夏の芽吹き

haru-kana

第1話

 朝方頼りなげだった日差しは徐々に夏めいたものへ変わっていき、昼餉を終える頃には庭に黒々と葉陰を映すほどになった。天気の良い日が続いているから珍しくもない光景のはずだが、庭木と日差しが庭で織り成す陰影を眺めたのは久しぶりで、やけに新鮮だった。

 内着のまま風に吹かれていると激動だったこの数年間が自然と脳裏に思い出される。福岡藩の御一新はいつから始まったのか、異論はあるだろうが、全ては横浜に東イン

ド艦隊が上陸したところから始まったのだと林(はやし)遠里(えんり)は思っていた。庭の景色は当時

から変わらないが、数年前までは一歩外へ出れば誰もが変化に戸惑い、衝突におのの

いていた。主家に武を以て仕える立場であったが故に次の時代へ行けなかった者のことを思えば、寧日に過去を思い返せるだけでも僥倖かもしれなかった。

「お珍しい。こんな時間に座って過ごしているなんて」

 柔和な響きを聞いて肩越しに振り向くのと同時に、傍に小鉢と湯飲みが置かれた。

妻の登(と)世(せ)は膝をついていたが、すぐに立ち上がった。

「どうした。すぐに立ち去ることはあるまい」

「そうですか。お一人で過ごしたいように見えたもので」

 登世は控え目に言って、夫と同じ景色を眺めた。林家の庭にはひときわ高い楡の木があって、季節ごとに相応の色味を見せてくれる。盛夏へ移り変わる今は青々と茂り、四ヶ月も経てば紅葉し、葉を落とす。

「お珍しいこともあるものですね」

 繰り返された言葉には登世の感慨が聞き取れた。

「家の主がここにいるのがそれほど不思議か」

「最近は特に、多忙なようでしたから」

「偶さか間が空いた。また明日には元に戻るだろうが」

「せめて三日は休めれば良いのに」

「そうはいくまい。皆が、日本という国が大変な時だ」

 御一新の前後で急に聞くことが増えた言葉を敢えて口にしてみたが、上滑りしたようで気分が悪い。藩を超え、諸国を包む体制のことを日本として、諸外国に名乗るようになるそうだが、北九州の一端では筑前を見渡すことさえ難しい。御一新で大きな功績があったという薩摩のことも、同じ九州にもかかわらずよくわからないのだ。福岡藩の味方には変わりないだろうが、底知れぬ不気味さも同時に感じていた。

 遠里は湯飲みの水を口に含んだ。近くの井戸で汲んできたばかりの水らしく、口の中が一瞬で冴えた。

 小鉢に入っていたのは黄色い食べ物で、一瞬考えてから、それが南瓜をすりつぶしたものであるのがわかった。

「初物だそうです」

 意図を訊くように見遣ると、登世は心得たように答えた。それだけで夫婦は通じ合い、遠里は短い返事をするだけで済んだ。

 皮を取り去ってからすりつぶした南瓜は、まるで歯のない老人や乳児の食事のようだが、小さじですくって口にすると冷たく甘い口当たりが心地よく、菓子のように手軽に食べられるのも良い。ありふれた野菜の新たな一面を目にする思いだった。

「お忙しいのでしょうか」

 結局登世は傍に腰を下ろし、日なたへ向けて密やかに語りかけた。これほど穏やかであるのに、と続きそうなほど、その問いかけは純朴に響く。時代という途方もない大きさのものへ傾いていた意識が、庭と傍らの登世にだけ向いた。

「江戸が名を変えてしまうほどのことが起きておる。忙しくならないはずがない。これでもまだ武家の者でな」

 まあ、と登世は心底から驚いたような声を出した。登世の実家は代々続く物頭で、藩がどうなるかわからない状況下でも立派に主家や奉公人を守っている。登世の育ちの良さは時に奇妙な行き違いを生んで苛立つこともあるが、穏やかな今は心地よく体の力を抜いてくれた。

「暇が重なるよりは良い。忙しく過ごす時があって、その合間にこうして穏やかに過ごす日がある。良いことだ」

 登世は笑みを浮かべて頷いた。珍しくもないはずの陰影に新鮮さを感じたり、登世の笑顔に安らいだりできるのは、日々の苦労を重ねているせいだろう。この瞬間に感じている安らぎがわからないほどの平板な日々は、決して幸せではない。

