第55話 革ツナギ
寝る前に奇妙な時間を過ごした舞は、布団に入るとあっさりと眠気が訪れ、そのまま夢も見ぬほどの深い眠りを貪った。
翌朝はお婆ちゃんが届けに来た朝食を仁樹と一緒に食べたが、彼の顔がまともに見られない。
まだ唇に夕べの感触が残ってるような気がした舞は、それを打ち消すように朝食をかきこむ。いつもと変わることなく朝食を口に運んでいる仁樹に少し苛立ちを覚えた。
朝食を終え、歯を磨いた舞は、入れ替わるように洗面所で歯を磨いている仁樹の横顔を盗み見ながら、指先でそっと唇に触れた。夕べしたことを思い出し顔が赤くなった。まだ唇が仁樹の頬を覚えている。
舞は自分の頬が少し緩んでいることに気づいた。きっとこの後に待っている時間のせいだろう。
朝食を終え、ジャージに着替えた舞はお婆ちゃんの案内に河原に出て、昨日乗ったホンダRC30に再び跨った。エンジンを始動させると同時に舞の心臓が熱くなる。夕べ仁樹に触れた時と似ていて違う感情。でも、今はこっちのほうが深い。
仁樹にとってのフェラーリもそうなんだろうか、と舞は少し思った。
お婆ちゃんが所有する敷地だという広いアスファルト舗装のスペースで、舞はお婆ちゃんに言われた通り走る。内容は昨日のおさらいのような感じだった。走り、曲がり、止まることをあらゆる状況で繰り返す。
午前中一杯バイクで走り回り、昼が近づいてきた頃、お婆ちゃんは舞に言った。
「今日はこれで終わりね」
ヘルメットを取った舞は、お婆ちゃんではなく仁樹の顔を見た。仁樹は表情を変えぬまま言う。
「帰るぞ」
仁樹の言葉で舞は気付いた。修学旅行の予定は二泊三日。京都、奈良を観光している同級生はもう帰り支度をしている頃。
明日からは一般の授業が始まる。結局のところ修学旅行に参加することは無かったが、授業まですっぽかすわけにはいかない。
京都で仁樹が乗っていたバイクに出会い、夢のような時間を過ごした舞は、白いカウルに触れながら言った。
「これで帰りたいな」
まだ免許を持ってない舞にとって、まだナンバーすらついてないバイクは離れがたいものになっていた。理屈ではわかってる、でも、もうちょっとだけ走りたい。
お婆ちゃんが舞の肩に手を置いて言う。
「少しだけ待ってちょうだい。車検通して東京まで届けてあげるから」
グローブを外した舞は、契約を交わすように掌をガソリンタンクに押し付けながら言った。
「免許取ってまた来ます、それまで、このバイク、お願いします」
お婆ちゃんは微笑みながら頷いた。
バイクを降り、敷地の隅にあるプレハブの整備ピットまで押して行った舞に、お婆ちゃんは言った。
「これに乗るなら、革ツナギがいるわね」
そう言うなりお婆ちゃんはメジャーを手にして、舞の体のあちこちを勝手に測り始めた。舞はこの京都でレース活動をする人たちを支援しているお婆ちゃんが革ツナギの仕立て屋で、お婆ちゃんの作ってくれたツナギのために命を救われたレーサーは多いということを聞かされていた。
お婆ちゃんが舞の胸部にメジャーを回し、88cmのサイズに驚いている。舞は仁樹に聞かれなかったかと周りを見回したが、舞がバイクの練習中ずっと黙って見ていた仁樹はいつのまにか居なくなっている。
結局、そのままお婆ちゃんのなすがままに体を測られた舞が、お婆ちゃんの出す色見本のファイルを見てツナギのカラーを選んでいると、仁樹が整備パドックに入ってきた。
手には黒い大きな荷物を持っている。仁樹はそれを舞に見せるように広げながら言った。
「革のライディングウェアならこれを使わないか」
仁樹が見せたのは、バトルスーツと言われる、黒革のライダースジャケットとレザーパンツの肩、腕、膝、腿に装甲のようなプロテクターのついたもの。
写真の中でだけ知っている十代の頃の仁樹が着ていた物。舞はバトルスーツを上から下まで眺めた。
身長が仁樹とほぼ同じ舞なら着れなくもないだろう。仁樹が着ていた革ジャケットを貰った時はピッタリだった、でも、このバトルスーツは女子の目から見ればあまり趣味いいとは思えない。
女子の一部が着るフリル一杯のワンピースを男子が見た時はこんな気分になるんだろうか、と思いながら舞は答えた。
「やだカッコ悪い」
結局、舞はお婆ちゃんが仕立てて貰った革ツナギを着ることにした。
舞の言葉を聞いてあっさりバトルスーツを引っ込めた仁樹の表情は変わらなかったが、なんだかガッカリしているようにも見えたので、一応その人前では恥ずかしくて着られないライディングウェアも貰ってやることにした。
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