第2話彼の者の名はカサンドラ

 世界が終わり一週間以上が経過した今日12月23日。相変わらず世界には俺たち兄妹以外存在しない。SNSやネット掲示板も漁ってみたが例のXデー以降の投稿は皆無だ。生存者を探して歩き回ったが結局成果もなく今日が訪れる。普通なら天皇誕生日ということで休みだがその祝う相手ももうこの世にはいない。けれど今日祝われるのは何も天皇様だけではない。

「お兄ちゃん!お誕生日おめでとう!」

 そう、俺も12月23日生まれ、というわけで今日は水瀬夏樹誕生日だ。この日を祝福してくれるのは今や妹一人、だけど彼女のお祝いだけで俺の心は十分に満たされる。愛しい彼女の祝福は世界人類皆からの祝福よりも重い価値が俺にはあるのだ。

「はい、これプレゼント!お兄ちゃん何が欲しいかわからなかったから気にいるかどうかわかんないけど…よかったら使ってよ!」

 目覚め早々から渡された誕生日プレゼント、丁寧にラッピングされたそれを破り開けると手袋が入っていた。黒を基調として白のラインが入ったメンズ物の手袋、俺はさっそくそれを手にはめた。

「お、あったかいな。それになかなか俺好みのデザイン…これならどんなに寒い日でも大丈夫だよ」

「えへへ。お兄ちゃんが気に入ってくれてよかった。安心したよ」

 雪乃がにぱぁと笑みをこぼす。その嬉しそうな笑みに俺もつられて笑顔になる。

「さ、お兄ちゃん!それじゃお外に行こうか」

「え?外?なんでだ?」

「だってね…」

 妹は一呼吸おいて、部屋のカーテンを開いた。そして窓の外の光景を指差した。眩しい光に目を細め一拍遅れて俺は外を眺めた。

「こんなに雪が積もったんだから!遊びに行かないと損だよ!」

 昨夜遅くからこの街に降った初めての雪、それは朝まで降り続き今や辺り一面銀世界になるほどに積もっていた。道路も、屋根も、乗り捨てられた自転車にも真白な装飾が施されている。それが太陽の光を跳ね返してキラキラと目が眩むほどの輝きを放ちつい目を細めた。

「いや、でも…寒いしなぁ…こんな寒い日はこたつで丸まっておこうぜ?ほら、よく言うだろ、猫はこたつで丸くなるって。猫派の俺はこたつで丸まっておくのが一番だよ」

「でも犬は喜び庭駆けまわるっていうよ?私犬派だしお外行こうよ!」

「でもやっぱり寒いのは嫌だしさぁ…」

「お兄ちゃんそれつけてたらどんな寒い日でも大丈夫ってさっき言わなかった?」

「あ…」

 ついノリで言ってしまった手袋の感想に俺はしまったと思う。ああいうのは言葉のあやというかなんというかなんだが…仕方ない。言ってしまったものはもう取り消せないのだし、それに久々の積雪だ、誰も見ている人間はいないんだし少しくらい童心に帰って羽目を外してもいいか。

「わかったよ。着替えるからちょっと待ってろよ」

「うん!」

 というわけで俺は外に出た。さっき妹からもらった手袋も、この前の誕生日にもらったマフラーも忘れずに出かける。雪乃の愛情こもったプレゼントのおかげか寒さはあまり苦にはならなかった。

「もう!遅いよお兄ちゃん!」

 あったかそうな白いコートに紺のスカート、さらに俺とおそろいの赤のマフラーが彼女の可愛らしさを余計に引き立てる。雪の中に彼女の金色の髪が眩しいくらいに映えて俺の目に映った。

「それじゃお兄ちゃん!いっぱい遊ぼうね!まずは何する?雪合戦?それとも雪だるま作る?あ!かまくらとかどう?」

「さすがにかまくらは無理だろ…ま、ここは無難に…おりゃ!雪合戦かな!」

 足元の雪を丸めて雪乃にふんわりと投げつける。彼女の体に着弾した雪玉は弾けて白のパウダーコーティングを施す。

「キャッ!冷たい…!もぅ…不意打ちはずるだよ!」

「ははは!勝てばよかろうなのだぁ!」

 俺はさらに雪玉を投げつける。雪乃が冷たそうに顔をしかめる。けれど雪乃はそれに怯まずにポンポンと俺に雪玉を投げつけてくる。

「えい!えい!どうだお兄ちゃん!」

「うわっ!さすがだ雪乃!でもこれはどうかな?」

「むむ…お兄ちゃんなかなかにやるね…でも私もまだまだ頑張るよ!」

 真っ白な世界に響く俺たちの楽しそうな声、それは静寂で冷たく染まる街に暖かさを染み渡らせていた。


 太陽がちょうど真上に昇っても俺たちはまるで童心に戻ったように遊んでいた。街全てが俺たちの遊び場だ。誰も咎めるものがない街中で雪玉を投げあったり雪だるまを量産したり、外は寒かったが俺たちの体と心はぽかぽかと暖かくなっていた。

