第2話
雪と縁の薄い筑前の四季は穏やかに過ぎていき、自然を相手に苦闘するような冬ざれを経ずとも陽炎の燃える時期を迎えられる。勤め先がある安徳村には山裾で隠れるように広がる田畑が多く、時期が来れば馬鍬を曳く馬のいななきが聞こえてくる。日ごとに青みを増していく風景に、遠里は屋敷の庭先で展開したものより大きな円環を見る思いだった。
遠里の仕事は変わらず、銃に使う火薬の製造と調合であり、勤める内に役職も上のものを与えられて仕事の幅も広がった。職にあぶれて食い詰める士族が多い中では恵まれているのは自覚していたが、先へ進むほど自然に囲まれて働く農民たちをうらやむ気持ちが強くなっていくのも事実であった。
その思いを口に出すことは立場上許されず、遠里は粛々と勤めを続けることに努めた。自分の下には何人もの士族がいて、彼らの生活も間接的に担う立場である。その上登世と息子の誠を思うと、自身の憧れに従って生きるのは許されないことであった。
筑前の中で暮らしている分には穏やかな時間が流れているように思えたが、世の中は確実に御一新という大きな動きの反動が表れているようだった。前年一一月からは奇兵隊をはじめとする戊辰戦争で活躍した諸隊の隊士が規模の縮小に反発して脱走を始め、一時は二千名にまで膨れあがった。最終的には士族を中心とする山口藩常備軍によって討伐され、両軍合わせて約二百名の死者を出して終わった。それまで戊辰戦争と御一新の熱に浮かされたようにふわふわと流れていった時間が突如として怒濤へと変貌したように、未だ地盤の固まっていない新政府を揺るがす力となりはじめるのだった。
遠里は遠い土地の出来事を、村や街で小耳に挟んだが、筑前では実感を伴わなかった。それほど遠里の周辺は平和であり、ともすれば銃に使う火薬を製造する意義さえ見失いかねないほどであった。
やりがいという点では物足りなく感じることもあったが、日々を広く見れば遠里は満足であった。
自然風景の美しさを感じ取れることもあったが、
「おはようさん」
分け隔て無く挨拶してくる地元の農民たちの屈託のなさが快かった。何かと格式張っていた明治以前では有り得ないことで、遠里もまた対等の立場で挨拶を返した。ほんの五年前まで農民たちは士分の下であり、遠里は傅かれる立場であった。その身分差がなくなったことに戸惑いは感じたものの、新政府の下で懸命に働くのは同じと思えば、身分差のない接し方にも違和感はなかった。
「今日も暑くなりましたなあ」
ある夏の日、青田を眺めて昼餉を摂っていると話しかけてくる男がいた。清十郎という先祖代々安徳村で暮らしてきたという農夫は、平民に苗字の使用が許された前年、安田という名を名乗るようになった。
「ええ。しかしこの日差しだからこそ、この青みでしょう」
強い日差しの下にあるからこそ、伸びゆく稲の青さは映える。これがあと二ヶ月もすれば色が変わる。その頃には収穫の時期であろう。
「庭先で育てている南瓜はどうですか」
清十郎は自分の弁当を広げながら訊いた。
「おかげさまで、順調です」
社交辞令ではなく本心からの感謝であった。何気なく捨てた種から芽吹いた花はやがて実を結び、食卓に上るほどになった。それは安徳村で親しくなった清十郎から教わった知識があってのことだ。
「妻と息子と共に美味しくいただきました」
「それは何より」
「残った種をまた植えて、今年も収穫できそうです。気まぐれに捨てた種がまさかこんなに長く命をつなぐとは思いも寄らないことでした。自然はまことに大きい。人には及ばざるものです」
思うとおりに語ると、何故か清十郎は感心したようなため息を漏らす。
「さすがに学がおありになる。我々は食うに精一杯で、とてもそのようなことにまで思いを巡らす余裕はないものです」
清十郎の表情は素朴で、皮肉を言ったようには聞こえなかった。宗右衛門とは違った人柄だが、彼も友人であった。
