ボクは罪の十字架を背負った終焉を観測する

木根間鉄男

第1話プロローグ&「取り残された二人ぼっち」

―人は皆、誰しもが罪人だ―

 こう言ったのはいったい誰だったのか、もしかしたら架空の言葉なのかもしれないが、それでもこんな言葉が生まれるくらいには人は誰しもが罪を背負って生きている。いや、むしろ罪を背負うことこそが人間たりえるのかもしれない。もしも罪を背負わなければ自我なんて生まれない、動物のようにただ本能の赴くままに生きていることだろう。そう、罪とは人間の自我の根柢に潜むものであり、人間にとっては必要悪ともいえるだろう。

 まぁ前置きは以上にして、ボクもキミも、そこの彼も彼女も皆罪を背負っている。

 例えば、誰かのモノを盗んだり、誰かを殺したり、はたまた嘘をついて誰かの心を傷つけたり…。ほかにも様々な罪はあるがあげていけばきりがないので今は割愛させてもらおう。

 人間は意図しなくとも罪を犯して、その罪を無意識に背負っていく生き物である。

 罪の大小は人それぞれだが、人間が生まれながらにして持った大きな罪がある。ちなみに言っておくがボクがここで述べたいのは彼の有名な人間が原初から持つ七つの罪のことではないということを理解しておいてもらいたい。

 ではその罪とは何か?

その罪は、恋だ。人に恋すること、それこそ人間が生まれながらにして持った罪なのだ。

 けれどなぜそれが罪なのか?

 例えば30後半そこそこの中年おじさんが小学生を好きになってしまったり、教師が教え子に恋をしてそのまた逆もしかり…

 それは社会的に立派な犯罪だ。恋愛は自由だとうたわれてはいるがこういうパターンだと人は生理的、倫理的嫌悪から恋を罪深いものにしてしまう。

 けれどそれ以外にもまだ恋の罪はある。

 例えばボクとキミが同じ人を好きになって、取りあった末どちらかを殺したり、互いの好きを許容し愛し合った末堕落したり…あげていけばきりがない。

 さらに言えば恋を募らせた結果相手を殺したいほどに愛してしまう、いわゆる偏愛に走ったりするのもまた罪となる要素だ。

 恋は人を盲目にさせ怠惰にさせ、そして殺人者に変えてしまう。それは神話の時代から続く恋の罪なのだ。人間はそんな危険な罪を母親の胎内で受け継がれ生まれてくるのである。母親の胎内で続く罪の無限ループだ。

 さて、前書きはこれくらいにして、これから語るのは今述べたものより重い恋の罪を犯した彼の話だ。彼が犯した恋の罪、それは禁忌の恋だ。恋してはいけない人間を恋してしまった、それが今から語る彼の罪であり、ボクが最後に観測した人間の話だ。

 彼の罪が作り出した甘美で淫靡で、世界すら嫉妬してしまう恋の話を、始めようか―



―第一章「取り残された二人ぼっち」―



「はぁはぁ…ごくっ…」

 小さな部屋に少年の荒い息遣いと唾をのむ音、彼が乗っているベッドがきしむ音がやけに大きく聞こえる。部屋は真っ暗で明かりとなるのは窓から漏れる青白い月明かりのみ。空に浮かぶ真ん丸の月だけが、部屋の中をのぞき込む権利を持っていた。

「んっ…」

 月明りはベッドに横たわるもう一つの影を映し出していた。少し強く抱きしめただけで折れてしまいそうな華奢な体に、成長期の少女特有の甘く禁忌の香りが漂う丸みを帯びかけた体のラインを浮かばせ、その体を守る絹のベールのようなきめ細やかで真っ白な素肌を携えた裸体の少女が、暗がりに映し出される。まだ幼さが残る愛らしい顔が不安そうに歪み、泣きそうに潤んだ少女の瞳が彼を捉える。けれど血走った彼の眼には彼女のそんな愛らしい小動物のような瞳も映らない。

 月明りは雲の満ち欠けでどんどん彼らを照らす範囲を広げていった。キラリ、と少女の手首に煌めく何かを、月は捉えた。それは手錠だった。少女は裸のまま手錠をかけられベッドに縛り付けられているのだ。けれど彼女は何一つ抵抗していない。抵抗するのを諦めたのか、それとも自ら拘束されることを受け入れたのか、途中からしかこの状況を覗けなかった月には理解できなかった。

「我慢できない…ごめん…」

 少年は口元からだらだらとよだれを垂らす。それはまるでエサを目の前にお預けをくらった犬のようで、その唾液はつつぅと垂れて少女の汚れなき肌を欲望の色に汚していく。

 辛抱できなくなった少年は裸で無抵抗な少女に覆いかぶさった。もう一度だけ彼はごめん、と口の中でつぶやき、獣の本能を解き放ち少女の体を貪った。

「んぐぅっ!」

 少女の悲痛な声が狭い部屋にやけに大きく反響して響いたが、彼はそれにかまわずにただただ彼女の体を喰らう、今まで我慢していた分を取り戻すように。

 ちなみに貪るとか喰らうとかの表現を用いたが、それは俗にいう性的に、という意味ではないことがこの現状を驚きの表情で釘付けになっている月を見れば明らかだ。

 少年は、少女の首と肩の間、ちょうど鎖骨のあたりに、まるで肉食動物が獲物を捕食するように、唾液溢れる口でかぶりついたのだ。ぐちゅぐちゅと音をたてながら少年の歯が肉に食い込みその隙間から血がぷしゅりと漏れ出す。ぎちり、と人間から発せられるとは到底思えない音が少女の体から響くと同時に、少年は力任せに首を逸らせた。それはまさにライオンなどが肉を引きちぎるのと同じ動作で、少年の口にも生々しい赤色をした血肉が咥えられていた。肉がえぐられた部分は真っ赤な血で濡れた患部が月明かりによっててらてらと輝きを放ちながら露出していた。

「んぐあぁぁぁぁ!あぁぁぁぁ!」

 少女が痛みに顔を歪めて獣的な絶叫する。痛みに体が耐えきれず体がガクガクと震え、それを逃がそうともがこうとするが腕は拘束されて動かない。代わりに響くのは手錠のガチャガチャという音だけだ。綺麗な金髪のツインテールも振り乱されぼさぼさとよじれていくほどに彼女は痛みに悶える。

「ごめん…痛いよな…でも…ガマンしてくれ…」

 少年は優しく彼女の頭を撫でる。すると不思議なことに少女は少し落ち着いたような顔を浮かべた。けれどそれも一瞬、少年が今度は彼女の柔らかなおなかの肉につつぅと舌を這わせてそして歯をたててそこをえぐり喰うとまた絶叫を浮かべる。開かれた腹から覗くてらてらと怪しげに輝く温かな臓物にも彼は口をつける。柔らかな臓物は歯をたてただけでぷしっと赤の生暖かいものを噴出して少年の顔に飛び散った。けれど少年はそれにもお構いなしに少女の体を貪るように喰らった。

 彼らの情事は続く。まだ未熟な少女の血が、肉が、臓物がぶちまかれてベッドに赤とも黒ともつかない歪な色の染みが広がっていく。それと同時に部屋になんとも言えないむわっとした血と臓物がまじりあった独特の淫靡な臭気が満ちていく。その立ち込めた人間本来の鼻をつまみたくなるような香りを吸い込みながらも顔をしかめることなく少年はちゅぱりと骨をしゃぶりそして力任せに噛み砕いて喉奥に血をまるで水の代わりとでも言わんばかりに飲み込んでいく。

 ぐちゃぐちゃ、くちゃり、べちゃべちゃ…生々しい肉の音が、咀嚼音が、血が噴き出す音が、少女が響かせる絶叫とまじりあい歪な狂乱のハーモニーを浮かべる。

 そのハーモニーこそが彼らの愛の証だった。少年が少女を愛し、少女が少年を愛する。互いにその気持ちはまだ言葉にしていないが、それでも互いが愛し合っていることは言葉にしなくてもわかった。その証こそ、この歪で加虐的で優しくもあるカニバリズムという禁忌の演奏に現れていた。