「ふぅ…いっぱい遊んだな、雪乃」

「うん…さすがに…くたくた…しかも手が真っ赤…」

 雪の冷たさに手はもう赤く染まっていた。さすがに手袋越しでも冷たさは染みわたるもので、指先はかじかみもう感覚が死にかけている。

「こういう日はあったかい肉まんとか、食べたいなぁ…」

「肉まん、か…コンビニが空いてたらいいんだけど…在庫いじればあるかな?」

 というわけで近くのコンビニを物色、ちょうど冷蔵庫にまだ期限が大丈夫な肉まんを発見、電気も生きていたので蒸し器でそれを作る。世界が終わってもコンピュータでオート制御された電気はまだ各所に送られている。けれどそれもいつまで続くのか、いずれ世界からは電気がなくなり俺たちもいなくなる。そうなれば地球はこの後どうなってしまうのだろうか?また太古からやり直しか、それとももう生命と呼べるものは生まれないのか、そんな答えのない妄想を蒸し上がるまでの約30分ぼぉっと考えていた。

「そろそろ大丈夫かな…あちち。気を付けて食えよ?」

「ありがとお兄ちゃん!はむ…うん!美味しい!」

 雪乃は出来上がった肉まんに大きく口を開けてかぶりついた。美味しいものを食べると自然に笑顔が出るといったのは誰だったか、今の雪乃も最高に幸せそうな笑顔を浮かべている。

「あれ?お兄ちゃんはカレーまんなんだ」

「このスパイシーな感じが寒さに冷えた体をあっためてくれるんだよ」

 俺もカレーまんをほおばり自然と笑みが浮くのが分かった。じゅわっとした温かさが全身に染み渡り冷えた体をぽかぽかと温めてくれる。これにホットコーヒーがあれば完璧なんだが、贅沢はできないな。

「カレーもおいしそうだなぁ…お兄ちゃん、ちょっとちょうだい!私のもあげるから!」

「ん?いいぞ、ほら」

「あ~む…うん!ピリ辛でおいしい!お兄ちゃんの言った通りなんだか体がポカポカしてきたかも…それじゃお兄ちゃんも…あ~ん」

「うん、ノーマルもなかなか…」

 あれ?結構普通に食べてしまったが、これって間接キスなんじゃないか?口の中で租借しながらふと思い頬が熱くなる。毎夜ごとにもっと恥ずかしいことをしているはずなのに、間接キスくらいでもドキドキとしてしまう。やっぱり俺はどうしようもなく雪乃が好きなんだな、と白いと息をこぼしながら俺は思う。どうしようもなく愛おしくてどうしようもなく好きで、そんな彼女と二人きりで過ごせる今がずっと続けばいい、なんてガラにもないことを思ったりしてしまった。俺は心のどこかではこの終わった世界を喜んでしまっているのかもしれない。

「雪乃…」

 ぽつり、俺は愛しの少女の名を呼んだ。彼女は何も知らない無垢な笑顔を俺に向ける。直視できないほどに眩しく可愛らしい笑みに、俺はどう返していいかわからず頬を染めてそっぽを向くしかできなかった。昼過ぎの太陽の下、ドキドキした俺と無邪気な彼女、二人だけの不思議な時間がゆっくりと過ぎていった。


「ふぅ…いっぱい遊んだし帰ってお昼寝でもしようかな?あ、そうだ、お兄ちゃんの誕生日特性ディナー作らないと…でも缶詰とかでどうやって作ろう…?」

「いや、別にそんな豪勢なものはいいぞ?いつもどおりが一番だ」

「でもお誕生日は特別な日だよ?おいしいもの食べなくちゃ」

 家路につく最中そんなことを話しているとふと雪乃が歩を止めた。彼女はある一点をじっと見つめている。何だろうと思い俺もそこを見たがただの交差点だ。何も特別なものはないはずだ。

