第3話ワールドエンドイブ

 心地よい風が体を通り過ぎる。まだ寝ぼけ眼をこぼす太陽の光を浴びながら高速道路をバイクで爆走する。身体を突き抜ける気持ちいい冬の朝の寒さとは逆に背に感じる雪乃の安心する暖かさ、その二つの心地よい寒暖を感じながら俺はただバイクを運転する。

「お兄ちゃん、まだつかないの?」

 ヘルメット越しのくぐもった声で雪乃が尋ねる。

「そうだな…あと10分くらいじゃないか?」

 風切り音に負けない声で叫んで答える。雪乃はそれに返事で返す代わりに指を指した。彼女が指した先、そこには目的の遊園地が見えていた。言葉は交わしていないが雪乃が嬉しそうにしているのが背中越しに伝わる。

「雪乃、危ないからしっかりつかまってろ」

 雪乃に注意を促す俺の気持ちも高ぶっていた。大好きな雪乃とのデートに今朝からずっと鳴りやまなかった心臓のドキドキがさらに激しく脈打つ。

 12月24日、今日は世間でいうクリスマスイブであり、俺たちにとっては世界が終わる前日だ。今日が過ぎれば明日にはもう今の世界と呼べるものはなくなってしまう。カサンドラが言っていた文明のリセットが行われてしまうのだ。この光景も、バイクで感じる風も、今日で最後なのだ。不変であった世界の事象が、明日のこの瞬間には不変という概念すらも飲み込まれてしまっているのだろう。

(…今からデートだっていうのにこんなこと考えてちゃいけないな)

 俺は頭を振ってついネガティブになってしまう思考を振り払う。もう遊園地は目の前だ。存分に楽しんで、雪乃との思いを確かめ合い、そして決断する。今日はなかなかハードスケジュールとなりそうだ。


 世界で最後となるデートが、開幕する。演者は妹を愛してしまった罪深い少年と彼への本当の気持ちを確かめたい少女、終幕は日付が変わるその瞬間。いつもと変わらぬ太陽と青い空だけが彼らの結末をかたずをのんで見守っている。そして今、閑静で冷たさを孕んだ世界に、開幕のブザーが鳴り響いた。


「えへへ。今日は貸し切りだね、お兄ちゃん!」

「あぁ、こんなの滅多に体験できるわけないんだからさ、存分に遊ぼうぜ」

 園内に一歩足を踏み入れるとそこはもう別の世界だった。楽しげな音楽が鳴り響きジェットコースターの轟音が腹の奥まで響き渡り、キャラメルのような甘い匂いが漂ってくる。まるでここだけ世界から隔離されたような不思議な空間に俺は胸が高鳴るのを感じた。普段人が集まっている場所に誰もいないというのはやはりいつまでたっても違和感を感じずにはいられなかったが、それを忘れてしまうほどの楽しみがそこかしこに転がっている。

「そこのカップルさん、ソフトクリームはいかがかな?」

 ふと誰かの声に呼び止められそちらを向くと子供のような小さなシルエットが手招きをしていた。近づいてみるとそれは遊園地のスタッフのおしゃれな制服に身を包んだカサンドラだと分かる。

「ソフトクリームくださいな!バニラ味でお願いね」

「はいはい」

 カサンドラがパチン、と指を鳴らすと空中に突然ソフトクリームが現れぷかぷかと浮かびながら雪乃の手に収まった。魔法のようなその光景は昨日一度、例のナイフを取り出すときに見ていたのだがどうにも驚かざるをえない。

「ちなみに聞くが…これって食べても大丈夫なんだよな?」

「もちろん!」

 胸を張るカサンドラにソフトクリームにかぶりつき美味しそうな笑顔をこぼす雪乃。この笑顔こそ遊園地にふさわしいものだ。と、そろそろどうしてカサンドラがいるのか話さなければいけないな。それは今朝出発前の時間にさかのぼる。


「うぅ…寒…」

 それは月が沈み太陽が昇ってこようとしているちょうど中間のころ、青黒い空の下冷たい空気を肌で感じながら俺は商店街までやってきていた。雪乃のくれたプレゼントで多少は暖かいがやはり早朝の寒さはそんなものでごまかしきれるものではなく、突き刺さるように寒さが俺の肌へ襲い掛かってくる。

「カサンドラ!いるんだろ?カサンドラ!」

 白い吐息が漏れる口で例の神様の使いだという子供の名を呼ぶ。何度目かの呼び声でカサンドラはその姿を例のツリーの一番近くにある和菓子屋から現したのだがどこか不機嫌そうだ。

「ふわぁぁぁ…こんな朝っぱらからどうしたのさ…ボクまだ眠いんだよ…」

 自慢のさらさらの栗色の毛をぼさぼさと乱し眠気眼を擦るパジャマ姿のカサンドラ。神様の使いであっても眠るということが分かり驚きを覚えるがそれを頭の隅へ追いやり俺は言う。

「頼むカサンドラ…遊園地のアトラクション、動かしてくれ」

「は…?」

「明日雪乃と遊園地デートってことになったんだけど、気づいたんだけどさ、ああいうアトラクションってどうやって動かしてるかわかんないしさ、それにメンテとかしないと危ないっていうし。ほら、神様の使いなんだろ?できるんじゃないのか?」

「言っただろ…神様だって全知全能じゃないって…でも、まぁそれくらいならできなくもないよ?」

「ほんとか!?」

「あぁ、ほんとさ。例えば…」

 パチン、と指を鳴らしたカサンドラ。すると商店街の店全てに電気が灯った。またパチン、と指を鳴らすとそれが一斉に消える。俺はその様におぉ、と驚きの声をあげるしかなかった。と、それで得意になったのかカサンドラはさらに指をぱちぱちと鳴らし電気をつけたり消したりを繰り返す。

「すごいな、カサンドラ」

「ま、ボクも仮にも神様の使いだからね。これくらいは余裕だよ」

 にやりと得意げな三日月を口元にたたえてカサンドラは続ける。

「けど一つお願いしたいことがある…」

「お願い!?いいぞ、何でもする!」

「ん?今何でもするって言ったよね?なら…」

 どんなお願いが飛び出すかドキドキしながら待ち受ける。俺たちのデートのためなら例えば全裸になって犬みたいに服従のポーズを取ったり体中に洗濯バサミをつけられたってかまわない…と思っていたが想像すると結構あれだな…プライドが傷つきそう…。でも雪乃のためだ、プライドなんて捨てる覚悟はできている。