「おいしい…おいしいよ…雪乃(ゆきの)…」

 口元、いや、体中を少女の血と肉と臓物で汚しながらも少年ははにかみ少女にそう言った。ニッと見えた歯にも血肉がべったりと貼りつき赤く染まっている。

この少年が犯した禁忌はカニバリズムだけではなかった。もう一つの彼の人間としての禁忌、それは…

「うん…もっと食べていいよ…私にかまわず好きなだけ食べていいからね…お兄ちゃん…」

 痛みと涙と返り血で顔をぐちゃぐちゃにしながらも少女、雪乃は少年、兄に笑みを浮かべてみせる。その笑みは何事も許容してしまうほど優しく慈しみを帯びたそれであり、恋人が向ける物にも似ていた。

 彼らは、禁忌の恋を、兄妹での恋をしてしまったのだ。同じ腹から生まれた者同士が恋をしてこうして貪りあうまでに発展した歪な恋。

 夜に響くのは彼らが奏でる禁忌のハーモニーのみ。異常な静寂を放つこの世界で、月だけが彼らの行為を最後まで見守っていた。


 美味しそうないい匂いがする。寝起きの俺が一番初めに感じたのはそれだった。自室の扉が開け放たれていてそこから香ばしいいい匂いが漂ってくるのだ。さらには何かを炒めているのか油がぱちぱちとはねる音がさらに寝起きで空腹な俺の腹にダメージを与える。

「お兄ちゃん朝だよ~。いつまで寝てるのかな?」

「ふわぁ…もう起きてるぞぉ」

「なら早く来てね、もうすぐご飯できるから」

「はいは~い」

 妹、雪乃に急かされて俺こと水瀬夏樹(みなせなつき)は朝の寒さを孕むこの空気から身を守ってくれていた布団から出て、高校の制服に着替えて食卓へ向かう。

 食卓にはスクランブルエッグにベーコンを炒めたもの、パン、スープと豪勢なもので、ニコニコ顔をした雪乃が調理していた時に着ていたエプロンをたたみながら俺の到来を待っていた。リビングの大窓から漏れる朝の光に目を細めながら俺は食卓へつき旨そうな香りを漂わせる朝食を食べる。

「いただきます…もぐもぐ…」

「どうお兄ちゃん?おいしいかな?」

「うん、うまいぞ」

「えへへ、よかった…ちょっと卵が古かったからあんまりおいしくないかなって思ったんだけど、大丈夫そうだね」

「このスープもなかなかに絶品…相当手間かけたんじゃないか?」

「残念!インスタントでした!」

「これがインスタントなんて…食文化革命!」

「アハハ、お兄ちゃんってば何言ってるのよもう…」

 二人で暮らすにはやけに大きすぎる部屋に俺たちの楽しそうな談笑の声が響く。

 某県某市、そこにあるとあるマンションの一室で俺と実の妹、雪乃は二人っきりで暮らしている。父親と母親は3年前事故で死んだ。彼らの死後遺された遺産と多額の保険金、そして親戚の人たちの協力のおかげで今俺たちはこうして二人で生活できているというわけだ。

 16歳のまだまだ独り立ちできない妹と今年で17の俺、その二人の暮らしは決して充実しているとは言い難いが、それでも楽しく幸福なものだった。

「ふぅ…ごちそうさま。やっぱり雪乃の料理はおいしいな。毎日食べても飽きないよ」

「そんなに改まってどうしたの?もしかしてご機嫌取り?」

「そ、そんなんじゃないっての」

 雪乃がニヤニヤとした笑みを浮かべる。ただ本心を告げただけなのにこのからかい様に俺は顔が熱くなるのを感じた。

「いいよ、言ってみて?晩ご飯に何か食べたいものとかあるんじゃないの?私の機嫌を取って作ってもらおうとか思ってるんでしょ?」

「そんなつもりじゃないけど…まぁいいか。それじゃあハンバーグを頼む。久しぶりにがっつりした肉料理が食べたくってさ…」

「はいはい、いいお肉が見つかったらね。ほらお兄ちゃん、もうすぐ学校だよ?」

「あ、そうだな。行ってくるよ」

 時計を確認して俺は急いで玄関へ向かう。靴を履き替えて扉を開けて外へ出る。まるで時間が止まってしまったと思えるほど静寂した世界へと俺は歩を進めた。


 現在12月、冬の本格的な寒さを孕む風が俺の体を吹き抜けていく。肌に突き刺さるような寒さに耐えきれなくなりカバンに入れていたマフラーを巻く。男にしては珍しい赤のマフラー、けれどこれは俺にとってとても思い入れのあるものなのだ。去年の誕生日に雪乃が俺にくれたのだ。あの時の恥ずかしそうな照れくさそうな雪乃の顔は脳内に焼き付いて離れない。このマフラーをつけるたびにあの日のことが思い出されてニヤニヤと笑みを浮かべてしまう。傍から見ればマフラーを巻いた途端ニヤニヤした変人に見えるだろうが、俺の近くには誰もいないのでセーフだ。俺と同じように登校を急ぐ学生も、朝の散歩を楽しむ老人も、会社へ急ぐ車も、朝の健やかさに喜ぶ鳥すらいない。たった一人の通学路を俺は進んでいく。コートのポケットに手を入れて爽やかな朝の空気を独占しながら禿げ散らかした木々の通学路を歩んでいく。真白の吐息をこぼし、寒いな、なんて一人世界に呟きながら。


「また俺が一番乗りか…」

 今日も登校したのは俺が一番早かった。教室のカギがかかりガチャガチャと虚しい音をたてる扉に背を向ける。誰もいない教室を背にして、誰もいない廊下を歩き、静まり返った職員室から鍵をもらい、また誰もいない教室に戻る。

本当にこの学校のみんなは寝坊やらサボりが多い。こうやってまじめに朝いちばんに登校しているのは俺くらいじゃないか?

 内心でそうぼやきながら俺は扉を開けて一番後ろの自身の机へ突っ伏した。机独特のあの匂いが鼻をつく。固く無機質で冷たい机から顔をあげると教室全体が見渡せる。丁寧に並べられた机といす、数多の生徒の思い出に汚れた壁、冬の冷気を流し込む窓、そのどれもが俺が学校に、いや、日常にいるんだという事実を改めて感じさせた。そして一番前の大きな黒板、そこに書かれた文字に俺はため息をこぼした。

「また自習か…」

 普通の学生なら自習と聞けば喜ぶのであろうが、俺の場合はそうではない。昨日も、その前も自習だからうんざりなのだ。先生が休みだから仕方ないのだが、俺が嫌だと思うのはそこではない。

「今日もアイツらは休みか…」

 友人の席が空いているからだ。俺の友人たちが座っているそこは総じて空っぽで、なんだか俺だけ取り残されたみたいに思える。友達がいなくては自習中の醍醐味であるおしゃべりができずつまらないのだ。ま、休みでいないやつのことをどれだけ望んでも現れるわけもなく、授業開始のチャイムが虚しく校舎に響き渡るのと同時に俺は教科書とにらめっこを始めた。ただ教科書を眺めて適当な問題をノートに写すだけの学園生活が今日も始まる。


 昼休みを告げる鐘が鳴る。この鐘の音には学生を開放的な気分にさせる魔力が込められているんじゃないかと常々思う。その鐘の音は普段の授業開始終了を告げる合図と何も変わらない音色なのに、この時間だけはやけに楽しみに聞こえるのだ。ようやくのお昼休みに俺の腹も歓喜の鐘を漏らした。

「さて、飯食いに行くか」

 俺は弁当箱をもって食堂へ…向かう前にある場所へ向かう。そこは放送室、俺の日課であるお昼の放送をかけるためである。操作パネルのスイッチを入れてプレイヤーにCDを入れ音量調節のつまみをいじれば準備完了だ。再生ボタンを押すと恐ろしいほどの静寂を貫く校内にロック調で世界をニヒリズムに歌うバンドの音楽が響き渡った。俺がお気に入りのバンドの曲に自然と鼻歌が乗ってしまう。友人たちが総じてこのニヒルさが分からないと文句を垂れたのはこのバンドの新譜を買いに行った時だったか。けれどもうこのバンドの新譜を買いに行けないのだと思うと少し悲しくなった。このバンドだけではない、あの大物歌手も、大人数で歌うアイドルグループも、もう新曲を出さないから…

「…ってお昼時になにしけた顔してるんだよ、俺」

 沈みかけた気分を盛り上げるように俺はまた鼻歌を歌う。歌というのはすごいもので、鼻歌を歌っていると気分がよくなってくるように感じられた。ごまかした悲しみは雪乃が作ってくれた冷めてもおいしいお弁当とともに腹の底へと流し込んだ。