「お兄ちゃん、あれ…」

 雪乃がその交差点を指差すがやはり俺には何を示しているかわからず首をかしげるしかなかった。

「お兄ちゃんわからないの?あれだよ、あれ。あそこの地面、足跡がついてる」

「足跡?…あぁ、そうだな。でもそれがどうした?」

 確かにその交差点には足跡がついている。ちょうど商店街へ向かう方向に沿ってだ。けれどそれがどうしたというのだろう。

「今日私たちあそこ通った?」

「ん?いや、通ってないな…」

 俺はそこでやっと雪乃の言いたいことが分かった。それはこの世界ではありえないと思っていたもので、それでも俺が願っていたことだった。

「まさか…誰か、いるのか?」

「うん…絶対誰かいる…あとを辿ってみようか」

「あぁ、そうだな」


 足跡をたどっていき一つ分かったことがある。この足跡の持ち主は子供だ。雪乃の足よりも小さいことからそれが分かる。けれどどうして子供が、しかも今まで全くの音沙汰もなく生き残っているのか、それが不可解でたまらない。だがどれだけ頭で考えようと所詮は推測にすぎないわけだ。今はそんな余計な詮索を捨てただ走るしかない。この先に答えが待っているのだから。

「お兄ちゃん!あれ!」

 商店街のど真ん中に立つシンボルといってもいいほどの大きな木、クリスマスムードを中途半端に纏ったその木の下に、一人の子供がいた。子供はなぜか傘をさしておりこちらに背を向けているので大体の身長しかわからないがきっと小学校高学年くらいだろう。長靴に裾の長いロングコートが傘で隠れていない部分から覗いている。

「はぁはぁ…君は…誰だ?」

 精一杯走ったから息が上がっている。はぁはぁと荒い息をこぼしながらも俺は謎の子供に尋ねた。

「ボクのことかな?」

 男のようでもあり女のようでもある不思議な声音をこぼして子供はこちらへ振り向いた。その顔つきも男のようでもあり女のようでもある、中性的という表現も似合わない、そんな不思議な顔つきの子供だった。くりっとした瞳にふっくらとした頬、無邪気に笑う口元、少し短めのさらっとした栗色の髪、それは明らかに子供っぽいと分かるが、けれどみようによっては大人のような印象も与えられる。さらにこちらに向けられた笑みは天使のようにやさしげで穏やかなのに悪魔のように意地悪く感じる。

「もう一度聞くよ。それはボクのことかな?」

 まるで太陽のように温かみのある、けれど無機質で氷のように冷たい声音が俺たちの耳を震わせる。この謎の子供は、この世の表と裏、すべての事象を持ち合わせているように思われた。男であり女、子供であり大人、天使であり悪魔、そうだな、サイコロでいうと1と6,2と5,3と4の面を同時に兼ね備えた7のような存在、俺はこの子供からそう感じた。この7の子供は俺たちの次の言葉を寛容に、それでいて急かすような微妙な雰囲気を漂わせて待っている。

「あ、あぁ…君のことだ。君は、誰だ?どうしてここにいる?」

「そんなに一度に質問しないでくれよ。それにキミたちが聞きたいことなら全部ボクが話そうと思っていたことだしね」

 大人びているようで子供っぽい話し方で、ほんとのことを言っているようでもあり嘘をついているようでもある声音で子供は言った。そこでいったん俺たちを値踏みするように眺めるとコホンと咳をこぼして次の言葉を放った。

「まずはボクの名前を明かさなくちゃね。ボクは…カサンドラだよ」

「何…!?カサンドラ…だと…?」

 カサンドラ、それはあの終末の予言を投稿した者のハンドルネームだ。雪乃はそのことを知らなかったから何とも言えない顔をしているが俺は驚きで喉を詰まらせそうになった。今目の前にいるこのよくわからないやつがカサンドラなんて信じられるわけもなかった。