「ボクも遊園地で遊びたい!」


 ということで俺たちのデートは開始早々カサンドラの乱入により妨げられてしまったというわけだ。ちなみにカサンドラは例の指ぱっちんのよって瞬間移動もできるためバイクなんかも使わずにここにいる。ソフトクリームを舐めながら歩く雪乃に手を引かれるカサンドラ、それはまるで姉が迷子にならないようにと気遣ってあげているようにも見える。

「ボクのことはいないものと考えて気兼ねなくイチャイチャしなよ」

「いや、一番はしゃいでるお前が言うなよ…騒ぎすぎで存在感主張されすぎなんだよ…」

 ジェットコースターに乗ってもメリーゴーランドに乗ってもカサンドラはまるで見た目通りの年齢の子供みたいにはしゃぎまわる。仮にも神の使いなのにこうも遊園地ではしゃぎまわるなんて予想外だ。そのせいで無理にでも俺たちはこの小さな神様のおもりをしなければいけなくなってしまっているわけだ。

「あ、今度ボクあれ乗ってみたいなぁ。くるくる回るやつ!」

「コーヒーカップか。…てかなにお前が乗りたいもの決めてるんだよ。はぁ…デート台無しじゃん…」

「そんなにカリカリしなくてもいいんじゃない、お兄ちゃん?二人きりで回るより三人で回った方が楽しいよ?」

「あ、雪乃コーヒーカップで回るのと遊園地を回るのかけたでしょ?あんまりおもしろくないよ?」

「全然かけてないよ!もうカサンドラってば生意気言わないで!」

 彼女たちはまるで姉と弟(もしくは妹)のように楽しそうにはしゃぐ。その姿にため息がこぼれるが自然と笑みもこぼれる。確かにデートっぽくはないけど、これはこれで楽しいからいいかもしれないな、なんて俺は思った。

 世界に残された時間は12時間をとうに切った。それでも太陽は寂しさを浮かべることもなくキラキラと変わらぬ笑顔で俺たちを照らす。その太陽にも負けない笑顔が、雪乃の顔に咲き誇る。本当に楽しそうな笑顔が俺の胸をくすぐると同時に寂しさに変わる。この弾けるような笑顔が見れるのも、これで最後になるのかもしれない。そう考えるだけで胸が締め付けられた。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「あ、いや、何でもない。…あ、雪乃。走らないとカサンドラにおいていかれるぞ?」

「あ、待ってお兄ちゃん!早いよぉ!」

 俺はむりやり笑顔を貼り付ける。こうでもしなければ彼女の満面の笑みに泣いてしまうかもしれないから。涙はもう封印しなければいけない。昨日俺はそう決めたんだ。何があっても、どのような結末を迎えても涙を流さないと、赤に染まった冷たい手に誓ったんだから。


「ふぅ…遊び疲れちゃったかも…」

 空の太陽が傾き始めたころ、俺たちはもうほとんどのアトラクションを乗りつくしあとに残すは観覧車のみ。その前に雪乃がトイレに行きたいと言い出したので俺とカサンドラは休憩用のベンチに腰掛けてゆっくりとしていた。ぼぉっと眺める無人の遊園地、傾く太陽に悲しそうな色を浮かべるそこは今も無邪気に楽しそうな音楽を演奏しその悲しさを紛らわせているように見える。

「なぁカサンドラ、少し聞きたいことがあるんだ」

「ん?何かな?」

 雪乃を待つ間カサンドラと二人きり、その間に尋ねたいことはすべて聞いておきたかった。

「お前はさ、どうして世界の滅亡する日を投稿したんだ?どうせみんな消えるんだからそんなことしなくてもいいんじゃないか?」

 カサンドラはその質問になんだそんなことか、とつまらなさそうな顔を浮かべて答える。

「ボクは人間がどう動くか、見てみたかったんだ。もしも世界が滅ぶなら、人間はどんな行動をとるのか…それが暴動のような混沌を生んだとしても、ボクはそれを見届けたかった…人間の最後の輝きをね。けどボクの予想とは逆に人間の心は冷めきってたみたいだけどね」

 カサンドラの瞳に愁いの色が映る。その憂いはカサンドラが初めて見せた感情と呼べるものだった。ずっとあいまいな感情を浮かべていたカサンドラが見せた初めてのはっきりとした感情に俺はたじろぐ。

「ボクたちはさ、人間を観察することしか楽しみがないんだよ。いや、もうそれに楽しみを見いだせず飽き飽きしているけれども…けどやっぱり人間がどう動くのか、それは興味のある所なんだよ」

 人間観察が趣味とはなんとも悪趣味な神様たちである。俺たち人間はやっぱり神様のおもちゃなんだろうか。そう考えるとやり場のない怒りが気泡のように浮かび上がってぱっと消える。

「じゃあさ、なんでお前は遊園地に行きたいなんて言ったんだ?それもあんまりよくわからないんだよ…」

 次の質問にカサンドラはさらに顔を辛そうに歪める。どうやら答えにくい質問だったようだが、意を決したように口を開いた。

「さっきも言ったとおりボクたちの楽しみは人間観察だ。それは神が人間に干渉してはいけないって決まりがあるから。それを破ったら神としての永遠の寿命を剥奪される。ちなみにボクの投稿した予言は干渉とは満たされないよ、あれを投稿しようとしまいと崩壊の未来は変わらない、つまり干渉しても意味がないと満たされるからね」

「へぇ…で、それがどうしてそこに繋がるんだ?」

「ボクたちはあくまで傍観者なんだ。人間が苦しそうにしていても、楽しそうにしていてもそれを感じることはできない。他の神様は人間の感情なんて知ろうともしないけど、ボクは知りたくなった。人間がどうして泣いたり笑ったり、あんなにいろんな表情を浮かべるのか、知りたかったんだ。だからボクはキミに頼んだんだ、楽しいって感情だけでも教えてもらうために」

 その話を聞いて俺はこいつが人間みたいだと思った。それは例えばクラスの楽しそうな輪の中に入って行けない引っ込み思案な奴のように感じられたけど、きっとそれよりもっと苦しい立ち位置にこいつはいるんだ。

「ボクはさ、キミたち人間にあこがれているんだよ…確かに世界を壊してしまうくらい愚かな所もある。けれどボクは、人間が見せる様々な感情にあこがれて嫉妬して、どうしようもなく好きになってしまったんだよ…」