互いに何気ない言葉を交わしていく内に妻子の話になっていく。清十郎には六人の子供がいて、そのうち二人は田畑で汗を流している。他に生まれて間もなく亡くなった子供も二人いるそうだが、その影を感じたことはない。屈託なく過ごすことで、暗さを紛らわせると信じているようであった。
「暮らし向きはどうですか」
それは農民に比べたらはるかに安定した暮らしを営む自覚のある遠里からは訊けない話だった。
「何とか家族が苦しまないぐらいにはやれています」
他の士族に比べたら恵まれている方ですという言葉は飲み込んだ。下手なことを言えばそれが自慢と受け取られかねない。南瓜についての貴重な知識を授けてくれた友人を失いたくなかった。
「我が家も何とかやれています」
そう言った清十郎は、最後にただ、と言ったようだった。しかしそれに続く言葉はなく、遠里自身もうまく聞き取れなかったから、それ以上の追及はしなかった。
昼餉を終え、二人はそれぞれの仕事へ戻っていく。日が沈む頃に遠里は仕事場を離れて帰路に就く。その途中で鍬を担いだ農民たちとすれ違った。
すれ違ってから三歩進んだ時、遠里の耳に税が重いという声が届いた。
遠里は足を止めて振り返った。彼らは既に影となっていて、声も聞こえなくなっている。暮らし向きに余裕がないのはお互い様だが、士族とは違う切実さが気になった。自分にはいくら困窮しても抗議する術がないのに対し、農民には一揆という最終手段がある。
いつぞやの夜盗が思い出され、士族が立ちゆかなくなったらあのような手段に訴えるしかなくなるのかと暗澹たる思いに囚われる。人を脅かしたが故の末路だから同情できるものではないが、哀れに思う気持ちを捨てきれなかった。
宗右衛門のような、善悪や物事に対して割り切った態度がうらやましいと思う一方で、そういう人間には夜盗に変貌するような士族や税に悩む農民を救えないと思う。清十郎のように屈託のない農民が離れてしまう人間にはなりたくなかった。
幕府に変わって政治を執ることになった新政府は財政難で、それを重税で補おうとしている。その不満が一揆のような形で、特に関東や東北で暴発していると聞く。しかし筑前は元から農政や農業技術が発達した土地柄だから、争いが起きれば繊細な土地を踏み荒らすことになって、回復にも時間がかかることが頭にある限り、筑前の農民たちは一揆を起こさないだろう。遠里は人が絶え夜のとばりに包まれていく田畑を眺めながら、素朴で屈託のない農民たちが穏やかに暮らしていけることを願った。
屋敷に着くといつものように登世が出迎えた。息子を寝かしつけたばかりだったようで、奥の寝所から小走りに出てきた。
夕餉を済ませた後に登世に酒を注がせる。彼女は芸者の経験はないはずだが、酌の仕方が堂に入っているように見える。共に暮らすようになってから密かに思っている感想だが、正直に言ったら彼女の実家を怒らせることになりそうで、ずっと胸にしまっている思いであった。
「庭の南瓜はそろそろ収穫できるかな」
遠里が訊くと、とても美味しそうに育ちました、と彼女は答えた。
去年収穫できたのはほんの一つに過ぎず、農民がしていることに比べれば児戯に等しいかもしれない。それでも食べ物としては充分だったし、自然の円環に立ち入ったというだけでも遠里にとっては大きな意味があった。
「でもわたしには、農作物のことはわかりません。全てお任せします」
「そうだな。ならばそれをどう料理するかを任せよう」
登世は手を口に添えておかしそうに笑った。遠里もつられて笑う。
「士族に農作物のことを全てわかるのは難しい。農民の方が詳しい」
「教えを受けているのですか」
「五年前なら考えられなかったことだ。しかしそうしないと、何年も続けて収穫することはできない」