「ま、キミたちが神話に描いたカサンドラとは別人だっていうことは言わなくてもわかるよね?ボクはただ彼女の名前を借りてただ世界崩壊の時を告げただけ」

「お前…何を言っている?」

「ま、そのことはおいおいわかることさ。さて、話を続けようか」

「黙れ!はぐらかすな!お前のせいで…お前のせいで世界が滅んだんだぞ!それなのにそんなふざけた言い方で、しかもあっけらかんとして!」

 カサンドラの無表情な訳の分からない言葉に俺は怒りの声をあげた。こいつがすべての元凶だというのにこんなふざけた態度なのが我慢ならなかった。

「キミは何か勘違いをしているんじゃないか?」

「え…?」

「キミの言い方だとボクがすべての元凶みたいじゃないか。ボクはただキミたちに教えただけさ、世界が終わる日を」

「は…?」

「まぁ落ち着いて話を聞いてくれよ。言っただろ?ボクはキミたちの知りたいすべての話をするって」

「そうだよお兄ちゃん、今は落ち着いて…」

「あ、あぁ…」

 つい感情的になってしまった頭をどうにか落ち着けてカサンドラの話を促す。

「まずはボクのことから話そうか。キミたちの言葉を借りるならボクは神の使い、とでもいうところかな」

「神の…使い?いや、まったくもって意味が分からないんだが…」

「お兄ちゃん」

「あ、ごめん…続けて」

 雪乃の今は黙ってという視線につい怯んでしまう。彼女も聞きたいことがあるのだろうが今はただカサンドラの話を促すしかできないようだ。

「ボクは神が決めた世界の終わりの日を知らせるためにやってきたんだよ。そう、12月11日、ボクが予言を投稿した日だ。けどキミたちはほんと信じないな、そういうのを。わざわざボクが知らせてやったというのに嘘乙とか軽い言葉であしらって…あの屈辱は忘れられないよ」

 ぶつぶつと私怨をたらたらと流すカサンドラについ言葉を出してしまう。

「どうして神様は…世界を終わらせると決めたんだ?」

「あぁ、ごめんごめん、話が脱線したね。えっとそのことなんだけど…キミたち人類の行き過ぎた進化を抑制するためだ。進化は繁栄と同時に破滅を生むからね」

「…例えば?」

「環境汚染や地球を焦土と化すことのできるほどの威力を持った核の開発、そんな科学の進化なんかが一番わかりやすいかな。ま、ほかにも人間の思考自体が進化して宗教や互いの利権のために争ったりとかもあるけど、それを取り返しがつかなくなる前に抑えるのが神様の仕事ってわけだ」

 カサンドラの言っていることが理解できるようなできないような、話が突飛すぎてうまく思考がまとまらない。

「まぁ簡単に言えば世界を水の入ったグラスと仮定しよう。そのグラスは人間が進化すればするほど亀裂が入る。そしてある程度亀裂が入るとそれは割れて中の水がこぼれる、それがキミたち人間が起こす取り返しのつかないなれの果て。そうなる前に神様は新しいグラスを用意してそこに水を移し替える。これでわかるかな?」

「要するに俺たちが何か間違いをしでかす前に一度リセットしようっていうわけか?」

「そう、そういうことさ」

「じゃあ俺たち人間が間違いを起こすのが…例のXデーだったと?」

「いいや、違う。その日は神が適当に決めた日だよ。神様だって未来を見れるわけじゃないからね。ただ人間の進化が危なくなりそうな期間の適当な日を選んだだけさ。それに神様って言ってもものぐさが多くてね…確かこの日はルーレットかなにかで10秒も満たない間に決めたって言ってたかな…?」

「は?」

 もしかしてこの世界が終わったあの日は、神様が適当に、それもお遊び感覚で決めたってことか?あまりにもおふざけが過ぎたそれに呆れにも怒りにも似たため息が漏れた。

「ま、いずれにしてもキミたち人間は近い未来には取り返しがつかないことを起こす。それまでに一度リセットする必要があったのさ」

「ふ~ん…」

 ちんぷんかんぷんだとでも言いたげな雪乃が適当な返事を返す。俺も正直信じられないし何が何だかわからないが、どうしても今この現状がその言葉の真実味を増している。世界が終わり静寂に包まれた街がカサンドラの言葉を裏付ける証拠でもあった。

「いや、待てよ。世界が終わるって言ってもさ、俺たちは生きてる。完全に世界を終わらせるには人間を全員消さないといけないんじゃないのか?」

「あぁ、それはね…キミたち、いや、キミが特異点だからだよ、水瀬雪乃」

「え?私!?」

 今までぼぉっとまるで興味がない話を永遠と聞かされているときみたいな顔で聞いていた雪乃だがふと名前を出されて困惑の顔を浮かべる。

「特異点って…なんだよ?」

「人間がすべて滅亡すれば文字通り世界の終わりだ。だけどボクたちが求めているのは完全な世界の終わりではなくただのリセットだ。だから子孫を残すために一組の愛し合った男女が、キミたちの言葉を借りればアダムとイブになりえる存在が必要になる。そして彼女は数多の女性の中から特異点イブに選ばれた」

「どうして、雪乃なんだ?ほかにも世界には何億という女がいるだろう?」

「それは彼女がアダムの異常な寵愛に値する人間だから、いや、違うか、彼女が異常なまでの恋の罪人だからさ」

 言っていることが分からない。一体カサンドラは何を言いたいのだろうか?