 人間が好きになってしまった神様、それはまるで小説か漫画の登場人物のようだ、つらそうにそう語るカサンドラに俺はかける言葉が見つからなかった。きっと何を言っても俺のちっぽけな言葉はこいつの胸には届かないから。いや、届いたとしてもどうすることもできないから。神様と人間、それは決して相いれることのできない存在だと頭が無意識のうちに理解していたから。

「それにボクたちはこういうときじゃないと人間の世界を堪能できないからね。まったく不便な体だよ。過去にも何回か地上に降りるチャンスはあったんだけどことごとく逃しちゃってようやくって感じでさ」

「…ということは、過去にもやっぱり俺たちみたいな選択を強いられたやつがいるのか?」

「あぁ、もちろん!この世界軸だとキミは一番初めの人間だけど、キミたちの世界ができる前にも何百回も世界のリセットが行われてる」

「まじかよ…」

 そのたびに神様は苦悩の選択をほくそ笑んでみているのだろうか。やはりどこまでも悪趣味だ。

 カサンドラは俺が浮かべた嫌悪感などいざ知らず、指を鳴らしてジュースを呼び出してそれを喉に流し込んでいた。ごくごくとうまそうに喉を鳴らし子供みたいなうれしそうな顔で飲むのだから俺も少し喉が渇いてしまった。

「キミも飲むかい?」

 気をきかせたカサンドラがもう一つジュースを出現させて俺に渡してくれた。俺はぐいっとそれをあおる。柑橘系のスッキリとした甘さが俺の喉を潤した。と、俺の中にある疑問が浮かんだ。

「あ、そうだ…さっきお前は神様は人間に干渉できないって言ってただろ?」

「あぁ、確かに言ったよ。まぁ干渉しようと思えばできるんだけどそれは禁止されてるってだけ」

「どっちでもいいけどさ…どうして神様はそんな力使えるんだ?指鳴らしただけで魔法みたいにいろんなことができる…けどそれって神様にとって必要な力なのか?どうにも俺は矛盾した力だと思うんだよ」

 その力は便利だけど、果たして神様にそれは必要なのだろうか?人間に干渉できず趣味は人間観察ってだけの神様には過ぎた力なんじゃないだろうか?

「この力は…昔人間に自由に干渉できてた頃の名残だよ。といってもボクはその時代を知らないんだけどね?ボクはまだ生まれてから5万年くらいしか生きてないからね…確かその時代の一番若い神様が1億歳?」

 1億なんて想像もできない年数に驚きがやってこない。想像できない数に驚くという感情が追い付いていないのだ。ただ漠然とした感覚だけが脳内で蟠っている感じだ。けれどいまはそれを気にしている場合じゃない。

「やっぱり、その力は人間のためにあったんだな」

「あぁ…だけど、この力のために人間は堕落した。神様は人を助けすぎたんだよ。例えば病気の子供を治したり、誤ってがけから転落した人間を念力で救ったり、飢えた人間にこんな風に食べ物を与えたり、ときには雨を降らせたりもしたっけ…でもそのせいで人間はこう考えてしまったんだ、何か悪いことが起こっても必ず神様が助けてくれるって。神様は困ったことがあれば必ず何か行動を起こしてくれるってね」

「それで人類は進化を手放した…神様が病気を治してくれるから薬も作らなかったし、神様が食べ物を与えてくれるから食物を育てたりするのもやめた、というわけか?」

「まぁアバウトだけどそういうことさ。行き過ぎた進化も悪だけれど進化を諦め怠惰に生きるのはもっと悪だ。そういうわけで神様はその世界をリセットして二度と人間には干渉しないと決めたんだよ」

「なるほどな…」

 俺の中で悪趣味な神様に向けた怒りがすっと消える。彼らが傍観者に徹したのも基をたどれば俺たち人間のせいなのだ。神様は人を助けようとしただけなのに、俺たち人間はそれに甘えてしまっただけ、いわば神様は被害者とも考えられる。きっと神様も見るだけじゃ辛い思いをしているに違いなかった。俺のその気持ちを後押しするかのようにカサンドラは続ける。

「けどやっぱり、ボクは人間に干渉したい…だってボクたちには力があるのに、誰も助けられない…車にひかれそうになった人間が、重い病気にかかって死にそうな子供の親が、様々な不幸を背負った人間が助けて神様って願うのに…ボクたちはそれを無視しないといけないんだ…」

「カサンドラ…」

 きっと何万、何億、いや、きっと俺には想像できない桁の人間が彼らに助けを求めただろうけど、どうしてもそれを無視しなければいけないもどかしさというのはやっぱり俺には想像ができなかった。いや、きっと俺なんかが想像して同情するのも傲慢というものなのだろうが。けれど俺はカサンドラを慰めたかった。何かカサンドラに声をかけたかった。

「ごめん…カサンドラ…俺は、こんなことしか言えない…たぶん雪乃だってこの話を聞いたらごめんしか言えないだろうけど…でも言わせてくれ…ごめんな、カサンドラ…」

 カサンドラは俺の言葉に顔を俯けた。その小さな肩がぷるぷると震えている。表情は見えないけれど必死に感情を抑えようとしているのはわかる。

「カサンドラ…」

 もしかして泣いてしまったのだろうか。俺は心配してまだ小刻みに震えている肩に触れる。と、それがトリガーとなったみたいにカサンドラは感情を爆発させた。

「ぷっ…ふふ…アハハハハハ!」

 けれどそれは俺が思っていた感情とは全く真逆のもので、カサンドラは今まで堪えていたものを吐き出すように笑い出した。笑い死ぬんじゃないかと俺が不安に思うくらいカサンドラは笑って笑って、笑い転げた。

「アハハハハ!何それ!?バカじゃないの!?必死に慰めようとしてその言葉がごめんだけって!やっぱりバカじゃないの!?アハハハハ!」

「な、お前、そんなに笑うことないだろ!?何か言葉かけないとって必死に考えたのに…」

「やっぱりバカだ!人間ってバカばっかり!アハハハ!あーおかしすぎて死にそう!」

 瞳から涙をこぼしひぃひぃと呼吸もままならないほどにカサンドラは笑い転げた。俺にはその笑いの真意がどうしても見えない。

「何まじめにボクの話聞いてるのさ。あれ全部ボクの作り話だよ?なのに…真剣な表情でごめんって…アハハ!」

「え?作り話?嘘?え?」

 あまりの驚きに口が半開きになってしまう。カサンドラの笑い涙の瞳に俺のバカな顔が映っている。そのせいかカサンドラはさらに笑いをあげた。


 結局カサンドラの馬鹿笑いは雪乃が帰ってくるまで止まることはなかった。その間俺がカサンドラにことごとくバカにされ下卑た笑みをお腹いっぱいになるまで見せられたことは言うまでもない。