 しかし現在にこの上ない不安を感じているのも確かだった。長く京都にいた帝は江戸から名を変えた東京へ移った。その居所は徳川宗家の拠点だった江戸城だという。二百年以上続いた体制と共に自分の先祖たちは生きてきたし、賊軍として追われた果てに敗れるまで自分も体制の中にいた。その体制はもう無い。拠り所がないまま歩いていく日々がどう転ぶか、おそらく誰も見通せないだろう。

「安息が続くのは良いことですけれど」

 含みを持たせた登世の声に、遠里は視線をずらす。目の端で登世は上目遣いをしていた。

「どうですか」

 登世はささやきかけるように言った。何に向けられた言葉かわからずに訊き返すと、彼女の視線は傍らの小鉢に落ちた。

「先ほどから悩ましいことばかり話しておりますけれど、肝心のお味を聞いていません。そうでなければ作った意味がないというものです」

 平素従順な登世が、不満の潜む声を出した。時間にも生活にも余裕のない中での心尽くしである。無感動であってはむなしくなるだろう。

 遠里は改めて小さじを口に運んだ。ふかした後にすりつぶした南瓜は何も絡めておらず、本来の甘みしか感じない。しかし味の濃さは程よく、冷たさも気温に合っている。何もない時に食べるにはちょうど良い小気味よさだった。

「美味いぞ」

 登世は微笑むだけだった。割に開明的な父親のおかげでそれなりに学があり、言葉も多く知っている方だが、敢えて言葉を重ねずに済ますのが登世らしい。それに合わせていると周囲の音がよく聞こえて、独特の空気が生まれる。共に暮らすようになってから何度も感じた安らぎは健在であった。

「美味い」

「心得ております」

 二口目を味わってから言うと、おかしそうな笑みが添えられた。登世にとってはもはやわかりきったことになっているらしい。

 遠里は残りの南瓜をすくい取っていく。最後のひとすくいを舌の上で転がしていると、固いものが歯に当たった。口からつまみ出すと、それは南瓜の種であった。

「どうして入ったのかしら」

 さてな、と言うのが精一杯だった。しかしすぐに、答えが出そうにない不思議さに中てられたように笑みがこみ上げてきた。登世にその気持ちを言ってやったが、今ひとつ共感し得ないようだった。

「捨ててきましょう」

 登世が手を差し出したのを制し、遠里は振りかぶった。

「立ち上がるには及ばん」

 そう言って楡の木の根元をめがけて種を投げた。種は音もなく地面に落ち、影の中に沈む。

「はしたないこと」

「良いではないか」

 二人は何気ないことを笑い合った。夏めいた日差しに焼かれる庭を、時々風が吹き抜けて葉陰を揺らしていく。それを二人で眺めているだけでも飽きずにいられる。夫婦の平穏無事とはこういうものだと、遠里はふとのろけたくなった。


 その後登世とはすれ違いが続いて、穏やかに肩を並べた日が思いの外印象深い記憶となった。朝は家中の誰よりも早く目覚め、夜は夫が帰ってくるまで待っている。十数年続く習慣めいた生活を崩さず、妻としての役割を粛々とこなしているように見えた。

「まったく今更だが、良い妻を娶ったと思ってな」

 遠里は役目が早く終わった日の夜、帰りがけに出会った友人の佐原宗右衛門にのろけを打った。登世と同じくすれ違いの続いていた友人とは、毎日顔を会わせる妻よりも疎遠になりつつある。この機会を逃すと、二度と会えないかもしれないと思うと、宗右衛門を誘わずにはおれなかった。

「良いことだな」

 手近にあった小料理屋に入り、宗右衛門はひとしきり遠里の話を聞いて、一言呟くように言った。誰の話を聞いても淡泊な返事をする男は、ともすれば何事にも無関心で冷淡にも見えるが、大事にしてやれ、と言った声にはどちらへともない気遣いが聞き取れた。

