[5]

 夜空には真っ黒な雲が広がり、遠雷の音とともに雲の切れ目に光が走った。時刻は午後8時を回った頃だった。

 タクシーが真壁の車の前に停車した。後部座席に誰もいないのを確認していると、マンションからサユリが出て来た。白いワンピースに赤いヒール。ブランド物の革バッグを提げて、タクシーに乗り込んだ。出勤だろうか。

 真壁はタクシーと距離を十分に取ってから、ゆっくりと車を発進させた。昼間、不動産屋にあたって意外な事実をつかんだ。203号室の借り主は久元本人だった。女のもとに通っているのではなく、女を囲っている疑いすら出て来た。

 タクシーは国道14号に出ると、西永福の交差点から井の頭通りを北上した。真壁は運転しながら、脳裏の隅に池内涼太を浮かべた。古閑のマンションで昨夜目撃された男は、涼太で間違いないだろう。だが、衣類の上に落ちていたプラスチックの破片は。タクシーの後部座席にいるサユリの手元を真壁は思い出した。ネイルチップ。だとしたら、あの部屋に女もいたのか。

 吉祥寺駅の北口で、サユリはタクシーから降りた。吉祥寺通りへ歩き出すサユリを見ながら、真壁も車を降りて歩き出した。サユリが交差点を右へ曲がった時、真壁はジャケットの携帯電話が震え出すのを感じた。

 真壁は前方を歩くサユリの背に眼を離さず、電話を取った。相手は上岡だった。

「北新宿の独身寮で、中学生のガキが捕まったんだが・・・」

「中学生?名前は?」

「池内、涼太って名前だ。それで、お前に話があるって」

「今は手が離せません。どんな話です?」

 電話の奥で誰かと少し話すような音がしたかと思うと、真壁の脇を黒いフルフェイスのヘルメットを被った男が乗ったミニバイクがすり抜けた。

「自分はアキラを殺してない。殺したのはサユリって女で、写真もあると」

 上岡の言葉に、真壁は思わず耳を疑った。その瞬間、バイクはサユリの背後で速度を緩めた。そして狙いを定めるや一気に加速し、突き出した左手でサユリのバックを奪い去った。すぐ右の角を折れ、排気音を残して視界から消えた。

「ひったくりだ!」

 誰かが叫んだ。酔っ払いの集団の向こう、眼を見開いたサユリが放心したように立っている。「警察を呼べ!」

「何だ?どうした?ひったくり?」

 上岡に答えようとして、真壁は刹那、サユリから眼を離した。また、誰かが叫んだ。

「彼女はどこへ行った?」

 真壁は路地を見回した。前方にいたはずのサオリの姿が無い。

 サユリには何か警察と接触できない事情があるのか。自分が尾行していた「サユリ」が古閑を殺したのか。脳裏のバラバラな思考をまとめようとして、真壁はその場に呆然と立ち尽くした。

 突然、ある考えが浮かんだ。眼元まで伸びたサユリの前髪が脳裏によみがえり、両眼の奥がかっと熱くなった。

 真壁は震えた声を出した。

「久元は今どこにいますか?」

「今日は休み。千葉の実家に戻ると言ってた」

 真壁は路地を駆け戻り、車に乗り込んだ。荒々しくハンドルを取り回して車を出した。想像が当たっているなら、サユリは何をおいても方南町のマンションへ戻る。

 数十分後、マンションが見えてきた。路地の奥にタクシーのランプが消えていった。白いワンピースが転がるように飛び出して来た。サユリだ。ブレーキでは間に合わない。脳がとっさに判断し、ハンドルで避けた。

 センチの単位でかわした。急ブレーキをかけ、真壁は車から降りた。サユリは道路に倒れていた。

「おい」

 呼びかけた途端、サユリは慌てて立ち上がり、両手にヒールを握って裸足で走り出した。

「待て!」

 サユリが逃げる。

「待つんだ、久元!」

 足音が止まった。振り向いた拍子に前髪が乱れ、太い眉毛が露わになった。

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