「でも…なんか嬉しかった…ありがとう、夏樹」

 けれど最後に見せたカサンドラの笑顔、それは本物の笑顔のように感じた。まるで心の底からありがとうと言っているような、そんな感じがした。結局この話の真意も何もかも俺には知るすべもなかった。


「これで全制覇だね、お兄ちゃん」

「あぁ、そうだな」

 空に染みこんでいくオレンジが俺たちも染め上げる。少しノスタルジックな気分になるオレンジ色を背に俺たちは観覧車のゴンドラへ乗り込む。その時ふと子供の時のことを思い出した。観覧車のゴンドラに乗るのが怖くてどうしても一歩を踏み出せなかった子供の時の記憶だ。昔は戸惑った一歩も今じゃ楽な一歩だ。当時は雪乃のことなんてなんとも思っていなかったのに、今じゃ彼女が大好きな存在で、なくてはならなくなっている。この簡単な一歩も、俺の中に芽生えた気持ちも、当時の俺には想像もできなかっただろう。そして世界が滅びる日が来るなんてことも、ガキの頃の俺には想像もできないことだった。

「ほら、カサンドラもおいで。早く乗らないとゴンドラ行っちゃうよ?」

「ボクは大丈夫、こうして外から鍵をかける役割が必要でしょ?」

 カサンドラも乗ってくるものだと思っていたのだが予想外に気をきかせてくれたらしい。扉が閉められたゴンドラにはたった二人、だんだんと地上から離れていくのを目下で小さくなっていくカサンドラの姿を見ながら感じた。

「…」

「…」

 オレンジの空がだんだんと近くなってくる。俺たちはその空と、静寂を帯びた街を眺めながらただ無言でいる。気まずい無言が場を支配してどうにもいたたまれない。

「あ、あのさ雪乃…」

 この静寂はまずい、そう感じて俺が声をかけようとした瞬間、その言葉は塞がれた、雪乃の唇によって。

「んんっ…!?」

 気がつけば雪乃と俺の距離が0になっていた。目の前にあるのは瞳を閉じてうっとりした雪乃の顔、甘い匂いが鼻孔をくすぐり唇が感じたふにゃりとした感覚を全身へと送り込む。俺の唇に押し付けられた雪乃の唇に、時間が進むのをためらった。

 雪乃に、キスをされた。その突然の出来事に俺がそれを理解するには相当な時間を要したように感じられた。

「んっ…ぷはぁ…」

「雪乃…どうして…」

 永遠にも似た長いキスが終わりを告げる。目の前の雪乃の愛おしい表情も、甘い香りも、唇の感触もない。まるでさっきのキスが嘘だったかのように雪乃が目の前からいなくなる。けれどそれが嘘でも何でもない現実だということがふと触った唇が彼女の唾液で湿っていることから理解できた。

「えへへ…お兄ちゃんと、キス、しちゃった…」

 彼女の恥ずかしそうにはにかむ笑みに俺の心はまた一つ高ぶりを見せる。この上ない心臓の高まりに一生分の鼓動をここで使い果たしてしまうんじゃないかというバカな思考が頭をよぎった。鼓動がうるさくて鳴りやまない。まるで耳元で和太鼓を打ち鳴らされている感じだ。

 じっと見つめる彼女の熱く潤んだ瞳に、俺の顔が映る。俺は今一体どんな顔をしているのか、間抜けそうな恥ずかしそうな寂しそうな、そんな不思議な顔を浮かべている。

「私ね、やっぱりお兄ちゃんが好きみたい…兄としてじゃなくて、一人の男の子として好きだったみたい…」

「え…?」

 俺は頓狂な声をあげる。今日一日を振り返ってもデートらしいデートはしていない。男らしいところを見せたり好感度が上がるイベントも何もない、ただカサンドラを含めた三人で遊んでいただけ、なのに彼女の確信めいたその言葉はどうしてなのだろうか?嬉しいはずなのにどこか満足していない自分がいた。俺のそんなもどかしい思考を表情から読み取ったのだろう、雪乃が続けた。

「確かにお兄ちゃんが思ってるみたいなデートじゃなかったかもしれない…けどね、私はそれでよかったの…お兄ちゃんといると楽しい、嬉しい、幸せって思えた。お兄ちゃんともっといたい、楽しいことも嬉しいことも幸せなことも、もちろん辛いこともずっと共有してたいって思った…そう思うのと同時に、胸がドキドキってして心がきゅって締まるように感じた…それで分かったの…あぁこれが好きって気持ちなんだって…お兄ちゃんも私といるとこんな気持ちなんだって、わかった…」

「雪乃…」

 彼女の顔が赤く染まる。使い古された夕焼けのせいという言葉では片づけられないほど真っ赤な顔、恥ずかしさと嬉しさが入り混じった幸せな顔、たまらずに俺の胸は締め付けられるように痛んだ。

「ねぇお兄ちゃん…私のお兄ちゃんじゃなくて、私の恋人になってください…」

 その言葉は俺の胸を一発で撃ち抜いた。撃ち抜かれた患部から血の代わりに雪乃への愛が溢れて溢れて止まらない。その愛とともに、俺の目からも熱いものが止まらなくなった。今日は封印しようと思っていた涙が、止めどなく溢れた。

「ふふ…お兄ちゃんが泣いちゃうなんて…おかしいの…」

「うるせぇ…」

 ニヤニヤと笑う雪乃も、泣きそうに瞳を潤ましていた。浮かび上がるその雫が夕日に照らされてキラキラと輝いた。

「俺の方こそ…お前の恋人になりたい…ずっとずっと願ってた…好きだよ、雪乃…」

 今度は俺から、彼女の唇を奪った。ふにゃりと柔らかくこの世のどんなものよりも甘い雪乃の唇に、俺は時間も忘れてむしゃぶりついた。今までの彼女への思いをぶつけるように、彼女からぶつけられる愛を受け入れるように、ただただキスを交わした。