捨てたつもりの種から芽吹き、花が咲き、実を収穫できるまでになったのは感動したが、人の腹を満たすようなものが自然のままで収穫できるとは思えない。あくまで自然には自然の意思があって、それは人間の思いとは別のものだ。
登世の反応は心配だった。従順だが、武家で生まれ育った女である。農民に教えを受ける夫を落ちぶれたように見ても仕方がない。
「実家の家族は誰もやらなかったことだろうが、もう士分と呼ばれる人のいない世の中だ。農民を相手にしたと言って、居丈高に振る舞っても周りの人の心が離れるだけで、良いことは何もない」
四民平等とされ、身分や功績の証であった苗字さえ誰もが持つ世の中になった。士分だった人々の特権といえば秩禄ぐらいだが、財政難の新政府である。いつ打ち切られるかわからない。
「わたしはあなた様についていくだけです」
酒を注いだ登世は、
「世の中が変わったと言うなら女も変わります。家を立てるのではなく、夫と共に生きていくのがきっと当代の女でしょう。わたしはあなた様を見届けるまでは生きていきます」
とっくりを持ち上げ、笑いかけた。
夫の機嫌を取るようなうわべだけの表情には思えなかった。一人残された後のことが心配になったが、遠里は登世の表情を信じ、一息つくように礼を言った。
「あと十数年経って隠居することになったら、南瓜を育てながら生きようか」
「よほど南瓜が気に入ったようですね」
登世はおかしそうに笑った。種を捨てる瞬間まで農業の話もしなかった夫が、農民に教えを請うほどになったのだ。登世でなくてもその変化に何かを感じるだろう。
それが怒りや失望でないのは、登世の人柄によると思う。彼女の寛大さに遠里は改めて感謝する思いだった。
「捨てられたものが人知れず役目を与えられ、ついには実を結ぶほどになったのだ。人には及ばざることなり、されど疎かにはできぬことだ」
「あの時わたしが種を捨てていたら、あの南瓜が庭先に根付くことはなかったのですね」
その何気ない選択が、今の自分たちを作ったのだ。そればかりか隠居した後の目標まで見えてくる。自然の大いなる円環に取り込まれ、老いながら生きていく。遠里の脳裏に、ふとそんな壮大なものが浮かんだ。
天が見ているなら、あの南瓜の種のように役目を奪われた者をすくい上げてくれたら良い。遠里は願いを込め、暗い夜空へ視線を投げた。
一年近く会わずにいた宗右衛門が訪ねてきたのは明治四年の八月のことであった。彼を最初に出迎えたのは登世であったが、遠里を呼ぶ彼女は何故か戸惑い、本当に宗右衛門なのかわからないと言い出した。
「何を馬鹿なことを」
登世と宗右衛門は顔見知りで、顔を合わせた回数は決して少なくない。
登世の反応を気にしながら遠里が玄関先へ出ると、彼女の戸惑いが理解できた。
「その頭は何だ」
思わずそう口走っていた。久しぶりの再会となった宗右衛門の頭からは髷が消え、髪の毛がだらしなく下がっていた。
「散髪脱刀勝手令が出ただろう。それに倣ってのことだ」
「しかし、それにしても」
法令のことは知っているが、従うかどうかの判断は個人に任されている。その結果脱刀と断髪に賛同する者は少数にとどまり、巷ではざんぎり頭と呼ばれた髷のない髪型を揶揄する歌まで現れる始末であった。
「お主は刀は捨てても髷は落とさないのか」
まだ士族として仕える遠里だが、法令を知ると同時に刀は置いた。そうすることで清十郎をはじめとする農民たちと対等の立場で話せると思ってのことだ。
しかし髷だけは譲れなかった。開化の精神には賛同するが、髷を落とした頭で過ごすのは恥ずかしく心許ない。新政府内でも木戸孝允が範を示すために髷を切ったが、岩倉具視が反対派の急先鋒となって対立しているようだった。
「髷までなくしては、自分が何者かわからなくなりそうだ」