 空がオレンジの色合いを孕み始めた頃、ようやく長かった勉強の時間ともおさらばだ。荷物を片付けて俺は教室を出る。俺が最後に下校する人間だから鍵を閉めるのも忘れない。今日はどこへ寄り道をしようか、そんなことをぼけぇっと考えながら駅前へ。

「…ま、今日もやってないよな…」

 けれど駅前のお店はどこもやっていなかった。友人たちと毎日のように通っていた美味しいたい焼き屋さんも、雪乃が好きって言っていたケーキ屋さんも、休日入り浸っていたカラオケボックスですら開いていない。駅前は恐ろしいほどに閑静で冷たい空気が吹き抜けるだけだった。普段の喧騒が嘘みたいに切り離されたそこには一種の恐ろしさすら感じられる。

何も収穫はなく仕方ないので帰路へつく。夕暮れに染まる街だが、カラスの鳴き声は聞こえない。ただ感じるのは夜が訪れる気配のみ。寒さを増していく道を一人歩きながら俺は温かな我が家へと急いた。


「ただ今、雪乃」

「あ、お帰りお兄ちゃん!ねぇねぇ聞いて!今日ね、ちょっと遠くのスーパーに行ったんだけど…いいお肉が見つかったの!だから今日はお兄ちゃんリクエストのハンバーグだからね!」

「まじで!?ハンバーグほんと久しぶりだから楽しみだなぁ…」

 帰ってくるなり満面の笑みで雪乃に迎え入れられる。キラキラと輝く雪乃の笑顔にどきりと胸が高鳴るのを感じた。それに出迎えてくれたのは笑顔だけではない。美味しそうな肉が焼ける匂いが漂ってくる。久しぶりに嗅いだハンバーグが焼ける匂いに子供のように心がはしゃぐのを感じた。さらにその奥からカレーのようなスパイシーなにおいも漂っている。まさかと思って俺は勢いを隠し切れずに尋ねた。

「なぁ!今日ってハンバーグカレー!?」

「うん、そうだよ!お母さん仕込みのハンバーグカレー!お兄ちゃんの大好物だったよね?」

 何か大きな行事で頑張った日、例えば運動会だったり音楽会だったり、その日は絶対に母さんはハンバーグカレーを作ってくれた。それを目当てで行きたくもないマラソン大会にも行ったな、なんて昔のことをふと思い出した。

「もうちょっとで出来上がるから待っててね」

「あぁ!楽しみだなぁ…」

 着替えを済ませてからリビングで待機、その間することもないので雪乃の調理姿を眺めることに。てきぱきと働くその背中はどこか母親を思わせるところがあった。両親が死んでから家事はずっと雪乃の仕事になったが、当時は今みたいにこんなてきぱきとしていなかった。すぐにミスをして火傷して俺に泣きついてきたり…できないなりに可愛げがあってよかったなと感傷に浸っている間にもいい匂いは充満して腹の虫をくすぐる。そのいい匂いと暖房の温かさ、そして退屈に身を任せていると自然とあくびが漏れた。瞼もだんだんとずっしりと重くなってきている気がする。気がつけば俺の意識は眠りの奥底に落ちていた。


「うぅ…ぐすっ…おかあさぁん…おとうさぁん…」

 少女が、棺の前で泣いている。目の前の二つの棺、そこにはかつて両親だったモノが入れられている。けれどそれもほんの一部だ、両親は爆発事故で体が吹き飛んで死んだ、今この棺の中におさめられているものは両親の残骸から出来上がったただのピースの抜けた不完全なパズルだ。出かけ先で車のハンドル操作を誤りガードレールに衝突し炎上、漏れ出したガソリンが引火し爆発を起こした、と当時まだ幼かった俺にはそう伝えられた。普段通り笑顔で両親が帰ってくると思っていた俺たちは相当な心の傷を負った。それは心に穴が開いたとかでは表現できないほどの衝撃で、今もこれが夢なんじゃないかと思える。けれどこの現実がどうしようもなく夢じゃないということは嫌でも理解できる。それはこの胸の痛みが証拠だ。ぽっかりと無くした心のピースがまるで傷口が空気に触れた時のようにピリピリとした痛みを身体に送り込んでくるのだ。

「泣くな…雪乃…」

 頬を伝うこの熱さも、現実の証。胸の奥から溢れてくる熱くて、それでいてどこか冷たい思いが、どうしても現実だということを俺に引き留めさせた。そして、目の前の妹の涙も、俺に現実を突きつけた。

「だって…お兄ちゃん…私たち…これからどうしたらいいの…?お父さんもお母さんも死んじゃって…うわぁぁぁん!」

「大丈夫…兄ちゃんに全部任せろ…俺が父さんたちの代わりになるから…」

 子供の俺は何の計画もなくそんなことを言った。ただ、妹をなだめるためにこぼした言葉、けれどそれが今の俺を形作ることになろうとは当時は全く思わなかったが。

「ほんと…?」

「あぁ…これからずっと俺はお前を守っていくから…だから…泣かないでくれよ、雪乃…」

「うん…!」

 泣きはらした真っ赤な瞳、それでもまだ涙があふれてくるそれをむりやりに細めてぐしゃりと歪な笑顔を作る雪乃。無理をして作られた笑顔だということは誰が見ても明らかだ。そんな見え透いた笑顔でも、雪乃は俺のために笑ってくれたのだ。俺は、無意識に妹の体を抱きしめていた。幼くて小さな体、悲しみに震えているけど確かに熱を帯びたその体を強く強く抱きしめた。どうしてこうしたのかわからない、雪乃のむりやりの笑みを見たくなかったのか、それともその笑みに愛しさを感じたのか、当時の俺にはわからなかったが、今の俺ならわかる。それは、雪乃に感じた初めての恋心のせいだ。

 俺はあの日の笑顔で、涙交じりのくしゃくしゃの笑顔で、雪乃に恋に落ちたのだ。妹だとかいう倫理的概念を超えて俺の恋心は、生まれたのだ。そしてその恋心は、俺を罪人に変えた―


「お兄ちゃん…起きて…起きてよ…おーい!」

「…んあぁ?」

「お兄ちゃんご飯できてるよ!ほら、早く起きる!」

「あ、あぁ…」

 瞳を開けるとそこには成長した雪乃、いや、現在の雪乃がドアップで映った。いくら呼んでも起きない俺の顔を覗き込んでいたのだろう、少し心配そうな顔を浮かべていた。

(…あの日の夢、か…そういえば全部、あの日から始まったんだよな…)

 今も続く妹への好きという気持ち、その開始地点を思い出しドクンと心臓がはねた。目の前の雪乃が愛おしく思えてたまらない。きっと懐かしい母さん特性カレーの匂いで昔を思い出してしまったのだろう、なんて考えながら俺はまだ重たさの残る瞼を擦った。

「もうお兄ちゃんってば…よだれ、ついてるよ?ご飯食べる前に顔洗ってきたら?」

「うん…そうする…」

「あ、そうだ。お兄ちゃんさ、寝てるときずっと私の名前呼んでたけど…どんな夢見てたのかな?」

「え!?俺寝言なんて言ってたのか!?」

「うん。そりゃもう大きな声で私のこと呼ぶからさ…なんかこわくなっちゃった…で、どんな夢見たの?もしかして…エッチな夢とか?そうでしょ?お兄ちゃんエッチだもんねぇ。夢の中で私にエッチなことして喜んでたんでしょ?寝顔がニヤけてたよ」

 雪乃がニヤニヤとした笑みを浮かべながら俺に尋ねてくる。あの夢を見た後ではそんな雪乃の表情の変化一つ一つが愛おしくて我慢できなくなる。どうしようもない劣情と、空腹感が湧き上がって仕方がない。

「う~ん…とりあえず、内緒ってことで、よろしく!」

 こんな調子でいては俺の心がヒートアップしすぎて持ちそうにない、というわけで急ぎ足で洗面所へ向かう。自身の顔に浮かんだニヤニヤを落とすように顔を洗った。けれどどういうわけかそのニヤニヤは俺の顔に張り付きいっこうにとれなかった…。


 世界に夜の帳が訪れる。それはいくら世界が静寂だからといって変わることがない不変の事実だ。そしてまた、明日が来る。これもまた不変であり、世界がどんな状況に陥っていても変わらないのだ。そう、世界が今、どういう姿をしていようとも―

「お兄ちゃん、今日はどうだった?」

「ん?まぁそこそこに楽しかったぞ」

「そういうことじゃなくて…」

 母さん直伝ハンバーグカレーをつつきながら俺は首をかしげる。雪乃が言いたいことがいまいちつかみかねないのだ。

「…生きてる人、見つかった?」

「うんにゃ。全然。人っ子一人いない」

「そっか…やっぱりもう…誰もいないのかな…?」

「そうかもしれないし、違うかもしれない…世界に俺たち以外人がいないなんてやっぱり信じられないしさ」

「けど少なくとも私たちの周りには誰もいないでしょ?」

「ま、まぁ…そう、だな…」

「やっぱり…みんな消えちゃったんだよ…」

 雪乃の寂しげな表情に俺もつられて気分が落ち込んでしまう。やはり、世界にはもう、俺たちしかいないのだろうか…?