「何が起きるかわからないご時世だからな」

 刺身を口にした宗右衛門がこぼした声に、遠里は同じ不安を感じ取った。拠り所をなくしたまま時代を歩かなければならなくなった不安を抱えているのは自分だけではない。

「役目はどうだ。お主は分隊司令官だから、あまりやることは変わらないだろうが」

 宗右衛門は言い、杯を傾けた。藩校でも共に学んだことがある間柄で、若い頃は武芸を競うこともあったが、家柄は学者で、役目の内容は異なっている。

「いつまた戦うことになるかわからん。そう思って誰もが緊張している。それを抑えるのが当面の仕事だな」

 周囲では一度終わった戦が再燃することを恐れる向きの方が強いが、戦における働きに対する充分な恩賞がないことへの不満もくすぶっている。命を落とすことなく妻の元へ帰ることができただけでも存外の喜びと遠里は考えることができたが、それでは満足できない者の方が多いようだし、それは武士として当然だろう。武士は古来、戦いに勝って得た恩賞で生きていくものだからだ。

「この上にまた何かが起きると思うか」

 遠里は宗右衛門を見遣ってから、手酌した酒をあおった。

「しばらくはあのような戦は起きぬよ。上野で彰義隊なる者たちが蜂起したそうだが、一日で押さえ込まれたらしい。戦力の差もあったが、作戦の差も大きく関わる勝利だった。官軍は山に向かって砲撃を加えてから兵を差し向けたそうだ。それほど徹底した作戦を採る相手に弓を引こうという者など、そう簡単には現れまい」

 遠く上野で蜂起しながら、大村益次郎率いる官軍にたった一日で押さえ込まれてしまった彰義隊のことは笑いぐさとして伝わっている。用兵についての知識がある遠里からすれば、洗練された作戦を採って勝利を収めた大村の手腕を学べる機会であったが、その陰で彰義隊がどう戦ったのか、そもそも何を望んで蜂起したのかもほとんど伝わってこないのでは、美談として扱うのは無理がある。

「本当に何も起きなかったら、お主は飯の食い上げだな」

 冗談とも本気ともつかない声で宗右衛門は言ったが、そうかもしれん、と遠里は穏やかに受け止めた。

「しかし先祖たちにもそういう時期はあった。本当に何も起きず、生き方を変えざるを得ない時が来たとしたら、林家の歴史に学ぶまでだ」

 遠里が生まれた天保年間は、大坂で大塩平八郎の乱があり、水戸の徳川斉昭が内憂外患を説いた時期である。長じてからは砲術を学び、学び覚えた技術で現在も身を立てている遠里は、いざ砲術を捨てざるを得なくなった時の想像はつかない。林家の先人たちが太平の時代に何をして過ごしていたのか、少しずつでも学ぶ必要があるだろう。

「いずれそうなるとしても、今すぐではないだろうな」

 言いながら宗右衛門は、互いの腰にあるものを見遣った。体制が変わったとはいえ、武士の身分や身なりは何も変わっていない。必要があれば刀を抜き、相手を斬り捨てることも許される。

「俺たちは未だ武士だ」

 宗右衛門は神妙な顔で呟いた。同意を求めるような切実さを感じ、遠里は力を込めた返事をした。

 宗右衛門に限らず、全ての人が内心に揺らぎを感じているのだ。長い間絶対的なものとして信じてきた幕府が、異国の船に威圧されただけで慌てふためいたことに始まり、帝が京都を離れ、徳川宗家のかつての居所に居を移し、挙げ句江戸は名を変えた。想像を絶することが立て続けに起きて、何を信じていいのかわからなくなっているのだろう。

 遠里自身にも拠り所のないまま歩かなければならない不安はある。まだ役目はあるし、時間と共に新しい拠り所もできてくるだろう。しかしそれが、先祖代々よすがとしてきたものと同じとは限らない。

 この先の時代がどう進んでも揺るがないものが欲しいと思った。その時浮かんだのは登世の密やかな笑みであり、何気ないことで笑い合った憩いの日であった。

 酔ってくるといっそう卑近な話が増えてくる。御一新を成し遂げた人々でさえ見通せないはずの将来より、家族の話の方が実感を伴う分言葉を探しやすい。気兼ねせずに喋ることもできた。

 お互いに酒の飲み方も心得ていて、相手の話が少し遠くなったと感じた時、宗右衛門の方から帰ろうと言った。店を出た時少し闇が深くなって見えたが、遠里が提灯をつけると不自由はなくなった。

