第53話 鴨鍋
同級生が修学旅行の二日目を迎える日、舞は河原に作られた即席のコースで、バイクに乗る練習に励んだ。
お婆ちゃんの指示に従って狭路や坂道の走行、急発進と急制動などを繰り返す。いつのまにか陽は高く昇り、ジャージが汗ばんでくる。
昼の休憩を挟んで午後も走り続けた。ほぼレース車両に近いまま市販されたホンダRC30は重くポジションも前傾がきつく、教習に向かないと思ったが、お婆ちゃんはこのバイクと同系統のVFR750Fは教習車としても数多く導入されたと言う。
丸め込まれたわけではないが、夢中で走ってるうちに違和感は消えて無くなった。どっちにせよ舞はこのバイクしか知らない。
お婆ちゃんが走行中の舞に色々な助言を与える中、仁樹は何も言わず舞とRC30を見ていた。時々お婆ちゃんの作業を手伝うくらいで練習には干渉しない。
一日が終わる頃、舞にとってRC30は買い物でよく乗っていた自転車よりも体に馴染んだものになった。
舞の行動力を増すツールで、これ以上自然に身につけられるものはジョギングに使っているナイキのランニングシューズしか知らない。
日没に合わせるようにお婆ちゃんが練習の中止を宣言し、舞と仁樹は泊まっている離れの茶室に戻った。
疲労のあまりそのまま畳の上に崩れ落ちそうになる舞。仁樹は入室するなり無駄のない歩調で茶室の奥に作られたバスルームに向かう。
舞は畳から起き上がって仁樹の肩を掴んだ。一日中バイクで走り回った舞を差し置いて先に入浴しようとする仁樹が気に入らなかった。それに、今なにもせずに仁樹が風呂から上がるのを待っていると、そのまま眠ってしまいそう。
だからといって仁樹を押しのけて先に風呂に入るのは少し行儀が悪いかな、と少し思った。自分が入った後の風呂に仁樹が入る様を想像すると少し恥ずかしい。
自分が先か、仁樹が先か、たかが風呂の順番で迷った舞の頭に、それを解決する方法が思い浮かんだが、必死で打ち消すように頭を振って、掴んだ仁樹の肩をグイっと引く。
「わたしが先に入るわよ、いいわね?」
仁樹は足を止め「わかった」とだけ言って茶室の隅に座り、さっさとノートPCを取り出して何かの作業を始めた。
舞は相変わらず話し甲斐の無い相手に少し頬を膨らませながら、浴室に向かった。
もしも仁樹がどうしても一番風呂に入りたいというなら、そうさせてあげても良かったのに。
もちろん、舞も先を譲る気は無い。それにここの風呂は広く、もう一人入るのに充分な余裕がある。
舞と仁樹が交代で風呂に入った後で、お婆ちゃんが夕食を届けに来た。
昨日の上品な京風おばんざいとは違う、ボリュームのある鴨鍋。
鴨が一羽丸ごと入ってそうな鍋を、舞は旺盛な食欲で平らげた。骨ごとブツ切りにされた腿肉に食らいつきながら、自分は草食の生き物にはなれないと思いながら向かいの仁樹を見る。
仁樹は憎たらしいほど上品な仕草で胸肉から骨を取り除き、猫舌の彼らしくタレの入った小鉢に置いている。
骨を吐き出した舞は仁樹の小鉢から鴨の胸肉を奪い取った。あっさりしていながら鶏肉には無い旨みが口中に広がる鴨を頬張りながら、仁樹に勝ち誇った顔をしてみせた。
仁樹は奪われた鴨肉のことを気にもせず、鍋から豆腐を器用に摘み取っている。
反応の無い仁樹に腹が立った舞は、仁樹が取った豆腐を箸で指した。家じゃこんな品の無い仕草はしたことが無いけど、今はマナーを注意する姉や妹も居ない、見ているのは仁樹だけ。
「それもよこしなさい」
舞と自分の摘んだ豆腐を交互に見た仁樹は、そのまま箸で摘んだ豆腐を舞の顔面に突き出してくる。
突然のことで少し動揺したが、彼の前で弱みを見せてはなるまいと思い、口を開けて仁樹の豆腐を食べた。
鴨に負けないほど上等な豆腐だということはわかったが、舞は正直あまり味がよくわからなかった。
仁樹は普通の料亭なら四~五人分はありそうな鴨鍋の中をから、もうだいぶ少なくなった鴨を摘み取りながら言う。
「豆腐、もし箸で取れないなら蓮華を貰ってきてやろうか」
さっき仁樹に豆腐を食べさせて貰った時にも平静を保っていると思っていた舞の顔が赤くなる。
「なっ何言ってんのよ!別にレンゲとかいらないし!」
舞だって箸で豆腐を取ることぐらいできるし、こんな奴に子供扱いされる謂れなど無い。
でも、今日は一日中バイクに乗っていて疲れているから、せいぜい利用できる男はしてやろうと思った。
「トーフ、もういっこ」
仁樹がさっきと同じように鍋の中から豆腐を摘み上げ、舞に突き出す。
舞はとてもご機嫌な顔で、アーンと口を開けた。
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