間は私を姉上と呼ぶようお願いしますね」
道中、2人はスティーグ語で話す義務を課せ、現在特訓中であった。
マリナのスティーグ語は外面をよくするため丁寧だ。それを教わる青海も当然丁寧になっていく。
とはいえ青海としては、別に丁寧な会話をしているつもりはない。ほぼ記号として覚える教科書通りの「My name is」と同じようなものだ。
アメリカ英語だと「I’m」で略す場面も多々あるが、正式な場では今でもやはり「My name is」である。
つまりマリナの言葉は教科書通りであり、基本だ。そして基本以外を覚えるのも面倒なため、略式を彼女は知らないでいる。そのため丁寧に話しているようで、実は雑に話しているということは多々ある。いや、むしろそれがほとんどだ。
「姉上、本日はどちらまで行かれるのでしょうか」
「もちろん町まで行きます。宿に泊まりましょう」
他人から聞けばこのような会話なのだが、彼らの心情は異なっている。今の会話を訳すと次のようになる。
『おい姉、今日はどこまでだよ』
『宿で寝たいから町までに決まってるよ』
普段からフォーマルな物言いさえ定着させておけば、実際にどう思っていようが丁寧に聞こえるものである。もちろん声のトーンや抑揚、表情などで読み取られなければだが。
「少々お訊ねしますが、よろしいでしょうか」
「はい、お聞かせ願えますか」
知らぬ人からしたら、上品な姉弟の会話に聞こえるかはさておき、青海は疑問に思っていたことがあった。
それはもちろん
一文字の同音異句であればよいのであれば、日本語にこだわる必要がないのではないか。そのようなことを考えていた。
実のところ、青海はひとつの音での同音異句を考えるのに行き詰っていた。こんなことならもっと勉強をしておけばよかったと悔やむ。
一音で何かを表すというのは日本だけでなく、世界中にある。だからこの世界にあってもおかしくはないはずだ。
だがそんな案もマリナの言葉に弾かれてしまった。
日本の神である詞神がスティーグ語を理解できていれば可能だと。
そんなことありえないとは言わぬが、神が異世界の言葉を理解したかどうかなど知る由もない。つまり余計なことをしないのが正しい。
だが青海は文学少年でもなければ学業に励んでいたわけでもない。テストなどではせいぜい平均より少し上くらいで、余計なことをあまり覚えていない。せいぜいマンガなどの知識程度だ。
日本人だというのに日本語をあまり知らないのかといった感じでマリナは少し溜息をつく。そうはいっても全ての日本語を把握している日本人なんてごく一部しかいない。世界的に見ても母国語を全て理解できている人物なんていないに等しいだろう。
「わかりました。後ほど聖典をお貸し致します」
「聖典というのはどのようなものでしょう?」
青海の質問にマリナは黙る。きっと答えるのが面倒なのだろう。後ほどと言っていたのだから、知りたかったら後にしろという意味も含まれていると推測される。
そうなると青海も黙るしかない。しつこく訊ねるのも面倒だし、トラブルの火種になりかねない。後でと言っているのだからそれに従えばいいのだ。
黙々と進み、更に近道だからと山へと入り込んで2時間ほど経過したとき、叫び声のような音が聞こえた。声質からして少女だろう。恐らくは魔獣に襲われていると推測される。
確実に面倒ごとだ。だからといって見捨てるのも寝覚めが悪い。必要最小限なことくらいはしておこうと、青海とマリナは互いに目で合図をし、声のした方向へ駆けた。
「いやああぁぁっ! 来ないでぇぇ!」
少女は泣きながら包丁らしき刃物を振り回し、サル顔の四足──
乱雑に振り回した武器など、魔獣には牽制にもならない。すぐに動きを読まれ、軌道を見切られてしまう。そして魔獣は振りかぶった少女の腕に食いつき、その強靭な顎と鋭い牙で噛み切った。
「うあああぁぁ!!」
腕を噛み千切られた激痛、そして絶望の絶叫。少しでも痛みを減らそうとしているかのように地面をのた打ち回る。魔獣はそんなこと構いもせず、再び牙を突き立てようとする。
『“意”は“威”となりて、我が心、力と成らん!』
食いつこうとした瞬間、突然発せられた声に魔獣は一瞬動きを止める。そしてその一瞬が全てであった。僅かな刻の中、威力の上がった足で地面を蹴り、魔獣のすぐ傍まで来ていた青海は、錫杖で肩口からその体を叩き切っていた。
『“血”は“治”となりて、其の傷、治療せん!』
力尽きかけようとしていた少女を抱えたマリナは、すぐさま治療を行う。すると千切れた腕も、大きく切り裂かれた足も傷跡ひとつ残さず元へ戻っていた。
激痛のせいで意識を切り離せずにいた少女は、その2人の姿を見終えた後、やっと気を失うことができた。
「────さて、如何なさいますか。姉上」
「彼女を置いてはいけません。かといって運ぶのも難しいですから、目が覚めるまでお待ち致しましょう」
置いていってまた襲われると、今やったことが無駄になる。だけど運ぶのも面倒だから自力で歩いてもらおうという結論に至った。
服装などからして、貧しい生まれだろう。それに武器は包丁。そんな装備でこんなところへ来る理由がわからない。
近くの町から来たのだろう。どんな理由かはわからぬが、このような危険な場所へ来るような子ではないはずだ。目が覚めてから詳しく聞くことにする。
「…………う、んー……」
「お目覚めになられましたか?」
少女が意識を取り戻したとき、まず目に入ったのはマリナの笑顔、そして少し安堵したかのような青海、更に打ち倒された魔獣の骸だった。
骸を見たとき一瞬体を強張らせたが、青海が倒したのを見た記憶がある。そこで少女は再び力を抜く。