 ちょうどゴンドラが半分を過ぎたころ、そのキスは終わりを告げた。お互い口元がべたべたでそれを見て笑みを浮かべる。とても幸せな時間、けれど幸せな時間こそ終わりを告げるのは早かった。

「お兄ちゃん…どうするか、決めた?」

 さみしそうにそう言った雪乃の言葉に俺は黙るしかなかった。彼女と結ばれたが、俺の答えはまだ決まっていなかった。心の天秤が揺れ動いてまだ完全に静止していない。けれど心の奥底では雪乃と一緒にいたいという思いが若干だが勝っていた。

「もう、悩まなくていいよ、お兄ちゃん…私、決めたの…お兄ちゃんに殺してほしいって…」

「は…?」

 それは一番俺が悩んだ答えだ。確かに彼女を殺せば俺は解放されるし、生き残って辛い思いをする必要はない。けれど雪乃のことを覚えていられなくなる。雪乃への思いを忘れたくない。両想いになった今ならなおさらだ。彼女もきっとそう感じているだろう、けれど自身のことを殺してというのは何か理由があるのだろう。

「どうして、だよ…もう俺たち恋人だろ…?なら一緒に…」

「恋人だから、私を殺してほしいの…」

「なんだよそれ…意味、分かんねぇよ…」

「この先生き残ったとしてさ、今みたいな幸せな恋心のまま過ごせると思う?私は自信ない…きっと死の恐怖で心が壊れちゃう…今でも死ぬってことは怖い…毎回違う死の恐怖が襲ってくるの…一回も同じものはない、けれど同じなのは怖いってことだけ…あんなのずっと味わってたら、私きっとまともじゃいられなくなる…たぶん心が壊れて、お兄ちゃんに食べられるのも拒否しちゃうと思う…それ以上にきっと、お兄ちゃんを見ただけで怖くなっちゃう…お兄ちゃんが私に死の恐怖を与える最悪の人って思っちゃいそうなの…」

「じゃあ俺が食べるのを我慢するから!」

「それだとお兄ちゃんが狂っちゃう…私を食べないと気が狂いそうなほど苦しくなるんでしょ?それがずっと続いたらお兄ちゃんもおかしくなって心が壊れちゃう…きっと無意識で私を食べて、後悔すると思う…」

 俺はそんなことにはならない、そう言える自信がなかった。世界が終わる前日に感じた最大の空腹を思い出して心が折れそうになる。あの時の俺は生きていながら死んでいるような苦痛を味わい、気が狂いそうなほど雪乃の肉を求めて内側の獣が暴れまわっていた。あれに耐えるのはいくら愛が深かろうと無理だろう。

「だからさ、今のこの気持ちを持ったまま…死なせて。私、幸せなまま死にたいの…」

「けどお前への好きって気持ちはなくなっちゃう…」

「ううん、無くならない…それはずっと私のここに残ってる」

 彼女はポン、と自身の胸を叩いた。そして優しい笑みを俺に浮かべた。

「たとえお兄ちゃんが忘れても、私が覚えてる…死んだ後もずっとずっと、天国で覚えてる…」

「そんな保障、ないじゃんか…」

「ううん、あるよ。何回も私は死んだ、だからわかるの。たとえ体が死んでも心はずっと生きてるって」

 その言葉は死んだことがある雪乃だから言える本当の言葉なのか、それとも彼女がでっち上げた俺を安心させる嘘なのかわからない。けれど彼女は永遠に覚えておくつもりなのだろう。俺との恋を…。

「だからさ、お兄ちゃん…私を、殺して…持ってきてるんでしょ…ナイフ…」

「!?」

 俺のズボンのポケットに隠していたナイフをするりと取り出して、雪乃は言った。いつの間にばれていたのか、彼女はそれを俺の手に握らせた。自然と手が震えてナイフを落としそうになる。

「ね…お兄ちゃん…私を…殺してよ…早く殺してくれないと…心が揺らいじゃう…お兄ちゃんとずっといたくなっちゃうから…!」

 涙交じりのお願いに、俺の心は揺らぐ。ここで本当に雪乃を殺してしまっていいのか。それが俺の本当の答えなのか、まだわからない。雪乃が望んだ結末を選ぶか、はたまた彼女の願いを無視して俺のエゴに満ちた生存の道を進むか。究極の二者択一の選択に挟まれた俺の心はいまだこの迷宮から抜け出せないでいた。

「雪乃…まだ、時間はあるし…ギリギリまで考えさせてくれ…」

「…お兄ちゃんならそう言うと思った…けどこれだけはわかって…私は何もお兄ちゃんを勝手な願いで殺してって言ったんじゃないってことを…」

「あぁ、それは知ってるぞ…お前は俺のことも自分のこともよく考えて言ってくれたんだもんな…」

 ぽん、と雪乃の頭に手を乗せてくしゃくしゃと髪をなでてやる。気持ちよさそうに雪のが目を細める。

「それにさ…こうやって両想いになれたんだからさ、もうちょっと楽しみたいじゃん?」

長かったゴンドラの旅ももう終わりを告げる。夕日も本格的に空を焦がしだんだんと黒が染み渡っていく。世界に残された時間はもう一ケタだ。それまでに俺は、答えを決められるのだろうか…。


「あれ?カサンドラいないよ?」

「あいつ…どこ行ったんだ?」

 ゴンドラから降りるとそこに待っているはずのカサンドラの姿はなかった。代わりにあるのは一枚の紙きれ、それは置手紙のようで文字が書かれていた。

 ―面白いものを見せてもらったよ、ありがとう。ボクは邪魔にならないうちに帰るとするよ。残りの時間キミたちがどう過ごすかは自由だがちゃんと答えは出してくれよ?―

「あいつ先に帰ったってさ…」

「じゃあどうする?私たちも帰る?」

「そう、するか…もう辺りも暗くなってきたし、さすがに真っ暗な中バイク走らすのも危ないしな」

 世界最後の日にバイク事故でケガしました、なんて洒落にもならない。そういうわけで俺たちはそそくさと帰ることにした。まだ楽しげな音楽を鳴らし数多の人を笑顔にしようと頑張る遊園地を背に、俺たちは歩き出す。最後にその健気な儚い遊び場にありがとう、とポツリ呟いて、完全にこの場を背にした。