「便利なものだな」

 提灯を指して、宗右衛門は感慨深げに言った。

「何を今更。昔からどこででも使われているだろう」

「そうだ。しかし、一昔前までは菜種の生産があまり行われず、夜はもっと暗かったと言うぞ」

 今でこそ菜種油は夜の灯りとして非常に有用だが、注目されるようになったのは元禄の頃だという。それまで夜の灯りは荏胡麻や胡麻が頼りで、高価だったために庶民が使うものではなかった。菜種は荏胡麻に比べて燃えかすがつきにくい上に従来のものより油の含有量が多く、裏作で栽培することができた。多くの利点を持つために九州をはじめとする各地で栽培が始まり、今では北陸や関東にも産地が広がっている。

「この灯りがなければ、夜までかかって本を読むこともできなかっただろう」

 学問で仕えてきた立場からか、宗右衛門は光に深く感じ入っているようだった。努力や功績を吹聴する男ではないが、他人に頼らず何かを地道に積み上げてきた者の強さが佇まいにはにじんでいた。

「駿府が案外これの産地になるかもしれんな」

 宗右衛門の呟きは聞き流せなかった。

「何故そう思う」

 脈絡もない言葉で、酔客の戯れ言にも思えるが、武芸より学問をよくしてきた男の言葉は簡単に扱えない。

「戦に敗れた元幕臣たちが駿府で帰農し、茶の生産に励んでいると聞く。俺は彼らの変わり身の早さに感心している」

「皮肉か」

「違う。本心だ。汚名をすすぎ、雪辱を果たすのが武士であろう。それに倣えば彼らも刀を鍬に持ち替えている場合ではない」

「しかし元幕臣たちは刀を持ち直す気配がないな」

「諦めたのかもしれないが、俺には彼らが、自然に無理のない生き方をしようと英断したように見えるのだ。もし彼らの立場だったら、同じ決断ができるかわからん」

「考えすぎだ。どちらが良いかと悩んでも答えは出まい」

 元幕臣たちが帰農したのは、英断というより生きるための選択肢が他になかったためであろう。武士としては正しい決断とは言えないまでも、現実には養うべき家族がいて、路頭に迷わせるような危険な賭はできなかったのだろう。その心情は遠里にも充分に理解できる。

 自分たちは戦で大きな功績を残したわけではないが、所属していた藩がたまたま官軍となったことでそれまでの役目を保障されているに過ぎない。そう思うと、帰農した元幕臣と自分たちの間に差はなく、結局宿運の差で明暗が分かれたのだ。

「帰農した元幕臣たちは茶を育て、やがては菜種さえ育てるようになるやもしれん。そして我々は、未だに残る主家のためにそれぞれの腕で仕えるまでだ。他にするべきことがあるのか」

 宗右衛門は熟慮した素振りを一瞬見せて、ないな、と決然と答えた。

「お主の言うとおりだな」

 吹っ切れたような清々しい声であった。

 言葉を重ねる内に酔いは覚め、自分たちの周りに人気がなくなっていることに気づく。少し遅れて、遠里は不穏な気配に足を止めた。

「気づいているか」

 宗右衛門は淡い光の中で頷いた。その顔には緊張がみなぎっている。

 二人揃って足を止めて相手の出方をうかがう。程なくして物陰から五つの人影が飛び出してきた。

「夜盗か」

 遠里は問うでもなく言った。役目が残されているとはいえ、それはある程度の地位や家柄を持つ者だけだ。それらに恵まれなかった者たちは、混乱の中で食い扶持を失い、変化の荒波を泳ぎ切るためになりふり構っていられなくなった。それが一部で聞こえてくる、恩賞の不足への不満の正体であろう。

「命が望みか」

 宗右衛門が前へ出た。相手は暗がりの中でも手入れが不充分なのがわかる刀を不安定に構え、一歩踏み出した時構えが無様なほど揺れた。

「あ、有り金だ。どうせ持ってるんだろうが」

 正面の男が、裏返った声ながら意味の通じる言葉を言った。刀を見て怖れを成す者ばかりを相手にしてきたのだろう。刀を怖れないどころか、腰をかがめて反撃の構えを取る相手は初めてに違いない。

「さっき酒を飲んできた。もうない。他を当たれ」

 遠里は突っ立ったまま言った。宗右衛門は割に好戦的だが、遠里は路上での斬り合いなど望まない。動揺しない自分たちを見せつければ格上の相手だと思って勝手に怖れを成してくれるかもしれない。刀を抜かずに済ませられたらこの上ない成果だ。