「要するに世界で一番罪深い愛を受けた人間がイブに選ばれる。そう、水瀬夏樹、キミが抱いた恋心のせいで雪乃は特異点となったんだ。通常人間には生まれ得ない禁断の愛のせいでね」

「まさか…俺が雪乃を好きになったから…」

 妹のことを好きになってしまったから、彼女は特異点として生き残ってしまったというのか?それは、俺のせいだというのか…

「イブに選ばれた人間は不死、いや、正確に言えば超再生能力を授けられる。アダムと子を成すため、子孫を残すためだけに通常の人間よりも長い間生きてもらうことになるからね」

「じゃあ、雪乃が俺に食われても死ななかったのは…そのおかげっていうことか?」

「そう。それにキミが彼女を食べてしまったのも特異点としての性だ。特異点は独特のフェロモンとでもいうべきものを出しパートナーとなるアダムの底に眠る獣の食欲を引っ張り出して自身の肉体を差し出す。不死の肉体を食したことによりアダムにも不死に似た力を与えるためにね」

「まさか…そんな…」

 俺が感じた、いや、今も感じている雪乃を食べたいという感情は、雪乃自身のせい。あの食欲が、人類を残すために仕組まれたプログラム的食欲だったなんて、俺はその事実に背筋が凍るのを感じた。俺たちだけの誰にも侵されることのないあの神聖な時間が、神に仕組まれていたもので、どうにもやり切れない感情を覚える。

「それじゃあ今の俺も…不死、なのか?」

「あぁ。例えば今キミがここで手首を掻き切ったとしてもすぐに跡形もなく治るだろうさ。まぁ今この世界で消えていないということを見ればそんなことする必要もないけれどね。だけどオリジナルと比べると回復力は低いし定期的にイブの肉体を食べていないとその不死性も無くなる。その分不便だけれどね」

 そして今俺がこの場にいるのも、神の仕組んだ特異点によるもの。すべてが神の手のひらの上で転がされているのだ。俺が感じた恋心も、雪乃が俺に見せた優しさも、すべてすべて、神のプログラムなのだ。それがどうしてもやるせない。

「例えば、もし世界が終わる日までに俺が雪乃を食べなかったら…」

「あの日を境にキミの存在が消滅していた」

「やっぱり…でもそれだと人類が完全に滅亡するぞ?雪乃だけが生き残っても子供なんてできないだろ」

 俺がそう聞くとカサンドラはニヤリと笑う。まるで待ってましたと言わんばかりだ。

「その場合特異点を殺して時間を巻き戻し、別の特異点を作る」

「特異点を殺す?確か特異点は不死に近い能力があるから死なないんじゃ?それに時間を巻き戻すってどういうことだよ?」

「特異点の能力は一つじゃない。自身の死によって時間を巻き戻す、それがもう一つの特異点の力。特異点の力を過去の別の人間に与えてまた時をやり直す力が彼女には備わっているんだよ。リセットが成功するまでそれは永遠に続く」

「そんな便利能力があるなら神様がそれを使えばいいんじゃないか?全知全能なんだろ、神様って」

「いくら神様でもそれはできない。神様だって、それにボクだって時間は一方通行にしか動かない。ただ特異点だけが時間の流れに逆らえるんだよ」

 確かに神様がそんな力を使えるならこんな面倒なプログラムを構築しないで済む。普段の俺ならきっとそのことに気付いていたんだろうがこんなごちゃごちゃと混戦した頭の今じゃ正しい判断も生まれない。

「そしてこの力はアダムに残された最後のチャンスでもある。時を巻き戻して世界が滅びる前の平凡な日常を手に入れるね」

「いや、でも元に戻ったとしてもまた世界は滅びるんだろ?全然チャンスでも何でもないんじゃないか?」

 たとえ俺が平凡な日常に戻ったとしても世界は神によってリセットされる。それは決定事項でたとえ時が巻き戻っても俺がその輪廻から外されるわけでもなさそうだ。

「それなら安心してくれ。時が巻き戻れば世界滅亡のリミットはまたランダムに選ばれる。つまりこの世界では12月15日だったけれど巻き戻った後の世界ではXデーがその次の日になったりそれより前倒しになったり、はたまた10年、いや、100年先になるかもしれない」

「そんなアバウトな…」

 つまり一種の賭けってことになるわけだな。どう転ぶかは神様次第、結局やり直しても神様の手のひらの上で転がされるというわけか。

「まぁこれは神の戯れと考えてくれていいよ。日常を取るか愛を取るか…人間の選択に神様も興味津々なんだよ」

「一つ聞いていい、カサンドラ?」

 と、今まで無言を貫いていた雪乃が突然声をあげた。あまりにも突然なことにぎょっとして俺は雪乃を見る。

「例えばもし私が死んで時間が巻き戻った場合、私はどうなるの?今まで話してくれたのって全部お兄ちゃんにとってのメリットデメリットだよね?私についてのことが一つもないんだけど…」