 外は生命の明かりなど一つも見えない闇そのもので、明かりのもとにいるのは俺たちだけ。光もなければ音もなく、命もない。

 この静寂の世界で生きるのは、きっと俺たちだけ。それでも世界には非情にも明日が訪れる。これは俺たちの、世界の最後の生き残りの、俺たちだけの明日の話―。


 さて、物語を進めるにあたってやはり振り返っておかなければいけない過去というものが確かに存在する。この物語では、そう、どうして俺たち以外の人間がいなくなったか、ということだ。それはちょうど1週間ほど前2016年12月14日にさかのぼる。その日こそ世界最後の一日で、俺たち兄妹の平凡な日常の終わりを告げる一日で、そして、俺の思いを雪乃に打ち明けた日でもあった―。


「おはよう…今日も寒いな…」

 12月の半ばごろにしてはやけに冷え込む今日この頃、コートのポケットに手を突っ込み寒さに身を縮まらせながら俺は2年3組の教室へと入った。教室内は寒さに負けることなく皆楽しそうに談笑していた。その会話のほとんどがもうすぐそこに迫った冬休みの予定やら彼氏彼女へのクリスマスプレゼントをどうするかなどといった会話だ。例にも漏れず俺の親友の少年も俺に気付いてその話を吹っかけてくる。

「おっす夏樹!お前クリスマスどうするんだ!?学校ももう終わってるしさ、どうせ彼女とかいないんだろ?なら俺たちと一緒に男だらけのクリスマスパーティーやろうぜ!」

 犬のような人懐っこい笑顔を浮かべたこの少年は黒崎秋広、高校に入ってからできた親友だ。黒崎は尻尾があればパタパタと振っているであろうテンションで俺にそう聞いてくる。

「黒崎、こいつ誘っても無駄だって。どうせ妹とクリスマス過ごすんだからさ、なぁ?」

「ん?あぁ、まぁその予定だけど…」

 茶髪の少し不良じみたこちらの少年は春宮慶次、小学生からの親友で高校に入ってまでもずっと同じクラスになるという妙な運命を共有させられている。ちなみに不良っぽいのは見た目だけで中身はガチガチのオタクだ。付け加えて言えばこいつのせいで俺もなかなかにオタクの道を進むことになってしまった。

「そうなのか?お前この年にもなって妹とクリスマスって…シスコンかよ。ぷっ」

「笑ってやるな黒崎。こいつの妹めっちゃかわいいんだからさ、リアル女が嫌いな俺が言うんだ、間違いないって。そんな可愛い妹ちゃんがいたらそりゃシスコンにもなるって。な、シスコンの夏樹君?」

「うっせぇ。シスコンで悪いかよ」

「悪いとは言ってねぇよ。てか逆に羨ましい…俺にもあんなにかわいい妹がいたらなぁ…毎朝お兄ちゃん起きてって風に起こしてもらって、特製朝ご飯を食べて行ってきますのチューしてもらって、お弁当も妹お手製で、晩ご飯もお手製、夜は一緒にお風呂入って一緒に寝て…あぁくそ!妹欲しい!」

 春宮の不純な叫びが教室の喧騒に飲み込まれる。そんなラノベみたいな妹はいないというツッコミはあえてしないでおく。その中の半分以上は心当たりがあるからだ。行ってきますのチューやらお風呂や添い寝はないが、確かにそれ以外は当てはまってしまう。こんなことを言えばきっと春宮に半殺しにされかねない。

「てかお前お姉さんいるだろ。姉で我慢しろ」

「は?姉貴?あんなのが姉貴なんてありえねぇし。ガチガチのドルオタで同じような顔した男のアイドルの写真ばっかり部屋に飾ってさ、しかも毎日毎日俺の事キモオタとか呼んできやがるし…姉っていうのはだな基本弟ラブで弟を甘やかしてくれるものなんだよ!なのにあの姉貴ときたら…」

 どうやら俺の一言がトリガーとなったらしい。春宮はひたすらに姉への不満をまるで呪文のようにこぼし始めたが何度も聞かされたことなので俺の耳は華麗にそれをスルーした。

「あ、おはよう夏樹君…」

「ん?あぁ、露子(つゆこ)か、おはよう」

 か細い声に気付いて振り向くとそこには黒髪おさげのメガネっ子の千葉露子がちょうど登校してきた時だった。見るからに文学少女の彼女は中身も思いっきり文学少女で図書室に入り浸っている。休み時間も俺たちと話をするか本を読むかの二択だ。

そういえばこいつとの出会いはなかなかに特殊なので少し話しておく必要があるだろう。


それは俺が高校1年の時の秋ごろのことだ。よく驚かれるのだが案外読書家な俺はこの日も週に1回のペースで通っていた図書室へと向かっていた。この日も先週借りた本を返して今週は何を読もうか、なんて何ら変わりない週1回の楽しみを探していた時だった。

「お…乱歩か。そういえば俺推理モノってあんまり読んだことなかったな…この機会に一回読んでみようかな」

 本棚にあった乱歩の傑作集に手を伸ばす。と、その時だった。俺が手を伸ばしたのと同じタイミングで真っ白でほっそりとした手が俺の狙っていた本へと伸ばされた。手と手が触れあいそうになったところで二人とも遠慮して手が離れる。

「あ、あの…どうぞ…」

 続いてか細い女の子の声が聞こえた。俺は声の方向を見る。するとそこにいたのはいかにもな文学少女で、俺はその姿に見覚えがあった。

(この子…確かずっと図書室にいる…)

 週1回しか図書室に行かないけれど、行けば必ずいる女の子だ。窓際の一番奥の席に陣取ってそこで目を輝かせながら黙々と文字の旅をしているのを見たことがある。噂に聞くと毎日図書室にいるそうだ。

「いや、俺は別にいいよ、ほかの本を探すから君が読みなよ」

「いえ、私が別の本を探しますから…」

 互いが困った顔で遠慮しあう。ふとその視線が交わり、ぷっと互いが同時に噴き出してしまった。場に漂っていた一種の緊張にも似たものが緩和されていく。そのタイミングを見計らって俺はさらに声をかけた。

「そういえば君さ、ずっと図書室にいるけど…本、好きなの?」

「え…あ、はい。私、本が大好きで…そういう君も本、好きでしょ?よくここに来てるの見たことあるよ」

「あちゃ…ばれてたか」

「それにしても、君って珍しい質問するね」

「珍しい質問?」

 俺が尋ね返すとメガネをかけた女の子はふとその顔を曇らせた。

「うん…普通の人ならさ、図書室でずっと本を読んでる私を見たら一番に友達いないの?って聞くんだけど…」

「あ…」

 確かに図書室で一人黙々と、それもきっと毎日だ、読書していればそりゃ友達がいないのかと尋ねる人間もいるだろう。けれど俺はそうは思わなかった。

「う~ん…なんて言うかさ、君って本読んでる時とっても楽しそうに読んでるんだよ。昔さ、クラスに友達がいなくて仕方なく本読んでるやつ見たことあるんだけど…なんだかそいつ、顔が寂しそうでさ、本の内容なんてほとんど頭に入ってない、ただの時間つぶしに文字を目で追ってる、みたいな感じがしてたんだけど…君は心から純粋に本を楽しんでるって思ってさ。それで読書好きかなって思ったんだけど…あ、ごめん…嫌だよな、ほぼ初対面の奴からこんなこと言われて…」

 俺は言い終わった後にしまったと顔を歪めた。さすがに初対面の女の子にまるでずっと君のことを観察していました的なことを言ってしまったのだからひかれるのは確かだろう、けれど彼女は顔を輝かせて俺の方を見ていた。その瞳は嬉しそうに細まり、眼尻に少し涙が浮かんでいた。