「戯言をぬかすな。酒を飲む余裕があるなら持っているだろう」

 右端の男は激しく言い募る。どうあっても自分たちを無事に逃がすつもりはないようだ。

 宗右衛門に意見を求めるように見遣ったが、既に相対する気持ちを固めているらしい。さっきから腰を落としたまま動かない。

「どうする」

 本当に夜盗と斬り結ぶつもりかと遠里は不安になった。宗右衛門は文武に秀でた男である。そして戦うとなれば情け容赦はしない。

 宗右衛門は鋭い視線をわずかに横へずらした。

 さっき菜種油の光に文化の発展を重ねていた思慮深さはなく、獰猛で冷たい目をしていた。

「お主が出るまでもない」

 言うが早いか、宗右衛門は最も近い右端の一人に踏み込んでいった。その一歩は広く、飛んだかのように滑らかに間合いを詰める。次の瞬間には、夜盗はくずおれていた。

 思わず宗右衛門の名を呼ぶが、彼は答えずに次の獲物に向かっている。動きについていけなかった遠里は、倒れた男の安否を気にして注視した。その間に宗右衛門は二人を倒している。暗がりで色もよく見えないが、確かに体から血が流れていた。

 四人目が倒れた時、宗右衛門に一瞬の隙ができた。五人目は宗右衛門の刃をかいくぐり、刀を大上段に構えて遠里へ向かってくる。

「そこをどけ、斬るぞ」

 めいっぱいの声量で、精一杯の形相を作り、斬りかかってくる。遠里は急に夜盗が哀れに思えた。仮にも武士なら、襲った相手が悪かったことぐらい最初の遣り取りでわかるはずだ。相手の強さを見極める眼力を失ったばかりか、無力な女子供を蹴散らすことにしか使えないような脅し文句を吐く。まだ武士であるはずの男の何が間違って、こんなに情けない姿をさらすようになったのか。

「この、ぼんくら」

 遠里は刀を振り下ろしても刀身が届かない相手の懐へ飛び込んだ。その勢いのまま拳を突き出す。ほとんど腕を振らなかったが、お互いの勢いが助けとなって充分な威力になる。遠里の拳は男の顔面を捉えた。鼻の骨だろう、乾いた音が何かを突き破る感触と共に聞こえた。

 遠里の鉄拳で決着した。宗右衛門に倒された四人はもはや動かず、遠里が殴り飛ばした最後の一人は起き上がったが、腰を抜かして二人を見上げるだけだった。

「相手が悪いことも見極められんとは」

 宗右衛門の軽侮に、男は挑みかかるように睨んだ。足腰が立たないのに、瞳にはまだ活力がある。

「どうする。しかるべき所へ突き出すか。さもなくば」

 宗右衛門は地面に置いた提灯に照らされるように白刃を傾けた。死を目前にしているはずの男は、それでも宗右衛門から視線を外さなかった。

「待て。この男は俺が倒した。俺に任せてくれ」

 宗右衛門は少し不満げな顔をしたが、何も言わずに身を引いた。代わって遠里が男の前に立つ。

「何故我らを襲った」

「わかりきったことだろう。有り金だ。お前たちの身なりを見ればわかる。役目がまだあって、禄も充分に得られている。我らには考えられぬことだ」

「下郎か」

 宗右衛門の軽侮に激しい憎悪を燃やした目を向けたが、遠里は自分の刀を揺らして男の動きを封じた。

 遠里は黙って男を見下ろした。命を狙われたのだから、この場で斬り捨てても、咎められることはないだろう。自分たちを襲ったのが幸運で、なりふり構わず無力な女子供を襲う前に命を絶ってしまうのが世のためかもしれない。

