[2]

 6月15日、午前1時33分。

 気晴らしに、真壁はドアの数を数える。入居は15戸。どの部屋もワンルームか、せいぜい2間の造りだろう。建って間もないらしく、クリーム色の外観は美しい。悪い虫。当たっていそうな気がする。歓楽街に働く女たちが好んで入居しそうなマンションだ。

 そのとき、タクシーが徐行しながら、真壁の車の前を通過した。後部座席に頭がひとつ。前方に身を乗り出している。運転手に道を指示しているようだ。

《本当に来やがった・・・》

 真壁は身体を強張らせた。心臓が自然と高鳴った。

 タクシーはマンションの前を通り過ぎ、20メートルほど先の路上でブレーキランプを真っ赤に染めた。小柄な男が降りてきた。その顔が道端に置かれた自動販売機の明かりに浮かび上がった。20歳と言っても通りそうなその童顔は、紛れも無く久元だった。眼鏡は違う。金縁ではなく、鼈甲だかプラスチックだかの茶色っぽい縁取りだ。変装でもしたつもりなのだろうか。

 久元はマンションの前で辺りをうかがい、足早に外階段を上がった。2階の外廊下を歩き、右から3番目のドアを鍵で開け、中に消えた。すぐにキッチン窓の電気が点いた。他の窓はマンションの反対側で見えないから、既に女が部屋にいるのか、それともこれから帰ってくるのか、真壁は判断しかねた。

 1時間ほど経つと、他の部屋には動きがあった。ひと目で水商売と分かる身形の女たちが1人、2人と帰宅してきた。3人目は男連れだった。2人ともかなり酔っていて、ドアを開けようとする女の体を男がまさぐり嬌声が上がるのを聞き、真壁は暗澹とした。

 久元が入った部屋はどうだろうか。最初から女がいたとすれば、互いの体を確かめ合う時間はとうに過ぎている。

 真壁は車を降りた。梅雨の湿気が体にまとわりつき、苛立ちはさらに増した。マンションの外階段を静かに上がり、久元が入った部屋のドアの前に立った。プラスチック製の表札が貼ってあった。ローマ字で書かれている。

 サユリと読めた。

 ドアに耳を寄せた。静かだ。中の音は聞こえない。

 階段にヒールの音がした。真壁は慌てて体を翻し、外廊下を音の方に向かった。階段を上がってきた太めの女とすれ違った。足を止めずに振りむく。女は「サユリ」の部屋を通り過ぎて、奥の部屋のドアに鍵を差し入れた。

 真壁は車に戻った。喉が干からびたようにかさついている。

 サユリの部屋を見つめる。その眼にも水分が不足しているように感じた。眠気も襲ってきた。間もなく午前3時だ。

 部屋のドアが開いた。真壁は息を呑んだ。数秒後に出て来たのは、サユリ独りだった。久元は姿を現さない。

 真壁は目を凝らした。

 背がすらりと高い。肩までの髪は、茶髪というより金色に近かった。ラメの入ったピンク色のTシャツを着ている。外階段を降り、川にかかる橋を渡った。左へ曲がり、方南小学校交差点横のコンビニに向かうらしい。

 左に角を曲がったのを見届けて、真壁はエンジンを始動させた。ヘッドライトは点けず静かに車を進め、サユリが入ったコンビニの前の路地に停める。

 胸は豊かだが、腰の線は細い。ぴったりの黒いミニスカートを身につけ、蛇柄らしき複雑な模様が入った紫色のパンストを穿き、踵の高いサンダルをつっかけている。

 サユリは雑誌を立ち読みしていた。顔が見える。真っ赤な口紅。前髪は長く、マスカラのきいた眼元に届きそうだ。年齢は20歳半ば。若いわりに化粧が濃い気がするが、美形であることは遠目からも分かる。

 風俗関係とすれば厄介だ。そうした女には十中八九、ヤクザの知り合いがいる。

サユリが動いた。雑誌とカップ麺、ジュースのペットボトルをレジに差し出した。雑誌を手にした若い男がサユリを盗み見ている。胸の膨らみから露わな太腿へと視線が舐める。サユリは気づいている。男の絡みつく視線を愉しんでいる風に、真壁には見えた。

 サユリは来た道を戻って部屋へ帰った。

 結局、久元がアパートから出て来たのは午前4時半。部屋から呼んだタクシーに何食わぬ顔で乗り込み、キャリアの坊ちゃんの火遊びの時間はようやく終わった。

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