「…お兄ちゃん、私、お兄ちゃんに食べられたい…」

 で、家に帰ってきたはいいものの結局することはいつもと同じだった。

「本当にいいのか?」

 暗闇に照らし出される雪乃のシルエット、血が染みこんだむせかえる匂いがする部屋で俺たちは見つめ合っている。何度繰り返した食膳の動作も慣れることはなく心臓のドキドキは溢れ食欲の獣は牙をむきだす。

「うん…確かに死ぬ瞬間は苦しいし怖いけど…でもどうしても両想いになった今、お兄ちゃんに食べられたいの…大好きなお兄ちゃんの愛情を最後まで感じたいの…」

「わかった…雪乃…」

 月が照らした雪乃の愛らしい表情に俺はたまらずキスをする。ねっとりとした恋人の甘いキスを交わしながら俺は雪乃の服を脱がせていった。初めは手間取りながら脱がせていたのがもうすんなりと脱がすことができる。それほどまでに俺たちは禁忌の行為を繰り返してきたというわけだ。下着を脱がされることを恥ずかしがっている雪乃も今では少しだけ頬に赤みが差すだけだった。その奥には嬉しさにも似た表情もうかがうことができる。

「んっ…お兄…ちゃん…」

 生まれたままの姿の雪乃をベッドへと押し倒す。軽い体はぽふり、と小さな音をたててベッドへと沈み込んだ。洗ってももう落ちないだろう量の血がシーツにべったりと染みこんでいる。今日もこのシーツにはまた血が染みこむだろうが、今日のそれは普段のそれとは違う。雪乃の俺への愛情が染みこんだ血が漏れるだろう。今まで行ってきたものとは違う、本当の愛情を確かめ合う行為を、俺たちは交わしあうんだ。

「雪乃…愛してるよ…」

 俺は彼女の耳元にささやいたのち、首筋にかみついた。どろりとした温かな血が口内にじゅわっと広がる。愛の味が口内に広がり弾ける。

「お兄ちゃん…私も、愛してるよ…」

 雪乃もそうささやいて、俺の首元にかみついた。噛み千切る俺のそれとは違いただじゃれるように首筋にかみつくだけ、けれどそれだけでも雪乃の愛情がピリリとした痛みとして俺の体へと染みこんでいく。

 痛みが愛として互いの体を駆け巡る、そう表現するとサディスト・マゾヒストとみたいに取られてしまいそうだがどうしてもそれ以外の表現が思いつかない。ただいえるのはその愛が純粋なものというだけ。互いをただ好きな気持ちが体に痛みとして駆け巡っているのだ。

「お兄ちゃんの体…おいしいよ…」

 雪乃は俺から口を放してそうはにかんだ。口元には俺の首筋から漏れた血がつつぅと垂れて赤い線を引っ張っている。

「雪乃も、おいしいよ…今まで食べたどの時よりも…ずっとずっとおいしい…」

「えへへ…よかった…お兄ちゃんに喜んでもらえて…んくっ…痛っ…」

「大丈夫か、雪乃?」

「お兄ちゃん…キス…して…キスしてくれたら…頭ぼぉってなって痛いのが薄れると思うから…」

「わかった…」

 俺は雪乃の体と唇を交互に往復する。雪乃の体を食べては唇にキスを浴びせ、また体を食べる。そうすると雪乃は嬉しそうに笑うので、俺はさらに存分にキスの雨を降らせた。

 そして行為はエスカレートしていきついに俺は彼女の体自体も貪る。雪乃の女性としての温もり、これも何度も味わった感覚、けれど恋人になった今だからこそその行為に喜びを感じ、愛しさが湧き上がってくる。体を密着させてお互いの愛が肌の上をすべるのを楽しみながら俺たちはこの行為に酔いしれた。

 俺たち兄妹は愛の獣と成り果て互いを求めあい貪った。お互いの愛を飽和するまで求め合った。体は果てることなく雪乃のことを求める。今まで感じることができない愛を存分に貪るまで互いの行為は終わることはなかった。


「お兄ちゃん…どう?満足、した?」

「あぁ…超満足だ…雪乃は?」

「私も…苦しかったけど、今日のお兄ちゃんなんか優しかったから平気…それにお兄ちゃんの大好きって気持ちもいっぱい感じられて…気持ちよかったよ…」

「そっか」

 雪乃が復活し行為の余韻を楽しんでいる中、時計の針はついに残りのリミットが1時間であることを指した。俺の答えを出すまでもあと残り少しの時間しか残されていなかったが、もうその時間も必要ない。

 俺は、ついに覚悟を決めたからだ。あとは俺自身が決めた答えを雪乃にぶつけるだけだ。

「なぁ、雪乃…今日はクリスマスイブだしさ、ツリーでも見に行こうか」

「え?クリスマスツリー?あの商店街の?」

「あぁ。最後にさ、雪乃と一緒にツリーを見たいんだ」

 俺は彼女に自分の思いを伝える場所を決めていた。俺の運命の分岐点を告げられたあの場所で、俺は答えを出したかった。クリスマスの魔法に染まり損ねた世界に、俺の人生最大の問題の答えをプレゼントすると決めたのだ。


「カサンドラ!」

「はぁ…やっと来たね。遅いよ…ま、お楽しみだったんだし仕方ないか」

 世界の余命はもう残り30分を切った。けれどやはり世界はそんなことも知らずに今日ものんきに月に照らし出されている。ツリーの下にあるベンチに寝そべり星空を見ていたカサンドラはため息を吐く。その瞳には見上げていたキラキラとしたものが輝いて見えた。

「まぁ時間には間に合ったんだから不問にするけどさ。で、答えは決まったのかい?」

「あぁ…決めた…」

「そうか。ならあとはキミたちで勝手にやってくれ。ボクはただ見てるだけだからさ」

「それなんだけど、カサンドラ…最後の頼みを聞いてくれ…このツリー、点灯させてくれないか?」

「神様の使いをムードを出すためにこき使うとはね…はぁ…ま、ボクも意地悪じゃないからしてあげるよ。ホイ」

 静まり返った商店街に、カサンドラが指を鳴らす音だけが響いた。すると暗く染まっていたそこがまるで息を吹き返したように明かりを取り戻していく。放置されたツリーにも装飾が一瞬で施されて色とりどりの光を放ち俺たちを眩く照らし出す。さらには空から真っ白く輝く粒が落ちてきては俺たちの頬に当たりその熱でじんわりと溶けた。

