新宿巡査Ⅳ
伊藤 薫
[1]
6月14日、午後11時58分。
真壁仁は杉並区和泉四丁目の駐車場にレンタカーを停め、3階建てのマンションを見ていた。ラジオは切り、タバコも吸わない。手にした缶コーヒーの温もりだけが気を紛らわせてくれる。1時間ほど前、上岡英昭から相手が官舎を抜け出し、タクシーを拾ったという電話があった。こちらに向かったのなら、もう着いているはずだ。
直属の上司である新宿西署地域課課長代理の上岡から「ちょっと相談事があってな。今夜、合流せんか」と言われたのは昨日の夜だった。
歌舞伎町交番で午後4時までの「第一当直」を終え、真壁が居酒屋の暖簾を割ったのは、約束の時間を1時間も過ぎた頃だった。満席の店内を見回すうち、奥の小あがりで手が上がった。相談事というのはそれなりの内容らしい。
「駆けつけ3杯といくか」
上岡は、真壁が座るのを待たずにビール瓶を突き出した。真壁は会釈しながら、ジョッキにビールを注いでもらい、乾杯した。ジョッキをテーブルに置き、真壁は声を潜めた。
「で、相談事というのは?」
上岡は辺りを見回し、忍び声を出した。
「実はな、うちの署のキャリアの坊ちゃんに悪い虫がついたらしい」
真壁は瞬きを重ね、思考はすぐに行き当たった。「うちの署のキャリアの坊ちゃん」といえば、昨春に就いた刑事課知能犯係長のことだ。
キャリアの名前は、久元由夫。名前こそ思い出せたが、着任の際、眼にしただけのその顔は輪郭すらも浮かんでこなかった。
「悪い虫とは何です?女のことですか?」
真壁が嫌な予感を感じつつ言うと、上岡はふっと頼りなげな表情を見せた。
「まぁ、そんなことだろうとは思うが・・・」
「相手は分かってないんですか?」
「3日前に携帯電話でタレ込みがあった。久元が女のマンションに入り浸ってるってな。方南町の弁天橋東緑地近くのマンションだそうだ」
「女を追っ払えってことですか?」
「いや・・・女の身元、どんな奴か分かればいい」
鈍い表情ばかりを浮かべる真壁に、上岡はテーブルに身を乗り出した。
「いいか、真壁。お前が一番苦手な話だというのはよく分かってるが、よく聞け。久元の親父は、第二方面本部の本部長。今のウチの署長と同期なんだ。刑事任用試験の推薦の件だが、お前の成績なら申し分ない。署長への最後のダメ押しだと思って、やってくれ」
真壁はひとつうなづいてみせた。
「タレ込んできた人間は分かってるんですか」
「非通知で、聞き覚えのない声だった」
「で、係長の久元はどんな人物なんです?」
「とびっきりの上玉」
上岡は身分証明書サイズの顔写真をテーブルに這わせた。
可愛らしいといった形容が当たる。眼も鼻も口も小づくりで、いかにも育ちのよさそうな顔立ちだ。オールバックの髪に金縁眼鏡を掛けているあたりは、なめられまいとする内面が現れている。
「気張って乗り込んできたんだが、最初にコケちまってな」上岡は続けた。
着任早々、選挙違反事件の打ち上げがあった。本部五階の道場で知能犯係の面々が茶碗酒を酌み交わしているところに、一升瓶をぶら下げた久元が現れた。部下たちの間に積極的に飛び込んで意思の疎通を図ろうと、顔を紅潮させた久元は宴席の真ん中に胡坐をかき、一升瓶の首を握って勇ましく酒を注ごうとした。しかし、華奢な腕は酒瓶の重みに耐えられず、二の腕まで無様に震え、祝いの酒は久元の真新しいズボンに注がれた。
「それで、女に逃げたってわけですか」
「皆がお前ほどクールなわけじゃないさ」
そう言って笑う上岡の顔と自分の顔、久元の童顔を相互に脳裏で見比べて、こういう男たちが警察という一枚看板を掲げているのが、真壁には異様に思えてきた。
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