辛うじて抗言したものの、世相に合わせて自らを柔軟に変えていける宗右衛門がまぶしく思えた。髷の起源は遠く鎌倉時代にあり、兜を被る当時の武士が頭の蒸れを抑えるために結ったのがはじまりとされている。髷を捨てるのは武士の伝統を切り捨てることに他ならないのだが、それを受け継ぐべき身分はもはや存在しないし、囚われるべきではない。宗右衛門の頭はそういう主張を明確に表して見えた。
「まあ良い、お主ならいずれわかることだ」
立場や考え方が似通っていることを見抜いているのか、受け入れがたい態度を示した遠里を前にしても宗右衛門は余裕があった。遠里自身、気持ちの整理がつけば髷を落としてもいいと既に考え始めている。あとはきっかけの問題であった。
「それよりざんぎり頭にするよう説得しに来たのでないなら、何の用だ」
遠里が問うと、挨拶だ、と宗右衛門は答えた。
「鎮西鎮台で働くことになった」
武より学を以て仕えてきたはずの宗右衛門の門出としては意外な行き先であった。
詳しく聞きたいが、玄関先より外で話そうということになり、遠里は宗右衛門と連れ立って歩き出した。
「この辺りの景色もおそらく見納めになるな」
蝉の鳴く道を歩き出して間もなく、宗右衛門は良く晴れた景色を見回して言った。朝から気温が上がり、道の上には陽炎が燃えている。青空の色も微かににじんでいるように見えた。
「そんなことはないだろう。鎮西とはいえ、同じ九州だ。来ようと思って来られない距離ではない」
宗右衛門は微笑み、そうだな、と返事をした。
含みを感じる表情ながら、そこに踏み込めないものを感じて、遠里は追及を避けた。他の士族に比べて恵まれているとはいえ、火薬の製造は所詮後方支援に過ぎない。宗右衛門がこれから臨むのは、有事には戦闘に立って働く仕事であり、ある意味で花形と言える立場である。立場の違いはそのまま二人の今後を分けるものになりそうだった。
「俺は変わらず同じ場所で働き続けるだろう」
「我々は恵まれているよ。鎮西鎮台が抱える兵士は旧藩士だが、全ての旧藩士を抱えられたわけではない。どうすれば良いか迷う者がたくさんいるそうだ」
徳川幕府の名残である藩を廃し、新たに県を置く廃藩置県が行われたのは先月のことだ。各藩主が代々守ってきた土地が変わってしまうことへの反発が懸念されたが、思ったほどの抵抗は起きず、穏健に新制度へ移行することができた。福岡藩も福岡県
となり、現在は三府三百二県が置かれている。
それは全国を東京の新政府が治めるのに都合の良い体制である。しかし代償を被るのは、それまで藩に仕えてきた藩士たちであるようだった。
「変わってゆくのだな」
嘉永六年にマシュー・カルブレイス・ペリーに率いられた東インド艦隊が浦賀に現れてから今年で一八年になる。今年四〇歳になった遠里にすれば、生涯の半分にも満たない歳月である。しかし日本という国にとってはとこしえに語り継がれるであろう出来事の詰まった時間となった。そしてその変化はまだまだ続くだろう。
「その変化はまだ不充分だ。もっと変わっていかなければ」
そうまで変化を追い求めて何を狙うのか。その疑問は訊くだけ野暮だと思った。徳川宗家から政権を奪った新政府が狙うのは、アメリカをはじめとする欧米列強と結ぶ羽目になった不平等条約の解消だろう。貿易における関税自主権が持てず、外国領事に裁判権を与えるという不利な条約の下では、列強と対等の国になることはできない。そればかりか属国の扱いさえ受けかねない。散髪と脱刀も改革の一端で、欧米列強のやり方に合わせることから始めようとするものであった。
「実を結ぶと良いな」
遠里は楽観的に言ってみたが、
「良いな、ではない。実を結ばせなければならないのだ。どんなやり方を使っても良い。そうでなければ日本は永久に欧米列強の小間使いをさせられることになる」