「ふふ…そんなこと言ってくれたの、初めて…とっても嬉しいな…」

「そ、そうか…」

 彼女の嬉しそうな笑顔にたじろいでしまう。だんだんと自分がどれだけ恥ずかしいことを言ったのかを認識し顔が熱くなってくる。それを察知される前にこの場から逃げ出してしまおう、そう思って踵を返そうとした瞬間、女の子は俺の裾を握って引き留めた。

「君、名前は?私は千葉露子」

「あ、俺は水瀬夏樹だ」

「ふ~ん…夏樹君っていうんだ。いい名前だね…あ、ごめん!私ってば名前で呼んじゃってた!嫌、だったよね?」

「いや、別に嫌じゃない…」

 初めて女の子から夏樹と呼ばれてドキリとしてしまう。意識せずとも自分の頬が赤く染まっているのはもうわかっていた。

「ごめんね、もっと仲良くなりたいから名前で呼ぼうって思ったんだけど…よかった…」

「それじゃ俺も露子って呼ぼうかな」

「うん、いいよ。あ、そうだ夏樹君!おすすめの本紹介してよ!私もおすすめ教えるからさ!」

「あぁ、いいぞ」

 互いの好きな本や作家を言い合ったりしているとあっという間に時が過ぎていった、乱歩のことなんて頭の中から吹き飛んでしまうほどに楽しい時間が。下校時間を過ぎてもしゃべり足りなかった俺たちは一緒に帰るついでに古本屋へ行ってまた本について語り合った。きっと俺も露子も本のことを話せる友達が欲しかったのだろう。俺の場合黒崎は全然本を読むタイプじゃないし春宮はラノベしか読まないし、本の会話なんてろくにできなかった。そういうわけで露子は俺にとって大事な親友へとなった。

 その日から俺は昼休みは図書室で一緒に露子と本を読み放課後は古本屋や図書館を一緒に廻ったりした。で、二年に上がった時クラス替えで同じクラスになり今に至る、というわけである。


少し長くなってしまったがこのようにまるでギャルゲさながらの出会いを果たしたのが彼女、千葉露子だった。

「何の話してたの?」

「え?理想の妹と姉の話」

「ちげぇよバカ!クリスマスの話だよ!そうだ、千葉ちゃんもどう?男だらけのクリスマスパーティー、楽しいよ?ポロリもあるかもよ!?」

「クリスマス…」

「そう、クリスマス!ケーキもあるしチキンもあるぜ?な?一緒にパーティーやろうぜ!」

 春宮のことを軽くあしらって黒崎が露子に必死なアプローチをかける。けれどどうしてか彼女は上の空で話を集中して聞いていないようだ。黒崎はそれに気づいておらずまだぺらぺらとアプローチを繰り返す。

「大丈夫か露子?もしかして風邪か?」

「え?なんで?」

 黒崎の話を打ち切りそう尋ねた俺だが露子は首をかしげるだけだった。その顔は少し火照ったように赤く染まっている。ますます風邪の心配が高まる。

「いや、ちょっとぼーっとしてたっていうか上の空だったっていうか…ほんとに大丈夫か?」

「うん、大丈夫…ちょっと考え事してたの…あ、そうだ夏樹君、今日…」

「あ、そうだ!なぁなぁみんなこの噂知ってるか!?」

「なんだよ黒崎…お前ほんと唐突だな…」

 と、露子の話に割り込むように黒崎は叫んだ。その瞳はまるで小学生のようにキラキラと輝いている。

「2016年12月15日に世界は終わるんだってよ!」

 皆の間に一瞬鋭い静寂が走る。時が止まったように皆は静止するが、けれどやはりそれも一瞬だった。

「…露子、さっき言おうとしてたことって…」

「あ、それなんだけどね」

「おい無視するなよ!」

 俺としてはこの手のオカルト的話題は信じていないので極力スルーしていきたかったのだが、黒崎はそうはいかなかった。そういえばこいつは大のオカルトマニアだということをいまさらながらに思い出した。皆もそれを思い出したようで少しうんざりした顔を浮かべる。

「15日って…明日、だよね?」

「そう!明日ついに世界は終わるんだよ!すげぇよな!」

 楽しそうにはしゃぐ黒崎とは逆に露子は心配そうに顔を歪めている。

「はぁ…また滅亡論か…それってことごとく外れてきたじゃん…」

 春宮はため息交じりにやれやれとこぼす。けれどそれでも黒崎のテンションは下がらない、むしろ上がっていっている。俺は春宮同様ため息をこぼす側だ。確かに世界滅亡論はいろいろな場所で騒がれ、つい1年前の2015年にある種のブームにもなったが、やっぱりそれでも世界なんて終わらなかった。

「この噂な、実はどこにも情報のソースがないんだよ」

「ソースがない?どういうことだ?」

「ソースっていうか、噂の根拠になるものが全然ないんだよ。例えば過去の滅亡論にはマヤ文明だとかノストラダムスだとかそういう宗教とか予言が絡んできてただろ?しかもその論を後押しするようにNASAみたいな科学機関が証拠になるような事例を紹介してる、太陽の黒点がどうたらとかな。けど、今回のはそうじゃないんだ…」

 黒崎が意味深に一拍間をあける。皆がゴクリと息をのみ次の言葉を待つ。

「突然ネットの掲示板に投稿されたんだ…それも、3日前の夜だ」

 声のトーンを落としてそう語った黒崎だが、皆はそれに彼が望む反応を示さなかった。逆にやれやれ、話を聞いて損した、なんて態度でため息を吐くばかりだ。かくいう俺もため息以外出るものがなかった。

「はいはい、デマ乙。完全に一本釣り被害者です、はい」

「確かにそれは信じられないよ…ねぇ夏樹君?」

「あぁ。そんな信憑性も何もない…しかも匿名性の高いネットにはその手の噂なんてごろごろ転がってるだろ」

「いや、それがさ、信憑性ならあるんだよ…その投稿をしたやつの名前が、カサンドラだったんだよ」

「カサンドラって誰だっけ?聞いたことあるんだけど…」

「なら俺の出番かな。ちょうどこの前やってたゲームにカサンドラが出てきたから調べてみたんだよ」

 首を傾げた俺と露子に変わりさすがオタクの春宮は自慢そうにこう語り始める。

「カサンドラとは神話に出てくる女性の予言者だ。けれど彼女は予言者でありながらその予言を誰にも信じてもらえないという呪いにかけられていたんだよ。イタリアでは不吉とか破局とかって意味で語られるいわゆる悲劇の予言者だな。まぁ簡単に言えばこんな感じだ。詳しくはウィキでも見ろ。しかしカサンドラなんて名乗るとは…結構皮肉めいたハンドルネームだな。しかもトロイア戦争でトロイア軍を助けた予言をした双子のヘレノスを名乗らない辺りもなかなか…知名度の差か?」

 そのヘレノスというのは誰かわからないが、確かにもしもこの予言が本当で、それが今の俺たちみたいに誰も信じてもらえないとすれば、そのカサンドラという名も皮肉以上の意味合いを帯びてくる。だけどそれもしょせんハンドルネーム、皮肉と知ってそう名乗っているだけだろう。

「俺はカサンドラのことをよく知ってるからな!俺だけはカサンドラを信じるぞ!」

「おまえが信じた時点でそいつカサンドラ失格なんじゃないか?だって彼女は誰にも信じてもらえないんだぞ?もし信じる人間がでたら、それはカサンドラとしての意味を失うんじゃないか?」

「はっ…!確かに…なら俺はどうすれば…」

「いつもみたくバカしてればいいんだって。気づけば明日になってるからさ」

「明日になったら世界滅ばないじゃん!」

「だから世界なんてそう簡単に滅ばないっての…」

「いやいや!だからカサンドラが予言して…!」

 平行線を極める黒崎と春宮の会話をよそに、俺は露子に話しかける。

「あのさ、さっき言いかけたことって何かな?俺に何か言いたいことあったんじゃない?」

「え、えっとそれは…明日言う!」

「え?別に今日でもいいんじゃない?」

「だって…今日言ったらなんか死亡フラグになっちゃう気がするもん…ほんとに明日世界滅んじゃうかもね?」

「お前死亡フラグになること言いたかったのかよ…」

 話の内容は気になったが、明日話してくれるというのなら待とう。どうせ世界なんて滅ばない。何食わぬ顔で明日がやってきて、またつまらない日常が始まる。そう、その時の俺はそんな甘い考えをしていたんだ。