「言っただろ?日常を取るか、愛を取るか、これは究極の二択だ。もし雪乃が死んで時間が巻き戻った日常には、キミの存在自体がなかったことになっている。もちろんキミに関する記憶も一切合切誰にも残らない、それがたとえアダムに選ばれた夏樹であってもね。だから日常に戻った夏樹がキミに抱いていた恋心もすべてなかったことになる。これがこの選択の意味だよ」

「そんなのってないだろ…」

 雪乃より前に俺がたまらず声をあげていた。雪乃がいた記憶もこの恋心もすべてなくなる、そんなのって残酷すぎるじゃないか。

「そしてこれが…不死に近い肉体を持った雪乃を殺せるモノだ」

 カサンドラが空中に手を伸ばしてその手を握りしめる。すると何もなかったそこに一振りの血にも似た赤色をしたナイフが現れた。調理に使うようなごくオーソドックスなサイズのそれは刀身の赤のせいで禍々しい印象を俺に与えた。

「これだけが特異点を殺せるんだ。さぁ、どうする?キミは愛を取る?それとも日常を取るかい?」

 にやり、と悪魔的な笑みを浮かべたカサンドラは俺の手にナイフを握らせた。刀身の禍々しさとは予想外な羽のように軽いそのナイフに驚き落としそうになってしまう。

「俺は…雪乃を…殺せるわけがない…俺は雪乃が大好きなんだ…だから雪乃と一緒に…」

 雪乃と一緒に生きていく、そう言おうとした瞬間その言葉を鋭い言葉が遮った。まるでナイフのようなその言葉に零れかけた言葉は切り裂かれる。

「ダメ。お兄ちゃん、私を殺して」

 いつもの雪乃のものじゃない冷酷な声が、俺の鼓膜を振動させる。あまりにも冷たく冷淡に言い放たれた言葉に俺は凍り付くしかできなかった。冬の鋭さを孕む冷風を目としないほどのその冷たさに心までも凍てついてしまう。

「確かにお兄ちゃんは私と一緒にいたいかもしれない…けど、私はお兄ちゃんに幸せになってもらいたいの…私のことをずっと可愛がってくれた優しいお兄ちゃんは絶対に幸せにならなくちゃいけない…私といたら辛いことしか待ってないよ?」

「そんなことない!」

「ううん!絶対につらいよ…?食糧だって飲み水だっていつまで持つかわからない。それに病気になったらどうするの?風邪薬飲んだら治る軽いのならいいけど…もし重い病気にかかったら私治せないんだよ?それにケガしてもお医者さんがいないから直せない。そしたら絶対苦しいよ?いくらお兄ちゃんが不死の力を分け与えられてるからっていっても痛くないわけじゃない…きっと死んじゃう時もある…それにお兄ちゃんは知らないんだよ、死ぬ時の怖さ…テレビのスイッチを切るみたいにふっと目の前が真っ暗になって全身が凍えるくらいに寒くなって、いずれその寒さも感じなくなるほどに脳がくちゃくちゃになって…最後には自分が誰かもわからなくなって、死にたくないって思いながら全部が黒く染まる…私、お兄ちゃんにそんな苦しいことを何度も続けてほしくない…」

「雪乃…」

 俺に毎夜ごとに殺されている雪乃だからこそ知ったその感覚、俺なんかが到底想像できない痛みや苦しみを彼女は知っている。そしてその感情は俺が生き続けている限り遮断することができない。なにせ俺の中に生まれたこの獣の食欲を抑えるなんてできないから。今だって雪乃があんなに苦しそうな告白をしたにもかかわらず腹の中の獣は彼女の肉を引きちぎれ、血をすすれ、内臓を貪れと暴れているのだから。

「それにさ、私を殺せばお兄ちゃんは私のことを忘れられる…私がいた記憶も、私が好きだった記憶も残らない。お兄ちゃんは何も苦しまなくて済むんだよ?いつもみたいに友達と楽しく過ごす日常が戻ってくる…そんな羨ましいくらいの生活が戻ってくるんだよ!」

 いつの間にか涙を流していた雪乃の言葉に俺はハッとした。俺には日常に戻る救いがあるのに、雪乃には全く救いがないのだ。俺とともに生き残っても食べられる苦しみが、殺されても誰の記憶にも生きた証が残らない。そんな無残なほどに理不尽な選択を強いられているのだ。