宗右衛門は悲壮感を伴って返事をした。仕事において立脚する位置の違いを遠里は感じた。宗右衛門とはもはや見ているものからして違うのだ。
二人はあぜ道の終わりで足を止め、来た道を振り返るように田を眺めた。少し前まで青い稲穂の隙間から水鏡が覗いていた田は、大きく育った稲に地表が隠されて青一色になっている。さっきまで悲壮感を以て語っていた宗右衛門も、幼い頃から学問や武芸の一方で眺めてきた景色に感じるものがあったのだろう、柔らかな表情で視線を遠くへ投げていた。
青田の中で動き回る農民たちがいる。見知った顔はないが、南瓜作りに大事な知識を授けてくれる農民を知る遠里は、彼らにふと親近感を覚えた。
「しかしこの景色は良いな」
遠里の語りかけに、宗右衛門は無言で頷いた。
「一揆などでなくならないことを願うばかりだな」
ふと胸によみがえった、税負担の重さから来る生活苦を嘆く声が、遠里の願望と合わさって口を衝いた。
「そんな噂があるのか」
宗右衛門は詰問するように言った。それは心配からではなく、不穏な動きを潰そうとする、職業軍人としての使命感に根ざしたものに聞こえた。
「俺の望みだよ。お前もこの景色が一揆を鎮圧するためとはいえ踏み荒らされるのは望まないだろう」
「ならば良いが。しかし最近は東北や関東で一揆が相次いでいると聞く。先頭に立つ者ばかりでなく、引っ張られる者もそれなりの働きをしなければ、とても欧米列強と肩を並べることはできまい」
「他に窮状を訴える術がないのだろう。やむを得まい」
「一揆を起こす輩の肩を持つつもりか」
宗右衛門は気色ばんだ。宗右衛門の中の何かが変わってしまったような気がする。
「どうした、お前らしくもない」
率直に感想を述べたが、宗右衛門には意外だったらしく、言葉を詰まらせた。
「そう見えるか」
「今まで感情的になるのを見たことがなかったからな。何かあったか」
友人の立場で何か言いたかったが、
「色々あって簡単には言えないな」
と、はぐらかされてしまった。本心かもしれず、宗右衛門は苦笑していた。
「言えないようなことなのか」
「心配されるほどのことではない」
宗右衛門の態度には頑なさがあった。気軽に触れるのもためらわれる
遠里は友人としての心配さえ宗右衛門に届かなくなっているのが残念だった。時や年齢と共に立場や見ているものが変わっていき、それに伴って価値観が変わるのは無理からぬことだろう。しかし最後まで変わらないのは友人としての絆ではなかったか。
「我らは士族として日本が前へ進むのを託された立場にいるのだ。立場は違えど、力を尽くさなければなるまい。それを妨げる者は斬り捨ててゆくのみだ」
遠くを眺めて笑う宗右衛門だったが、遠里には横顔に不吉な影が差して見えた。遙か彼方を見る双眸に移るのは青い山や空であろう。しかし夏野に生きる人のことまで見つめる目には思えなかった。
「前へ進むのは大切なことだ。しかし」
遠里は敢えて懐疑的な言い方をした。知っている宗右衛門なら、何気ない風を装って先を促すはずであった。
「しかし、何だ。さっきからお主は奥歯にものが挟まったようなことばかりを言う。何か気に食わないことがあるのか」
再び気色ばんだ宗右衛門が、世の中の変化の毒に中てられたかのように思えた。言い争うことはしたくなかったが、清十郎をはじめ庭の南瓜を通じて知り合った農民たちを思うと、宗右衛門の言葉はあまりに傲慢だった。
「進むためにこぼれおち、取り残された者がいる。それが一揆を起こす源となっているのではないか」
お前に言っても詮無いことだが、と付け加えたが、妨げになるなら容赦は要らぬ、と宗右衛門はにべもない。
「一揆はもちろん、脱退騒動や士族の困窮を知らないわけではない。しかしそれは、新たな世の中に合わせられないのが悪いのだ。己の無能さから来る窮状を全て救えるほどの余裕は、我々にはない」
「それが政と呼べるのか」