「ま、そういうことなら明日絶対話してくれよ?」

「うん!約束する!」

 結局その約束も果たせなかった。彼女が俺になにを言いたかったのかも、今になっては知る由もなかった。なにせ人類全員が不変と思っていた明日が、彼らには訪れなかったのだから。


 その時の俺には明日の世界の終わりよりも深刻な悩みがあった。それは、空腹だ。

 数日前からお腹が減ってたまらないのだ。けれどそれは普通の食事では満たされることはなかった。確かに食事をとれば腹も満たされる、けれどどこかそれでは満足していない自分がいた。初めのうちは何か物足りないなと思っていた空腹も今になれば死活問題にまでつながってしまっていた。とにかくお腹が空いてたまらない、けれど食事をしても意味がない。ならばどうすればいいのか、俺の本能はとっくにその答えを求めていた。

 ―雪乃を、雪乃の肉を、食べたい―

 それが俺の本能が導き出したこの空腹を満たすただ一つの答えだった。雪乃を見ただけで俺の腹の虫は暴れる。妹の少しぷにっとした二の腕や太もも、ちらりと覗く柔らかそうなお腹を見るだけで口の中に唾液があふれてしまう。気を抜けば妹のことを、雪乃のことを食べてしまえと脳が勝手に騒ぎ行動に移してしまいそうになる。必死に理性を総動員して抑えているが、限界が近いことはもうわかっていた。

 そしてそれが爆発してしまったのが12月14日の夜だった。


「お兄ちゃん?生きてるかな?お~い」

「んあ?」

「あ、生きてた。大丈夫?何回呼んでも返事なかったし…目開けたまま寝てた?よだれまで垂れてるよ?」

 雪乃のことを見ていたら空腹が襲い掛かってきて軽く意識が飛んでた、なんて口が裂けても言えるはずもなく俺は適当に濁して返す。それを大丈夫ととらえた彼女はリビングの扉を開けて夜の闇に染まる廊下へ。寝間着姿だからもう風呂も入り終えて眠るだけなのだろう。

「私もう寝るから電気消しておいてね」

「あ、あぁ…分かった…」

「それじゃお休み、お兄ちゃん…あ、ちゃんとベッドで寝るんだよ?風邪ひいちゃうからね!」

「あぁ、お休み…」

 俺の目の前から雪乃が遠ざかっていく。それは夜の別れであり、どうせ明日も会えるというのに、とてつもなく寂しくて名残惜しい。俺の空腹からか、それとも愛しさからくるものかわからないその感情、けれどそれは俺を動かすには十分な感情となった。

 そしてもう一つのトリガーが脳内で思い出される。

 ―明日、世界が滅亡する―

 それはほんのくだらない噂、何の根拠もない信じることもできないほど滑稽な嘘を孕んだ噂。けれどもそれがもし本当だったなら…ほんの1%、いや、それ未満の可能性で、明日が来ないのならば、俺は、後悔したくない。世界が終わる前に俺の気持ちをぶつけたい、俺の気持ちを、雪乃に知ってもらいたくなった。そこに生まれたもしもの可能性、否定するのは簡単だが信じるのは困難を極める滑稽な噂に俺は背中を押された。

「雪乃…待ってくれ…」

「え?どうしたの、お兄ちゃん?」

 雪乃はいつもの天使のような可愛らしい笑顔で振り向いた。その愛らしいしぐさに、今から告げることに不安を覚える。けれどもうトリガーは引かれたのだ。後戻りなど、できない。

「お前を…食べたいんだ…」

「え…?何、言ってるの…お兄ちゃん…」

 不安そうな雪乃の顔が薄暗い廊下に浮かび上がる。ありえない、とでも言いたげな表情が俺の心に突き刺さる。心に突き刺さった冷たい刃は俺の心をえぐりずきずきとした痛みを生む。けれどもう俺は後戻りできない領域まで、足を踏み込んでしまったのだ。

「だから…お前のことを、食べたいんだよ…」

「た、食べたいって…それって…私と、エ、エッチなことしたい、ってこと?」

「いや、違う…」

「え?それじゃ私…ご飯みたいにお兄ちゃんに食べられろってこと?」

「う、うん…」

 黙り込んでしまった雪乃は何かを考えているようだ、うんうんと唸り声が聞こえる。

「どうして、私が食べたいの?普通おかしいよね、人間を食べたいって…」

「あぁ、おかしいのは俺だってわかってる…けど、どうしても我慢できないんだ…ちょっと前から雪乃のことが食べたくなって仕方がなくなってるんだ…」

「なんで私なの?ほかの人は?」

 俺はそう言われてハッと気づく。そういえば雪乃以外にこの空腹衝動を感じたことがない。春宮たちを見てもおいしそうだとか食べたいと思わない。俺は雪乃だけを思い、雪乃だけを食べたいと願い続けてきた。雪乃の問いに首を横に振る。

「そっか…私、だけ、か…じゃあ最後の質問…なんで私だけ食べたくなったの?」

 きっと彼女は俺のこの衝動の根柢に潜む答えられない理由をつけさせて諦めるつもりだったのだろう。けれど雪乃のその質問に、俺の口は自然と動いていた。頭で考える前に、口が本心をこぼしたのだ。

「お前のことが、大好きだからだ」

「え…?」

「妹だとかそんなこと関係なく、一人の女の子としてお前のことが好きになっちゃったんだ…好きになってどうしようもなくなって…それで気がつけばお前のこと、食べたくなるほど好きになってて…お前の全部を味わわないと気が済まなくなってて…」

「…」

 妹は何も言葉を発しなかった。ただ黙って俺の話を聞くだけ。その沈黙がかえって俺の不安をあおった。頬が熱くなるのを感じるが、それ以上に心臓が不安で高鳴る。こんなに心臓がバクバク言っているのはきっと生まれて初めてのことだろう。

「そう、だよな…気持ち悪いよな…兄が妹を好きになるなんて…ごめん、忘れて…」

 俺のその言葉が終わる前に、暖かい何かが俺を包み込んだ。暖かくて小さななにかはぎゅっと俺の体を包み込む。ぎゅっとぎゅっと、自身の意思をぶつけるように、俺の体に抱き着いてきた。

「お兄ちゃん…いいよ…私のこと、食べて…」

「え…?でも…」

「お兄ちゃんの気持ち、伝わった…ずっとつらい思いしてたんだよね?我慢して我慢して…いいよ、私を好きなようにして…」

「…雪乃、無理、してないか?」

 そういった雪乃だが、体は小刻みに震えていた。不安と後悔と恐れと、その他さまざまなものがまじりあった震えを背に感じる。

「大丈夫だよ、お兄ちゃん…私のことはいいから…お兄ちゃんの好きなようにしていいよ…私、お兄ちゃんがしたいことなら全部してあげたいから…」


 雪乃はただそれだけ言うと俺をかつて両親の寝室だった部屋へと連れて行った。少しの家具とベッドしかない部屋、光は月明かりのみ、青白く照らされた部屋には一種の神秘的なものすら感じた。

「ここなら汚れても大丈夫だよね?食べるっていってもいっぱい血が出ると思うしさ、片付けるの大変でしょ?」

「あ、あぁ…ごめん、雪乃…!」

 ようやく食べられる、そう頭の中によぎった瞬間今までのためらいが嘘のように心からすっぱりと消え去り俺の理性はとうとう崩壊を迎えた。頭によぎるのは獣の本能、それに従って雪乃を力任せにベッドへと押し倒した。

「キャッ!お兄ちゃんってば…乱暴…」

「ごめん…ガマンできないんだ…もう…腹が減って死にそうなんだ…!」

「や、ヤダっ…!恥ずかしいよ…!」

 邪魔なピンク色のパジャマも、可愛らしい縞模様の下着もむりやり剥いでいくと、雪乃のおいしそうな瑞々しい肌が露わになる。女性らしい体つきになろうとしているその体は青い果実を思わせる。服をめくるたびにふんわりとしたいい匂いが鼻孔をくすぐる。さっきお風呂に入ったからか石鹸のような優しくて爽やかなにおい、それと混じって女の子独特の甘い香りが脳内を揺さぶり死にかけの理性をさらにゴリゴリと削る。