「何をしておる。斬るなら斬れ」

 男は自棄気味に叫んでいた。遠里は哀れっぽさが急に膨らむのを感じた。

「行け、下郎」

「何のつもりだ」

 すかさず咎めたのは宗右衛門だった。

「行けと言った。二度と我らの前に現れるな」

 そう言い捨てて遠里は男に背を向けた。宗右衛門が名を呼ぶのを背中で聞いた。そのうち走り去る足音が聞こえる。ややあって宗右衛門が追いすがる。

「何のつもりだ」

 宗右衛門は珍しく感情的になっていた。

「生きてさえいれば、何かがきっかけになってまっとうな道へ進めるようになるやもしれん。死ねばそれも叶わなくなる」

「だからと言って、誰か別の者を襲ったらどうする」

「そうならぬことを願うだけだ」

 自分でもひどく無責任なことを言ったと思う。宗右衛門もまた、戯言をぬかすなと責め立てた。

「お主がそんなに見立ての甘い男とは思わなかったぞ」

 ともすれば掴みかかりそうな勢いの宗右衛門の感情を受け止め、遠里は無言を貫く。彼からの言葉が途切れた後、他人事には思えんのだ、と遠里はおもむろに口を開いた。

「いつ我々もあの夜盗のような立場に追い込まれるかわからん。拠り所がなくて不安になっているのは誰もが同じだ」

「その同情が仇にならなければ良いがな」

 宗右衛門はそう言い捨てて辻を曲がっていった。遠里の帰路も同じ方向だったが、彼と肩を並べる気になれず、少し立ち尽くしてから来た道を戻っていった。

 さっきの夜盗が襲ってくるかもしれないと警戒しながら夜道を歩いたが、無事にたどり着くことができた。門を開けてもらい、家中へ戻ると、登世が待ち構えていた。

「おかえりなさいませ」

 登世はいつもと変わらぬ様子で出迎えてくれた。鷹揚に返事をして茶を出すように言う。登世は言われたとおりに、数分後には茶を淹れてきた。

「どうなさいましたか」

 いつもの密やかな笑顔で、気遣うようなことを言ってくる。

「ご友人と諍いでもありましたか」

「まあ、そのようなものだな」

 遠里は夜盗を返り討ちにしたことと、その時の対応を巡って諍いがあったことを明かした。登世はお二人がご無事で良かったと言った。

「宗右衛門の方が正しいのは明白だし、意見に固執するつもりはないが、何度考えても夜盗をしかるべき所へ突き出すことはできなかったと思うのだ。情けないことだが、夜盗に同情していたのだ。彼にしてみれば欲しくもなかっただろうが」

 友人にも吐露できなかった思いを、登世は黙って聞いていた。仏像めいた表情で、遠里の行動を賞賛も咎めもしない。

「あなたがご無事で良かった」

 登世が重ねた混じりけの無い言葉に、遠里はうまい返事を思いつかず、

「何よりか」

 いくつかの思いを抱きながら言った。


 役目の違う宗右衛門とはその後再び疎遠となり、互いの仕事に邁進する日々となった。分隊司令官を務めていた遠里は、晩夏には砲術を身につける過程で学んだ火薬の知識を買われ、安徳村での火薬製造を取り仕切ることになった。有事の際実戦に出ることはなくなったが、良質の火薬を作れなければ兵たちを危険にさらすことになる。これまでよりも責任は重大となった。

 宗右衛門と再会したのは、安徳村に赴任して間もなくであった。洋式装備の実際を研究するために関係各所を回っている途中だと、聞き慣れた淡泊な口調で説明した彼は、特にわだかまりを感じている風ではなかった。

 あの夜逃がした夜盗が事を起こしたという話も聞かない。あの夜のことは終わったのだと遠里は思うことにした。

 宗右衛門は九つ(十二時頃)過ぎに帰り支度を始めた。またいつか会おうと言った遠里に対し、静かな返事をした宗右衛門は、あの夜の夜盗のことだが、と何気なさを装って言い添えた。

「少し前に道で斬られているのが見つかったそうだ。どうやら以前のように道ばたで誰かを襲って、返り討ちにされたらしい」

 宗右衛門は返答を聞かずに歩き出した。遠里はその背中に何も言えなかった。

 あの夜の選択が無駄であったことを思い知らせたかったわけではないだろう。足早に立ち去ったり、別れ際まで話をしなかったりしたのは、友人が狼狽するのを見たくなかったからだと思う。宗右衛門の気遣いを感じながら、遠里はそれでも意気消沈するのを抑えられなかった。

 生きてさえいれば、何か浮上のきっかけが掴めたかもしれない。あの夜盗も、どこかで過ちを償う機会を見つけられたかもしれない。

 その可能性に期待して逃がしたのに、全ては無駄になってしまった。せっかくの機会を無駄にされた憤りより、結局まっとうな道へ戻ることができなかった男への哀れみが胸ににじんだ。