「え?雪?どうして急に?」

「ま、ボクからのクリスマスプレゼントだと思ってくれよ。リクエストされた以上のムードを作るくらいにはボクは気前がいいんだよ」

 くりっとした瞳で可愛らしいウインクを浮かべると同時にカサンドラは愉快そうにステップを踏みどこかへ行ってしまう。きっと邪魔しないように遠くから見ているつもりだろう。そこまで気を使わなくてもいいのに、神様というやつはおせっかいにもほどがある。

「雪乃」

「うん、お兄ちゃん」

 俺は改めて雪乃と向かい合った。彼女の澄んだ瞳が俺の真剣な表情を降り落ちる雪とともに映す。キラキラの雪とネオンが映る雪乃の瞳も、どこかキラキラと濡れたように輝いていた。俺は大きく深呼吸する。息を吐き出した瞬間真っ白な息がぶわっと口から漏れて闇夜に消えた。

「雪乃…俺は…」

 ドクン、大きく心臓が高鳴る。それは今日一日ずっと感じていた恋のドキドキとは違う、覚悟を決めた緊張のドキドキだ。心臓がまるで鐘を打つように激しく脈動し俺の心につっかかった次の言葉を急かす。俺はもう一度大きく息を吸い込んで、吐きだす勢いとともに言葉をぶつけた。

「俺は、雪乃を殺す」

「お兄ちゃん…」

 俺の言葉を聞いた雪乃は嬉しそうに、けれど悲しそうに顔を歪めた。つつぅ、と少し引きつった彼女の頬に涙が伝う。それと同時に、俺の瞳からも熱いものがこぼれて地に落ちた。

「やっぱり…私を殺してくれるんだね」

「あぁ…確かに雪乃が言ったみたいにこれから生き残った方がもっと辛いって思った…雪乃のことをちゃんと愛せなくなるのが怖いって思った…それにこれ以上傷つけたくないって思った…けど、理由はそれだけじゃないんだ…」

 俺は一呼吸開けてこう付け加えた。

「俺は、雪乃に依存しすぎてたんだ…雪乃の優しさに甘えて、雪乃がくれる暖かい幸せをもらうだけで…結局雪乃のお願いなんてほとんど聞いたことなかった…俺もそろそろ妹離れしないといけないな、なんてさ…あ、でもこれだけは言っておくぞ?俺は別に雪乃が殺してって願ったから殺すっていうのが一番の理由ってわけじゃないからな?勘違いはするなよ?一番は愛せなくなるのが怖いからだからな?」

「わかってるよ…お兄ちゃんは精一杯考えて私を殺そうって決意してくれた…それだけでいいの…それにさ、お兄ちゃんも勘違いしてない?私だってお兄ちゃんに依存してた…優しいお兄ちゃんに甘えてたのは私、私もほとんどお兄ちゃんのお願いごと聞いたことないよ?」

 二人して顔を見合わせて、笑った。お互いがお互いの優しさに最後まで気づかないなんて、これは傑作だ。一番近しい存在のはずなのにお互いのことを全然わかっていないことに笑いが込み上げてくる。

「ふふ…私って…お兄ちゃんのこと全然わかってなかったね」

「あぁ、俺も雪乃のこと何もわかってなかったかもな」

 こんなことになるまで俺たちは互いを理解できなかったなんて、いや、こんなことになったからこそ互いの気持ちが、最後には知れたんだ。雪乃が思っていたことも俺が思っていたことも、二人の奥底にうずいていた恋心も、全部全部この状況が知らせてくれたんだ。そう考えると世界の終わりもなかなか悪くない、なんて思ったりした…。

「お兄ちゃん…ありがとね…私、幸せだったよ…お兄ちゃんの妹に生まれて、彼女になれて…」

 けれどお互いのことを知ったからといってこの決断が変わるわけもない。俺はこの先待ち構えるであろう負のスパイラルから妹を救い出さなければいけない。そのためにナイフを握りしめた。

「俺も幸せだった。妹に生まれてきてくれてありがとな…大好きだよ、雪乃…」

 手に持ったナイフが震える。いざこの瞬間を迎えると途端に決意が揺らぐ。本当にいいのか、と悪魔が脳内でささやき続ける。俺の答えを鈍らせるかのようなささやきを頭を振って取り払おうとするがそれはしつこくささやきをやめる気配もない。

 さらに視界も濡れて曇ってくる。目の前の雪乃が浮かべたニコニコとした顔がぐにゃりと歪む。この状況でも彼女は笑みを浮かべている。泣いている弱い俺とは正反対に彼女は別れなんてどうということはないというみたいに笑っている。

「お兄ちゃん…最後はさ、笑ってお別れしよ?私、笑った顔のお兄ちゃんが大好きなの…だから…ね?」

「雪乃…」

 どうやら雪乃の笑みは無理をして作ったもの。けれどそれでもただ子供のように泣きじゃくる俺とは比べ物にならないほどに強かった。俺がこんなに弱い姿を見せると恋人以前に、兄として失格だろう。無理に自分の心に鞭打って引きつる頬を釣り上げて見せた。

「ぷっ…お兄ちゃん何その顔…変な顔…」

 雪乃が、笑った。おかしそうに笑うその顔に、俺もつられて笑ってしまう。けれど互いのその頬には、雫の筋が通っている。

「あれ…おかしいな…笑ってるのに…涙、出てきちゃった…」

 悲しみがこもった熱い雫はぽろぽろと止めどなく頬を濡らす。無数の小さな悲しみには俺たちの引きつった笑顔が映る。

「お兄ちゃん…早く、殺して…これ以上は…つらいよ…」

 雪乃が懇願するような瞳を向けるが俺は動けない。まるで金縛りにあったみたいに全身が動かないのだ。動け、動けと体に銘じてどうにかナイフを構えた腕を胸元までもっていくことができたがその先がどうしても動かない。

(頼む…動け…動けよ、俺の体…あと一歩…あと一歩で、雪乃の体なんだよ…この一歩で、雪乃は解放されるのに…なんで動かないんだよぉ!)