「はぁはぁ…雪乃…おいしそうだ…」

「お兄ちゃん…すっごく目が血走ってる…怖いよ…」

「ごめん…」

 怯えた雪乃の瞳に見つめられると心がギュッと締め付けられる。それは罪悪感からくるものではなく、愛しさによるものだ。雪乃が愛しくて愛しくてたまらなく、壊してしまいたくなる。今見せた怯えた瞳でさえ俺の興奮と空腹を高め心の内に眠っていた加虐心を呼び覚ますだけだ。

「ごめんな、雪乃…」

 今日何度目かわからないごめんを言った後、俺は雪乃の体に喰らいついた。まずは柔らかそうな二の腕に歯をたてる。柔らかそうといっても人間の歯では引きちぎれるか不安だったが、どういうわけか簡単に歯が肉に食い込んでいく。俺の体が雪乃の肉を喰らうために変わってしまったのか、もしくはそれ以外の何かが要因なのかわからない。ただわかるのは口の中に広がる雪乃の血肉のおいしさだけだ。まだ口に含んだだけだというのに口の中でそのうまさは弾けた。ぐちょりとした肉に染みついた雪乃の甘い味、ドロリと口の中に止めどなく溢れてくる血は生暖かくまるでスープのよう、彼女の血と混じって流れ込んでくる脂はとろっとろで口内の温度でじゅわっと溶けてしまう。

「ぐっ…!んっ…!」

 雪乃は痛そうなうめき声をあげるが俺の耳には届かなかった。俺の全神経はすべて彼女の血肉を味わうことだけに集中していたからだ。

「ぐあぁぁぁぁぁ!んぎぃぃぃぃぃ!あぁぁぁぁぁぁぁ!」

 少し力をこめると雪乃の体から肉が引きちぎれた。患部から血がぶしゅぅとまるで噴水のように噴出し俺の顔を、雪乃の体を、ベッドをべちゃべちゃに汚す。赤い血肉が張り付いた骨が露出する患部をおいしそうだと眺めながら、口周りに付いた血をぺろりと舐める。それだけでは飽き足らず雪乃の体に飛び散った血液も舐めとった。彼女の肌の香りと混じった命の液体は極上の一品となり俺の舌を楽しませる。さらに耳に聞こえる彼女の悲痛な叫びがまるで高級料理店に流れる優雅なBGMのように雰囲気を作り食欲を掻き立てる。

「痛い…!痛いよ…お兄ちゃん!」

「あむ…ぐちゅぐちゅ…ゆき…の…」

「お兄ちゃん!痛い!痛いの!死んじゃう!こんなに痛いの死んじゃう!」

 目を見開き身体がバタバタと暴れ俺を振り払おうと必死になる雪乃。彼女の本能の抵抗は激しいもので、暴れるその手が俺の頬の肉を掻き取った。びゅっと血液が頬から噴き出す。その温かい液体は雪乃の体に飛び散り彼女の赤と歪にも混ざりあう。

俺は無意識に彼女の頭を撫でた。昔雪乃が泣いていた時によくやっていたことが癖になって体に染みこんでいたのがつい出てしまった。こうしたら泣き止んでいたのだが今の痛みはこんなのじゃ我慢できないだろう、と思ったのだが彼女は唇をぎゅっと結んで痛みに耐え始めたのだ。瞳からは大粒の涙を流しびくびくと体を痛みに震わせているけれども、健気に痛みに耐えようとしている。俺はそんな痛々しくも健気でもある妹の姿に、さらに食欲を掻き立てられた。

 ―愛おしい、愛おしい、愛おしい―

 雪乃の全てが愛おしくてたまらなくて、食べたくなると同時に余計に好きになっていく。俺が好きになった女の子はこんなにもかわいくて健気だったのかと再認識させられた。

「雪乃…大好きだよ…」

 その一言は雪乃には聞こえていたのだろうか。彼女の体を食い散らかしながら言ったその言葉は本当に彼女にたどり着いたのか、それはもうわからない。なぜならその言葉を最後に俺の理性はすべて獣の本能に食い殺されたからだ。意識がフェードアウトしていくのが分かる。

俺はただの一匹の獣となり、雪乃の体を喰らった。肉も、血も、骨も、内臓も、髪の毛も、瞳も、子宮も、脳も、心臓も、たった21グラムの魂でさえ、すべてすべて喰らった。雪乃の全てを喰らい尽くすまで、俺の中に潜んでいた獣は姿を消さなかった。


「俺は…俺は…なんてことをしたんだ…」

 次に俺の意識が戻った時には、すでに何もかもが終わりとなっていた。食事も、夜も、雪乃の、命も…。

「俺が…全部、食べたんだ…雪乃を…雪乃…!」

 口の周りにはまだ湿り気を帯びた血がべったりとついている。頭の上からつま先まで全部全部雪乃の血で染まった身体と、赤のような紫のようななんとも形容しがたい色をした肉片たちと大きな赤の池を作ったベッドを交互に見て絶望に心が潰される。ベッドの上にいたはずの彼女はそのなんとも形容しがたい細かな肉片に姿を変えていたのだ。彼女の全ては、俺の腹の中。俺が大好きだった雪乃は、もう俺の腹の中にしかいないのだ。しかもそれだっていずれは消化され体内から排出されてしまう。

「雪乃…ごめん…俺、こんなつもりじゃ…」

 そう、本当はこんなつもりじゃなかった。ちょっとだけ、そう、ほんのちょっとだけ食べて終わろうと思っていたんだ。病院に行けば何とかなるくらいの量を食べて終わろうと思っていたのに、止められなかった。獣が俺の中から飛び出すのを、押さえつけられなかった。

けれどどれだけ言い訳しようと結局俺の中の獣だって俺自身だ。すべての罰は俺にあるんだ。俺が雪乃を食べたいといったから…。雪乃の優しさに甘えたから…。雪乃は、死んだんだ…。雪乃を、殺してしまったんだ…。

「雪乃…雪乃…」

 俺の頬に涙が伝う。その雫は顔に張り付いていた今はもういない彼女の血とまじりあい赤に染まる。赤のしずくが、地に落ちる。ぽつぽつ、ぽつぽつと、止めどなく落ちる。それは地で弾けて跡形もなく消えてしまった、まるで雪乃の命のように。

「お兄ちゃん…泣かないで…」

 絶望と悔しさのあまりとうとう幻聴まで聞こえるようになってきてしまったか。俺は自嘲気味な笑みを浮かべてまたせっせと涙をこぼす。

「お兄ちゃん…大丈夫…私は、生きてるよ…」

 ふと、俺の体がまた何かに包まれた。それはつい先ほども感じた暖かさで、俺の心が自然と落ち着くものでもあった。

「ゆき…の…」

「うん…お兄ちゃん…私はちゃんとここにいるよ…」

 何も纏っていない素肌の雪乃の熱が、俺の涙を乾かしてくれた。涙だけでない、悔しさも絶望も悲しみも後悔も、すべてすべて彼女の熱により溶かされ消え去ったのだ。今ここにいるはずもない彼女の熱で、俺の全てはゆっくりと溶けていった。

「大丈夫なのか、雪乃?身体は、痛くないのか?」

「全然痛くないよ。お兄ちゃんが食べた痕も残ってないし」

「そう、か…」

 と、俺はここで一種の恐ろしさに似た何かを感じた。雪乃が生きていてくれたことはありがたいのだが、どうして生きているのだ?ほとんど跡形もなく食べつくしたはずなのに、なんで生きているんだろう。その単純な疑念は俺の中に不安を引き起こすには十分すぎた。

「雪乃…お前、どうして…」

「えへへ…私、不死身みたい…」

 恥ずかしそうにそう笑った雪乃だが、その本心は窓から差し込む眩い朝日によって知ることはできなかった。


「なんだよ…これ…」

 その日終わったのは、なにも俺たち兄妹の普通の関係だけではなかった。世界が、終わったのだ。そう、何の前触れもなく唐突に、いつもと変わらぬ朝を迎えながら、それでも世界は滅んだ。聖書かなにかでは世界終末の際にはそれを告げるラッパかなにかの音が響くとか書かれていたが、結局そんなことはなく、世界は無音にして終わりを告げた。

「誰も…いない…?」

 身体に浴びた血をシャワーで洗い流した後何気なく覗いたベランダからの風景に俺たち兄妹は固まった。外に誰もいないのだ。通学途中の小学生やゴミ出しをする隣人、通勤のために走る車、さらには朝を告げる鳥たちも、何もかもいなくなっていた。窓から見える風景は確実な無音。