 遠里は気分の悪さを抱えながらその日を何とか勤め上げた。立場が変わればあの夜盗のように、道を踏み外しかねない。そのためには少しの弱みも見せられない。遠里は周りに心配されながら帰路に就いた。

 次に休みをもらった時、遠里は何もする気になれず庭を眺めていた。今日は登世が忙しく家中の掃除に動いている。全て登世を含めた他人の仕事だから自分は何かする必要はないのだが、手持ち無沙汰に耐えられず、遠里は庭に降りた。

 定期的に手入れをしているとはいえ、雑草のたくましさは侮れない。少し日当たりの良い場所には小さな叢ができている。

「いくら手間をかけても、性懲りも無く」

 残暑もあってぼやきが口を衝いた。庭師は決して役目を怠ってはいないのだが、雑草の生命力がそれを上回っている。放っておけば見栄えを損なう自然の営みを偉大とは思わないが、人間の努力が決して勝てない、厳然たる差ではあるだろう。

 少し力を入れれば根こそぎ引き抜くことができ、文字通り根絶やしにできる。それでもいつの間にか風が種を運び、土に根付いて叢は元通りになる。その円環を人間が断ち切る術はない。

 ふと風が吹き、一瞬だけ火照った体を冷やした。風はそれだけにとどまらず、梢を揺らしてさわさわと音を立てた。

「人には及ばざることなり、か」

 扇子があれば風を起こして体を冷やすことはできる。しかしその風で以て梢を揺らすことはできないだろう。時として家の屋根を引きはがすほどの威力など、自然以外に有り得ない。

 遠里は手を止め、立ち尽くした。

 風がやむと暑さが沸き立ち、汗が吹き出してくる。遠くに蝉の声が聞こえるが、盛夏の頃ほど生き残っていない今は、途切れる間が長い。音が消えた時、遠里の意識は空に舞った。

 想像の中で地上を離れた遠里は、時間からも遠ざかったような気がした。すると地上での出来事に翻弄されていた自分や夜盗たちが、ひどく矮小に思えてくる。拠り所がないと不安がっていた時も、すぐ近くの恵まれた暮らしを妬んでいた時も、自然は有様をまったく変えていない。日本という国が外国との遣り取りに揺れていた時でさえ、気温は上下し、雨が降り、流れ、花を咲かせ、稲や野菜を育んできたのだ。

 再び風が吹き始めて音が聞こえ出す。意識は地上へ戻り、遠里は作業を再開した。

「及ばざることがあるからこそ、人なるかな」

 ふとそんな思いが生まれて口を衝いた。梢を揺らすことさえ容易ならざる人間だからこそ人間であり、そこに分限があるのだろう。

 草取りを再開し、叢を減らしていくと、有象無象の中に一本だけ明らかに違う感触の草に触れた。

 手を止めてよく見ると、それは草ではなかった。頂に黄色い花を咲かせ、庭の中で唯一の色を見せている。珍しい花だと思った遠里は、ふと庭から縁側を振り向いた。

 よもやと思って遠里は登世を呼んだ。登世は花を見て、南瓜の花ですね、と言った。

「以前見たことがあります。実の色のような花を咲かせるのですよ」

「あの時捨てた種が花を咲かせたのだろうか」

「そうだと思います。とても風が種を運んでくるとは思えません」

 種を捨てたのはあくまで面倒であったからだが、人の気まぐれに負けず自然に育まれて花が咲いた。実がつくかどうかはわからないが、人間の思惑など関係の無いところで命は生まれて育つ。遠里は何か大きな円環を前にした気分だった。

「人には及ばざることか」

 感慨深い呟きに、登世も応じた。単に諾々と従ったのではない、感覚を共にした確かな声であった。

「実をつけるだろうか」

 花びらの質感は頼りないが、同時に瑞々しさがあった。遠里が感じた自然の円環のから吸い上げたものが結実させたしなやかさであった。

 登世は立ち上がり、青空を見上げ、

「それは、お天道様のみ知るところでしょう」

 笑みを含んだ声で答えた。

「そうか、そうだな。人には及ばざることなり、だな」

 遠里もまた空を仰いで笑った。晩夏の空へ、二人の明るい声が吸い込まれていった。

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