遠里は声を上げた。それまで鳴いていた蝉が一瞬声を止めた。その間空気の震えが残り、自分たちの周りだけ時の流れが止まったような気がした。
「お前に言っても詮無いことだろう。しかし、それではあまりに」
遠里は責める言葉や目標が思いつかず、言葉が継げなかった。
遠里の声を前にした宗右衛門は狼狽し、言葉を出せずにいた。
「お前に言っても、詮無いことだろうが」
宗右衛門とて、御一新を成し遂げ新たな世の中の舵取りを担う者たちからはあまりに遠い。しかし彼の傲った言葉は新政府の傲慢の一端に思えた。
ここで宗右衛門に怒りをぶつけても、彼に何かを変える力はない。それでも賛同することだけは避けたい。ただ恵まれた立場にあるというだけで、移り変わる世の中の後へ取り残される人々のことを忘れる男に成り下がりたくはなかった。
「これでは何のための御一新だったのか」
「言うな」
今度は遠里が絶句する番だった。宗右衛門は目の力を取り戻し、険しく遠里を見つめた。
「言うな。人は及ばざることばかりを抱えている。だから救えぬ者も出てくる。しかしそれが人だ。どうしようと変え難き人という生き物なのだ。それでも御一新は正しかった。それを推し進め、意味のあることにしようと邁進する新政府も正しい。そうでなければ、時を超えていけなかった者たちがあまりに報われないではないか」
遠里は譲れぬものを抱えた人間の強さを垣間見た思いだった。宗右衛門とて傲慢な言動に何ら疑問を感じないわけではない。ただ、欺瞞しなければならないだけなのだ。優しく人に寄り添うだけでは切り抜けられないのが、新政府が対峙するこれからの世の中なのだろう。
末端とはいえ、これから自分もそんな冷徹な政治に関わらなければならない。それに耐えていけるのか。
「お主、まさか農民に情が移って、帰農しようなどと考えているのではなかろうな」
まさか、と遠里は言下に否定した。しかし胸の奥に鋭い痛みがあった。
「言っておくが、我らは生き方を変えるにはもう歳を取り過ぎた。既に自分だけの身でもない。己の信念や信条だけに従って生きていける、そんな青い時期はずっと昔に過ぎたのだと心得ることだ」
仕える先は変わり、仕事の意味も変わってくる世の中である。それでも働くのは、決して自分自身のためだけではない。登世と誠。家族がいるからだ。
「言われるまでもない」
遠里は言い、やがて家路に就いたが、苦い思いが消えないままであった。
宗右衛門は半月後に旅立ち、その知らせをしたためた文を寄越した。暇があれば必ず帰ってくると書く一方で、来年になれば遠里の方からも来てみるが良いと誘う内容であった。その時には街を案内し、夜には酒を酌み交わそうと続いていた。宗右衛門の友人としての性質は変わらず、寸前で誤解を解くことができたと遠里は安堵した。
末尾には互いに任された仕事に精進しようとあった。軽率な判断をするなと暗に戒める意図が見て取れた。
遠里はすぐに返事を書いた。末尾の一文に関する考えも添えてやろうと思って書き進めたが、どうしても友人の心配を解消するような言葉が出てこない。自分の胸にいくら深く問いかけても、却って不安をかき立てそうな思いばかりが浮かぶ。
悩んだ末に遠里は、末尾の文章には触れずに返事を書き終えた。不実を働いた気もしたが、のどかな景色の向こうに冷たい政治の世界を見ていた男の心をかき乱すことこそ不所存に思えた。
宗右衛門はきっと、九州の端から東を、そしてもっと広く遠い世界を見ていたのだろう。そこで自分自身をどうやって活かすかを、沈着な表情の裏で考えていた。
その結果取り残された人々が不遇を託っても仕方が無いという。救うだけの余裕が、御一新を経た日本には残されていない。それを承知で突き進む強さこそ、明治の世の中で政に携わって生きていく人に求められる素質かもしれなかった。