「お兄ちゃん…テレビ、映らないよ…」

 テレビも黒い画面から全く変化がない。試しにチャンネルを変えるがどこも同じで真っ黒な画面に俺たちの不安げな顔を反射して映すのみだった。さらに念のために押し入れの奥から父親が愛用していたラジオを取り出して電源を入れるがどれだけチューニングしてもノイズのざざぁ、という音が鳴りやむことはなかった。

「まさかあの噂…本当だったのかよ…嘘だろ…ドッキリだとしたら趣味が悪すぎるし…」

 いまだに信じられない。昨日聞いたあの滅亡のうわさが本当になるなんて。けれど俺の中に生まれた感情は信じられないといった驚愕ではなく、よかったという安堵だった。

 人類、いや、下手すれば動物すらいなくなったこの世界で俺の好きの気持ちを邪魔するものはいない。俺たちは堂々と兄妹で恋をすることができるというわけだ。そう考えて自然とこみあげてくるにやけた笑みを必死に抑える。

「お兄ちゃん…どうしよ…私たち、これからどうやって生きてけばいいの?」

「大丈夫だ雪乃…確か…」

 俺は雪乃にこのマンションの設備についての説明をした。例の大震災の後に建てられたこのマンションは耐震性が高く、それどころかあらゆる事態に備えて水の貯蓄、太陽光による発電、さらには独自の浄水システムが組み込まれている。この設備があれば余裕で一、二か月過ごせる、と雪乃に説明してやると彼女は安心したように顔を緩ませる。そのシステムがちゃんと働いているのはさっきシャワーを浴びた時に証明済みだ。

「あ、でも…ご飯とかどうしよ…」

「とりあえず近所のスーパーから缶詰とか長持ちしそうなもの集めてくるか」

「お金はどうするの?」

「こんな非常事態にまじめだな…」

「そう、だよね…今って非常事態なんだよね…」

 いずれ食料は底をつくだろうが、それはまだ先のことだろう。その時のことはまた後程考えるとして、次はどうするか。俺は今まで読んだサバイバル系のマンガを思い出す。

「そうだな…俺いったん外に出てくるよ。もしかしたら誰かいるかもしれない」

「わかった。それじゃ私は食べ物探してこようかな」

 というわけで俺たちは外へ出た。雪乃は自転車を、俺は父が遺してくれたバイクを走らせて街中を駆ける。もしかしたら、と淡い希望を抱きながら。


 けれどその希望もすぐに打ち砕かれた。隣り街へ行っても誰もいない、さらに遠くへ行くがやはりそこも無音の空間だった。声を張り上げるが返事はない。世界には俺が放つ音しか響かなかった。そしてその静寂は、俺にあることを気付かせた。

「もう、あいつらも…いないのか…」

 思い出されるのは友人の顔。いつもバカな話しかしていなかった黒崎に春宮、あのバカみたいなノリにうんざりしていたが心のどこかではそれが心地よかった。露子とももっと本のことについて話したかったな。そういえばあいつは今日何を言いたかったのだろうか。

 いなくなった親友の顔を思い出し涙がこぼれた。どうして俺は、俺たち兄妹だけは生き残ってしまったのだろうか。もしも俺たちもアイツらと一緒に消えていれば、つらい思いも罪悪感も抱える必要もなかったのに。

 けどどれだけ泣いたって世界に音は戻らない。ただただ静かな世界に俺の泣く声が染み渡るだけだった。その虚しい声音は地面に染み渡り小さな染みを作った。


 これが世界が終わった日の記録だ。あの日から俺はほんのわずかな希望を抱えて普段通り学校へと向かった。もしもだれか生き残っていた奴が登校してこないかと願ったのだ。そのもう一つの理由としては家事がめっぽう苦手で雪乃から一切手伝わなくていいからといわれたというのもあるが、本当の理由はさっき言った通り生存者を探したかったからだ。そうじゃないと、罪悪感に潰されそうになったからだ。どうして生き残ってしまったのかという罪悪感で。

「雪乃…雪乃…!」

「はぁはぁ…お兄…ちゃん…んぐっ…!」

 そしてあの日から俺はずっと、毎夜ごとに妹の体を貪り喰った。しかもそれだけでなく、とうとう兄妹の一線も越えてしまったのだ。目の前に横たわる大好きな少女の裸、それに我慢できる男がいるだろうか?というわけで俺も健全な青少年でそう言うことには興味津々なわけで、さらには世界に誰も俺たちの仲を咎めるものがいないという現状に、気がつけば体を交わらせてしまっていたのだ。妹の体を抱きながら、妹の体を喰らう、それは嗜好の背徳的快楽となって俺の脳内を揺さぶらせた。その中毒性の高い快楽を俺は夜毎に楽しんだ。これ以上はやめよう、そう思うのだがやめられなかった。

「私は大丈夫だよ、お兄ちゃん」

 雪乃のその言葉が、俺の決意を揺るがせる。儚げな、それでいて嬉しそうなその顔を見るたびに俺は彼女の優しさに甘えてしまうのだ。彼女は初めて一線を越えた時にさえこの顔を浮かべて大丈夫と言ったのだ、罪悪感に潰されて泣きそうになった俺の頭を撫でながら優しくほほ笑んで。その異常なまでの優しさに俺は依存してしまったのだ。どうしようもなく残酷で静かなこの世界に残るたった一つ与えられた優しさを孕む声に、縋り付くしかできなかった。


 ―私は毎夜ごとにお兄ちゃんに食べられる―

 お兄ちゃんは普段は優しい目をして私のことを見るけど、夜になるとぎらぎらとした、まるで獲物を狙う獣みたいな目で私を見てくる。それはお腹が空いたというお兄ちゃんの無言の合図だ。優しいお兄ちゃんは初めて私を食べた日以来私のことを食べたいとは一言も言っていない。それはきっと私のことを傷つけまいとガマンしているから。私は死なない異常な体だというのに、お兄ちゃんは私のことを気遣ってガマンしてくれているのだ。

「お兄ちゃん…お腹、空いたんだよね?いいよ、私を食べて。私のことは大丈夫だから…お兄ちゃんの好きなようにして」

 けれど私はそんなお兄ちゃんを見ているのが辛くていつもそう言った。すると途端にお兄ちゃんは嬉しそうに、けどそれを表に出さないように深刻そうな顔を浮かべて、ほんとに大丈夫か、って尋ねる。けど最後には本能にはあらがえないのか私の体を貪るようにして食べる。そしてついでとでも言わんばかりに、私のことを抱くのだ。別にそれに不快感はない。むしろ最愛のお兄ちゃんだからいいかなとさえ思ってしまっている。けれどそれが好きという感情からくる許しかどうかはわからない。お兄ちゃんは私のことを好きと言ってくれた。確かに私もお兄ちゃんのことが好き、昔から優しくしてくれて存分に甘えさせてくれてダメな時はちゃんと叱ってくれて、両親が死んだ時も慰めてくれて、けれどその好きはいわゆる兄としての好きではないのだろうか?私はそんなぼやけた好きの気持ちを抱きながら、今日もお兄ちゃんに抱かれ、食べられる。

「私は大丈夫だよ、お兄ちゃん」

 その言葉通り、その行為に嫌な部分なんて全くない。お兄ちゃんに食べられるとやっぱり痛いけれど、でもそれでも嫌なんて感じたことはなかった。むしろ、嬉しかったのだ。嬉しいといっても私がどうしようもないマゾヒストだから、とかそんなつまらないものではない。私の嬉しいは、お兄ちゃんの役に立てたという満足感にも似た気持ちからくるものだった。

 さっきも言ったようにお兄ちゃんは私に優しくしてくれる。慰めてくれたり励ましてくれたり、時には叱ってくれたり…。でも私はお兄ちゃんになにもできていない。お兄ちゃんに私はもらってばかりなのだ。だから私は、お兄ちゃんに恩返しがしたかった。今までの優しさを返してあげたかった。だから、私はこの身を差し出した。お兄ちゃんが一番欲していた私の体を。そのために肉が引きちぎられる痛みも、骨が抉り取られる痛みも、内臓を力任せに抉り出される痛みも、ましてや死ぬ痛みも、いや、痛みだけではない、私の女の子の部分に押し込まれるお兄ちゃんの獣的感情も、すべて受け入れようと誓ったのだ。それが、お兄ちゃんが私に初めて求めてくれたことだから―。

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