「なぁカサンドラ…俺が死ねば、どうなるんだ?このナイフなら、俺も死ねるんだろ?」

 けれどカサンドラがあっけらかんとして言い放った言葉はどこまでも残酷で救いようがなかった。

「確かにキミはそのナイフで自分を殺せる。けれどそのあとボクが雪乃を殺す。時が巻き戻った世界でいなくなるのは特異点だけだからキミは何食わぬ顔で日常を過ごせるっていうわけだ。最悪の選択から逃げたことも、雪乃を愛したということも知らずにね。もしかしてキミが死ねば雪乃が助かる、なんて思ったわけないよね?アハハ!」

 カサンドラの幼稚な、それでいて下卑た笑い声が沈んだ心に重くのしかかる。もしかして、と思った憶測も敗れ去り俺はどうしようもなく八方ふさがりになってしまう。

「お兄ちゃん…私を、殺してよ…」

「俺は、どうしたらいいんだよ…」

「あ、別に今決めなくてもいいんだよ?まだ世界には1日猶予が残ってるからね」

 と、付け加えるように言うカサンドラ。今の俺の精神状態では尋ねるのも面倒だったが、やはり話を聞かないわけにはいかない。

「それってどういうことだよ?」

「12月24日から25日になった瞬間、今ある世界の文明はリセットされる。簡単に言えばビルやら工場やら人間が作ったものはその日を境に無くなるっていうわけだよ、痕に残るのは木々が生い茂る大地ときれいな海とキミたちだけだ。ちなみに文明のリセットが始まってしまうとこのナイフも消えてしまう。つまりそれまでに決めないと時間を巻き戻せないというわけさ。ボクがやってきたのもキミたちにリミットを教えるためだったんだ」

「…そうか」

「あ、そうだ。文明がリセットされたら電気もなくなるし浄水された水もなくなる、それに冷蔵庫もないから食料の保存もできない。ちなみに飢えとかじゃキミたちの体は死ねないからずっと苦しいのが続くよ?もしかしたら自我がなくなっちゃうかもしれないね」

「…そうか」

 意地悪な笑みで余計なことを言ったカサンドラに反論もできないほどに俺の心は憔悴してしまっていた。雪乃を殺し何も知らない平凡な日常を過ごすか、それとも雪乃が苦しんでいるのを知りながら共に生きるか、どちらを選ぶにしろ猶予はあと1日しかない。

「ボクはずっとここにいるから。何か聞きたいことがあったらボクのところまで来てくれよ。あ、ナイフはキミに預けておくよ。キミたちの選択に、幸あれ」

 カサンドラのその言葉を背に聞きながら俺たちは重い足を引きずるように家路につく。慣れ親しんだ家までの道のり、それがやけに遠く感じたのは気のせいではないだろう。

 俺は明日までに答えを出せるのだろうか。結局その日は雪の白さに目を細めた事も愛らしい雪乃の姿も、雪乃との間接キスでドキドキしたことも忘れてしまうほどに疲れ切ってしまったというのだけは確かだった。


「どうしたのお兄ちゃん?もしかして、また私を食べたくなっちゃったの?…うん、いいよ。ガマンなんてしなくていいからね…私のことなんて気にせず、いっぱい食べて…」

 お兄ちゃんはその日の夜も、私のことを食べる。あんな話を聞いてでもお兄ちゃんの空腹は抑えられなかったようで、普段通り美味しそうに私の肉を、骨を、臓物を、貪っていく。私の叫び声も、むせかえるような血と臓物のにおいも、私の体に襲い掛かる痛みも、死の感覚も、普段通り。たとえカサンドラと名乗った不思議な子供が世界の種明かしをしたってそれだけは不変だった。

だけど昨日と変わったことが一つある。それは、お兄ちゃんの涙だ。お兄ちゃんは私を食べながら、その頬に涙を伝わせていたのだ。悲しそうに、まるで私の痛みを推し量るように、涙を流していた。

「お兄…ちゃん…なか…ない…で…」

 辛そうなお兄ちゃんの涙を見ていられなくなった私はだんだんと死に陥っていく意識の中必死に手を伸ばす。腕のお肉が噛み千切られて形容しがたい痛みが私を襲うがそれでも私は手を伸ばした。お兄ちゃんの涙をぬぐうために。

 ようやく伸ばした手の平で、お兄ちゃんの頬を撫でた。お兄ちゃんの頬には温かな悲しみの代わりに私の命がべったりと張り付く。

「お兄…ちゃ…ん…」

「雪乃…」

 お兄ちゃんの瞳からはだくだくと涙があふれて私の冷たくなっていく手を濡らす。その涙は、いったい何の涙なのだろうか。その涙の意味を推し量ることは私にはできない。だけどこれだけは理解できる。私が、お兄ちゃんを苦しめているのだ。お兄ちゃんは、私がいるから今も心の中で苦しい葛藤を続けて、死ぬ時よりもつらい痛みに押しつぶされているのだ。