「このような場所におひとりでとは危険です。僕たちが町までお送り致しましょう」
ぼーっとした感じで辺りを見ている少女に青海が言う。するとようやく意識が戻ったかのように、目が大きく開いた。
「あっ、あの、私っ」
「大丈夫です。町までは私と弟が護衛致しますから」
マリナのその優しげな言葉に、少女はまた力が抜けそうになったが、意識を戻そうとするかのように首を大きく左右に振った。
「あの、助けて頂いてありがとうでした! だけど私はまだ戻れないんです!」
まだというのだから何か目的があってここへ来て、それを達していないということだ。つまり、面倒ごとである。
「今は魔獣の大移動時期なので、強力な魔獣が蔓延っております。このような場所にいたらとても危険ですよ」
「でも、お母さんとお姉ちゃんが!」
少女の悲痛な叫び。これだけで2人は理解できた。
何かから逃げていたのであろう少女は、母や姉と一緒だったのだ。もしそうであるならば、詳しい話を聞いている時間はない。
「オーミさん」
「はい、後はお任せします!」
互いに何を言いたいかはわかる。双方ともに普段ものぐさなため、少ない言葉で伝わるようになっていたのだ。
青海は少女が走ってきた方向へ向け、走り出した。
少し行ったところで、青海は母親と姉だったであろう亡骸を見つけた。
それに男の亡骸。こちらは見た限り兄や父ではないと思われる。その風体、装備などから野盗の類ではないかと推測できた。
実際にはもっといたのだろう。地面を引き摺った跡がある。つまり逃げている少女たちを追いかけていたところで複数の魔獣に襲われたのがわかる。
この場を放置して戻ったら、巣に餌を持ち帰った魔獣が引き返し、持ち去ってしまう可能性がある。青海は亡骸から少し離れたところまで移動してから錫杖を強く打ち鳴らし、マリナを呼ぶことにした。
「どうか致しましたか?」
「少々問題がありまして、言葉を選べぬ状況であることをご容赦いただきます」
錫杖を等間隔に打ち鳴らす音に違和感を覚えたマリナは、何かあると思い少女を連れてやってきていた。
そして言葉を選べぬというのは日本語を使うと言っているわけだが、緊急事態故にマリナは柔軟に対応する。
『なんかあった?』
『この先に数人の死体があった。多分彼女の家族、それに野盗みたいだった』
『ん、確かにそりゃーあの子に聞かせられないね。生きてないの?』
『一応確認はした。いくつか刃物傷はあったけど、直接の原因は魔獣からの攻撃だろう』
ここで一番の問題は、本当のことを少女に話していいものかどうかだ。
見た感じ12~13歳ほどだろうか。人の死については理解していそうな年齢である。しかし家族の死となると話が変わってくる。
次に亡骸をどうするかだ。盗賊のは放置してもいいだろうが、彼女の家族のはできれば運んでやりたい。
「姉上、僕がいない間に彼女と話されましたか?」
「ええ。家族で南へ向かっている途中、野盗に襲われたそうです。父親が止めている間に彼女たちが逃げたとのことでした」
襲われたということは、ただの散歩をしていたわけではないはずだ。それなりの荷を持っていた可能性が高い。しかも家族全員となると、引っ越しであろうか。
なにもこんな時期にと思われるだろうが、何か理由があってこんな時期になってしまったのかもしれない。
「では少し下の様子を見て参ります」
「宜しくお願い致します」
青海は荷物から長布を取り出し、先ほどまでいた場所へ引き返した。
少し下ればもう平地であり、そこからもう街道が見えていた。そして道端には荷台がある。
近くまで寄ると激しい戦闘の跡が生々しく残っており、草むらには野盗らしき男と、そしてひとりの町人の男が切り捨てられていた。
恐らく彼が父親だろう。母と姉は運ぶのに不都合だったため傷を治したが、襲われたことを証明するため、彼の傷はそのままにすることにした。
台車の荷は荒らされており、金銭の類や金目のものは持ち去られている。青海は荷をどけ、3人を並べて布をかけてからマリナたちを呼びに行った。
「ねえ、お母さんたちはどこ?」
少女の問いに、青海たちは返答に困る。
「一旦町へ戻りましょう。もし無事であるならば戻ってくるかもしれませんから」
「う、うん……」
マリナのやさしい話し掛けに、少女は不安を抱えながらも頷いた。
そこから特に話すこともなく、台車を青海が牽き、マリナが錫杖を持って歩くこと3時間。ようやく町が見えてきた。
だが青海たちが町へ入ろうとしたとき、門の両側にいた兵が槍を合わせ道を塞いだ。
「何の用だ?」
ぶっきらぼうな質問だが、マリナは笑顔で前に出て答える。
「私はマリナと申します。タルタローゼから参りまして、書簡を届けるため北上しております」
そう言ってマリナは1本の筒を取り出す。そこには貴族が用いる紋が印されていた。
こんな田舎町の門兵が貴族の紋を全て把握しているわけがない。しかし書簡を見ればそれが位の高い者から出されていることくらいはわかる。
「そ、それはご苦労。だが、そこの娘は?」
門兵は少女へ目を向ける。書簡を運ぶという任にはいささか不釣り合いな点を突いてきた感じだ。
「こちらの少女は途中で野盗に襲われていたところ救助致しました。この町の方ではありませんか?」
「ああ、この町の人間だった娘だ」
含みのある言葉に、青海は難色を浮かばせる。
しかも言い方に悪意が感じられる。ここは慎重に会話を続けなくてはならない場面だ。
「オーミさん」
「はい、姉上は彼女と少し離れていてください」
マリナに少女をこの場から離させ、青海は門兵との話を進めることにした。
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