自分はどうであろう。遠里は初めて士分から士族となった自分自身に悩んだ。しかし答えは一つしかない。家族を養うためには、青臭い気持ちは邪魔であった。
刈り取った稲を田の周りに並べて干す時期が過ぎると、農家の仕事は一段落し、冬へと移り変わる。一仕事終えた後の寂しさと共に、無事に仕事が終わったことへの安堵が漂う。晩秋から初冬にかけての農村特有の空気であった。
冬ざれもやがて春兆す頃へ進む。その日を穏やかに待つばかりだと思っていた遠里の耳に、安徳村で一揆の報が入ったのは、その日の勤めを終えて家路に就いた後であった。遠里は安徳村へ取って返したが、着いた時には村長の家が焼かれるなどの被害が出ていて、とても収拾のつかない状況だった。
やがて御親兵が鎮圧に乗り出し、一揆の中心だった農民たちは瞬く間に抑え込まれていく。逃げ惑う農民たちと御親兵たちは、足下に何があろうと構わずに走り回る。一夜明けると、収穫を終えたばかりの土地は踏み荒らされ、家々にも被害が出ていた。火薬を扱う遠里の仕事馬は御親兵が死守してくれたおかげで被害はない。死者が出なかったのはそのおかげと言えた。
遠里は一揆が鎮圧されていく様を眺めていた。そして何度も、税の重さに嘆く声を思い出していた。
関東や東北に比べて農業技術が高く、税が重いなら収量を増やすことで対抗できる底力を持つと思っていた。しかし現実に一揆は起きた。筑前の農民の我慢さえ上回る苦しさが、一揆につながったのだろうか。
遠里は荒れた村を歩き、知り合いを探した。村には働く間に知り合った農民が何人かいて、彼らの安否が心配だった。
最初に出会ったのは、南瓜の増やし方を教えてくれた清十郎であった。彼は変わらない屈託のなさを見せてくれたが、眠れなかったのか疲れのにじむ笑顔だった。
「大変なことになりましたな。これじゃあ火薬を作るどころじゃないでしょう」
「それは安田さんも同じはずです。土地が荒れてしまって」
「今は収穫が終わったばかりですから、すぐには困りませんがね」
遠里は清十郎と並んで腰を下ろした。
「原因は、やはり税の重さですか」
他に考えつかなかったから、首を振った清十郎が意外だった。
「それもありますが、直接のきっかけは髷を切ったことです」
どういうことかと訊き返すと、一揆が起きる直前、村長が村人を集めて、ある下男の髷を切ったのだと言う。それだけでも物議を醸す出来事だったが、下男を無理に座らせ、髷を切ったというから、それが暴力的な行為に見えたらしい。税の重さなどでたまっていた不満が村長の行動で暴発し、一揆につながったのだという。
「そのせいで御親兵に何人か連れて行かれました。おそらく、末路は」
その先を清十郎は言わなかった。知った顔があったのかそれ以上を口にはしたくないようだった。
「土地が踏み荒らされたことより、人手が減ってしまったのが痛いですな。傷ついただけなら春には働けるようになるでしょうが」
清十郎の声は、もう帰ってくることのない人へ呼びかけるようだった。
「どうあれ、まずは直すことから始めなければ」
遠里は田を眺めて言った。それは何気ない言葉であったが、
「そんなことはわかっています」
清十郎は思いの外強い調子で言い返した。たじろいだ遠里は清十郎を見遣る。彼は一瞬気色ばんだ顔を見せたが、すぐに悄然とした態度となった。
「申し訳ない、あなたに苛立っても仕方がない」
遠里は気にしないでくださいと言うので精一杯だった。いつも温和だった清十郎が初めて見せた感情の揺らぎが、いまだに遠里の胸を揺さぶっている。
自分にも何かできないか、と言いかけて遠里は口を噤んだ。明治以前から土と共に生きてきた人を前に、一時の感情で以て何かをしようなどと不実だと思えた。教わる立場で清十郎を助けることもできないだろうし、相応の力や知識があっても清十郎は拒む気がした。身分差がなくなったとしても、生活の基盤における差異は厳然と存在し、それが互いの分限でもあった。