 ―私を殺して―

 私が死ねばお兄ちゃんは楽になれるのに、私のその言葉は力を失った口から漏れることはなかった。ただ唇が小さく動くだけ、もう声を放つ力も残されていなかった。だんだんと視界は歪み身体は震え意識は遠く深い場所へと落ちていく。死の魔の手が、すぐそこまで迫っているのだ。死にとらわれる瞬間、私はハッと気づくことがあった。

 ―お兄ちゃんは、私を苦しいぐらいに愛してくれているのに、私はそれに答えていない、答えることから逃げている―

 自身が苦しみ悩むほどにお兄ちゃんは私のことを一人の女の子として愛してくれているのに、私はまだお兄ちゃんへの思いがはっきりしていない。お兄ちゃんが好きということはずっと前から思っていたことだ。けれどそれは本当の好きの気持ちなのか、そこが私ははっきりしていなかったのだ。そんなはっきりしない気持ちのままに私はお兄ちゃんに最悪の選択を迫っていたのだ。お兄ちゃんの苦しい気持ちを知ろうともせずに、本当の愛を知ろうともせずに、お兄ちゃんの愛を断ち切る選択を迫っていたのだ、私自身の勝手な願いのために。

 お兄ちゃんへの気持ちは、本当か。死に震える心がその答えを必死に探そうとする。けれど私にはまだ判断材料が足りなかった。今までお兄ちゃんの好きの気持ちをぼかして過ごしてきた私には、その心を感じることができず判断も難しい。

 ―次に目覚めたら、お兄ちゃんをデートに誘おう。まだ時間は残されているんだ。そこで、私の気持ちをはっきりさせよう―

 もし明日、お兄ちゃんへの本当の気持ちが分かったなら、私も選ぼう。二人で一緒に出した最低で最悪な選択肢に、答えを見つけるんだ。


「ねぇお兄ちゃん…私と、デートしよ?」

「で、デート!?」

 思わず俺は声が上ずってしまった。いくら見ても慣れない妹の復活シーンのすぐ後に言われたその言葉に俺の心拍は急上昇だ。雪乃が感じた死の恐怖を知ってまで彼女を食べてしまった罪悪感なんて吹っ飛んでしまうほどの衝撃が俺の体に駆け巡った。まるでハンマーかなにかで頭を叩かれた気分だ。

「私ね、お兄ちゃんのことが知りたい…お兄ちゃんに感じた気持ちの正体が知りたいの…それにはデートしかないって思って…ね?いいでしょ?」

 少し辛そうな雪乃の言葉に、俺はうなずくことしかできなかった。雪乃も雪乃なりに悩んでいたのだ。俺の好きという気持ちをぶつけられて、彼女はずっと戸惑っていたのだろう。どう答えを出していいのかわからずに、今まで悶々と過ごしていたのだと思う。

 けれど彼女は一歩を踏み出した。勇気を出して、その先の答えを見つけようと踏み出したんだ。ならば俺も一歩踏み出そう。愛を取るか、別れを取るか、明日のデートで必ず決めよう。それが二人にとってどんな結末を生んだとしても、俺も答えを出そう、そう決意した。

「わかった…でも、どこがいい?デートって言っても近場で済ますのもあれだろ?」

「私遊園地がいいなぁ…」

「遊園地?」

「うん。ほら、この前できた…」

「あぁ、あそこか」

 ここからバスで一時間くらいのところにできた新しい遊園地のことを言っているらしい。盛況で連日多くの人で賑わっていて一つのアトラクションに乗るのに3時間待ちというのがざらだ、という話を春宮から聞いたっけ。けれどいま世界には俺たち二人、まさに貸し切り状態で楽しめるというわけだ。それに明日を超えると文明がリセットされ電気も無くなってしまう。そうなれば遊園地で遊ぶこともできなくなってしまうし。

「ダメ、かな…?」

 上目遣いの雪乃の視線に俺の心拍はまた高まる。愛らしいくりっとした瞳が潤みそこに俺のたじろいだ間抜け顔が映っている。

「いや、全然ダメじゃない」

 もとより断る気なんてなかったため俺は二つ返事でそれに了承する。と、雪乃の顔に笑顔の花が咲いた。眩いくらいのその表情にさらに愛しさが募る。

 こんなに明日が楽しみなのは一体いつ以来だろうか。そんな楽しみな気持ちを抱えたまま過ごす夜は普段の2倍も3倍も長く感じた。


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