 内心でどれだけ焦ってもやはり体は動かない。プルプルと空中でナイフが異常な振動を浮かべている。心の奥底にある何かが俺の決意を揺さぶっている。それは雪乃を忘れる恐怖か、それとも愛しの状かわからないが、俺の行動をためらわせるには十分すぎた。

「お兄ちゃんも、つらいんだね…そう、だよね…ずっと一緒にいた妹だもん、殺せるわけ、ないよね…いいよ、お兄ちゃん…私に、任せて…」

 感情が全く読み取れない声音でそんなことを言った雪乃は、一歩体を前に進めた。つぷっ、雪乃の柔らかい体に刃の先端が突き刺さった。

「やめろ…」

 ぐにゅり、さらに一歩、雪乃が前進する。彼女の純白のコートに赤い染みが広がっていく。

「やめてくれ…」

 ぐにゅ…ぶしゅっ…彼女を食べるときに聞く聞きなれた音がやけに大きく耳を劈く。目の前の彼女の体が奏でる音が、耳元近くで聞こえるようだ。コートに広がった血の海はやがて地面にもポツリポツリと水たまりを作っていく。痛々しい傷口、けれど雪乃は笑顔で俺との距離を詰めてくる。

「やめてくれよ、雪乃…」

 今更になって雪乃を殺したくないという感情がせり上がって脳内を支配した。けれど時すでに遅し、雪乃の体にはもう半分以上刃が飲み込まれていた。

「お兄ちゃん…最後は、お兄ちゃんが決めて…分かるよね?えぐるようにナイフを引き抜くの…けほっ!」

 口元から零れる血にむせる雪乃、苦しそうに息をする彼女を楽にするのが、今の俺に与えられた使命だ。もう肌は雪の冷たさも雪乃の体から熱が消えていくのを感じている余裕もなかった。ただあるのはナイフに伝わる雪乃の命の音、心臓の鼓動がナイフを通じて俺の手に伝わっているのだ。ドクン、ドクンという命のリズムが俺の手の内で不思議な音楽を奏でる。歪で気持ち悪く、神秘的なその音楽、彼女の最後に奏でるリズムが俺の手に染みこんでいく。

「お兄ちゃん…早く…して…これ以上…痛いの…ガマン、できないよ…」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 俺は叫んだ。それと同時にぐにゅり、と彼女の体に大きくナイフを突き立てて、まるで鍵を閉めるようにぐいっとえぐった。予想以上に柔らかい肉の感触が歪にも俺の手に伝わる。そして力任せにそれを引き抜いた。ぐちゃり、と嫌な肉の音が響いたと同時に彼女のぽっかりと空いた胸元からまるでシャワーのように血の雨が降り注いだ。血のシャワーは嫌というほど彼女との行為の時に浴びたけれど、この血の雨は違う。彼女の本当の命が、噴き出しているのだ。

「あり…が…と…おに…い…ちゃん…」

「雪乃!」

 口元から血がだらりとこぼれたかと思うとその瞬間、ぐらりと力なく倒れる雪乃を何とか抱きかかえた。まだまだ小さくて軽い体が今は余計に軽く感じた。

「お兄…ちゃん…頑張った…ね…えらい、よ…げほげほっ!」

 力ない雪乃の手が伸び俺の頬を撫でた。べったりと温かな血が付着するが既に血の雨を浴びた俺にはもはやこれ以上赤に染まるのを気にすることもない。

「お兄ちゃん…ポケット…見て…」

「ポケット?ポケットがどうしたんだ?」

 雪乃の逆の手が自身のコートのポケットを指す。どうやらその中に何か入っているようで俺に取り出してほしいみたいだ。ガサゴソといじると何か小さくて硬いものが見つかる。

「なんだこれ?ストラップか?」

「うん…お兄ちゃんに…ぷれ、ぜんと…遊園地で…かはっ…えらん…だ…の…」

「もしかして、トイレに行っている時か?」

 こくり、と彼女はうなずいた。俺は改めてそのストラップを見る。青色のしずく型のストラップが彼女の血でべったりと汚れている。けれどそれでも俺は嬉しかった。たとえ世界がリセットされると無くなってしまうけれども、雪乃が俺に最後にくれたものだから。雪乃が俺のために選んでくれた、人生で一番嬉しい最後のクリスマスプレゼントなのだから。

「雪乃…ありがとな…大事にする…」

「げほげほっ…お兄…ちゃん…最後…に…キス、して…」

 雪乃は最後にキスをせがんだ。血がべったりとついた口元をぬぐってやるといつも通り可愛らしく瑞々しい唇が浮かび上がった。けれどいつもとは違う紫色に心が痛む。そんな紫色でも愛らしく魅惑的なそこが俺を求めてかすかに動く。これが雪乃との最後のキスになるのかと思うと悔しくて残念でたまらない。けれどこれは俺が選んだ結果なのだ。俺が選んだ答えなのだ。いまさら悲しいとか感じることはない、最後は幸せに幕を閉じようじゃないか。そう、胸に決めた。

「雪乃…愛してる…お休み…バイバイ…」

「私…も…あい…して…る…ばい…ばい…」


 最後の口づけを交わした瞬間、時計の針はちょうど真上で重なった。ツリーの色とりどりの明かりが、きれいな冬の星空が、空に大きく浮かぶ月が、すべてすべて歪んでいく。それは俺の目の前の彼女も、ましてや俺自身も同様で、世界がすべてすべて歪んでいく。何もかもが幻影のように消えていき、世界が再構築される。

 ―雪乃、俺はお前を、忘れたくない―

「ダメだよ。キミはすべてを忘れて何もなかった世界に生きる」

 ―ひょんなことで思い出したりは?―

「そんな都合のいいこと起こるわけないよ」

 ―だよな―

「でももしかしたら…可能性が…いや、そんなことはありえないな。高望みさせるのも悪いだろうしね。あ、高望みしたとしても次に目覚めれば全部忘れちゃうか」

 脳内に響くこの意地悪そうな声はいったい誰のものだっけ?再構築されていく世界をぼんやりと覗きながら俺は白濁とする思考に意識を預けた。そういえば、さっき俺は誰のことを忘れないって思ったんだっけ?世界に次第に色が、音が、命が、戻っていく。時計の針が逆回りに勢いよく回り世界が閃光に包まれた。その先の世界を見る前に、俺の意識は完全に黒に染まった。意識だけじゃない、意地悪な誰かの存在も、俺が悩み続けた空腹も、誰だか覚えていないが人を愛した心も、すべてすべて真っ黒な何かに塗りつぶされて跡形もなく消え去った。

 世界は終幕をなかったことにしてもう一度動き始めた。ただいつも通り不変に―

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