そうかと言って、沈んだ表情をしている清十郎に何もしてやれないのが悔しい。消えたはずの身分差に苦しめられるのは思いもしないことだったが、その理由もまた思いがけないものだった。
清十郎と別れて家路に就いた遠里は、帰宅するなり庭に降りた。春から夏にかけて芽を出し、花を咲かせ、実をつけた南瓜のあった場所は、眠りに就いたように色をなくしている。二度にわたって収穫できたのは清十郎のおかげだと思っているが、その恩を返せないのが歯がゆい。
囚われているものから脱する方法が一つ思い浮かんだが、それは自分だけにはとどまらない問題を巻き起こすだろう。しかし近しい人の力になるためには、このままでいられないのも確かであった。
「何か気になることでもおありですか」
寒夜の庭先に佇んでいる夫を心配したのか、登世が気遣わしげな声をかけてきた。
「南瓜が次もしっかり芽を出せば良いと思ってな」
「そうでしたか」
登世は微笑んだが、安堵の表情ではない。夫に対する心配はいまだ消えていないようであった。
家族で夕餉を終え、誠が眠りに就いてから、遠里は登世に安徳村で一揆があったことを告げた。平素感情の揺らぎを見せない登世は、珍しく驚き、怯えの色さえ見せた。そして思い出したように、
「南瓜の増やし方を教えてくださった方の村ですね」
と、清十郎の安否を尋ねるように言った。
「清十郎は無事だった。しかし何人か御親兵に連れて行かれたようで、それに心を痛めているようだ。何の力にもなれないのが悔しいが」
「何故ですか」
「士族と農民の間には、お前が思うより分限の差が大きいのだよ」
「四民平等とは、嘘だったのでしょうか」
平素従順な登世が珍しく言い募る。遠里は驚きつつ、議論の相手が思いがけず現れたことを嬉しく思いながら首を振った。
「嘘ではなかったさ。ただ、お互いにこれまで生きてきた場所が違うだろう。その差はいくら努力しても埋められるものではないのだよ」
登世は反論しなかった。彼女の実家もまた士分であった。男女の立場の違いはあれど、幼い頃から武家のしきたりや生き方を間近で見てきた人間である。時に奔放に振る舞うこともできる農民との違いを肌で感じたことがあるに違いなかった。
「どうしたら身分差を超えて気遣いをしてやれるのだろうな」
議論は行き詰まり、答えはでない。半ば投げ遣りになって遠里は言った。それに対する登世の返事は思いがけないものだった。
「あなた様も田畑へ降りてみれば良いのでは」
それは遠里が他にないと思っていた選択肢である。しかしそれを登世が示すとは思わなかった。背中を押してもらうつもりがあったわけではないだけに、登世の言葉は胸に響いた。
「今南瓜を育てているではないか」
「それだけではなく、もっと広いところでもっと多くのものを育てるのです。そうでなければ望みは叶わないと思います」
「帰農しろと言うのか」
登世は穏やかに笑って頷いた。登世から帰農を勧めてくるとは思わず、遠里は二の句が継げなかった。
あるいは望みであるのかもしれない。心は火薬を製造することより帰農することを願っている。ただ、それには生活という厳然たるものが立ちはだかる。
その心配を正直に打ち明けると、気にすることはないでしょうと登世は言った。
「わたしは平気です。誠もいよいよとなれば家を捨てさせれば良い。家が傾く頃、誠もそれだけの行動が起こせる歳になっているでしょう。思うように生きて良いと思います」
不安を読み切ったように登世の言葉は的確だった。良いかどうかと思い悩むのは、登世の前に意味はなかった。
林遠里が退職を願い出たのは、明治四年暮れのことであった。
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