第49話 純白の美姫
仁樹の手を引くような、引かれるような形で、舞は旅館の女主人に従って渡り廊下を歩いた。
そのまま町屋造りの母屋の裏手に回りこむと、手入れの行き届いた庭園の木々によって巧妙に隠されるように、幾つかの土蔵が並んでいる。
土蔵の一つの前に立った老婆は、表戸の鍵穴に古臭い鍵を差し込み、分厚く重厚な見た目に反し軽く開く観音開きの戸を開けた。
内部は舞の暮らす家の一階にある、仁樹のガレージを思わせるスペースだった。
建物に不似合いな蛍光灯で煌々と照らされた土蔵の中はコンクリート敷きになっていて、左右の壁には工具が並んでいる。
仁樹のガレージと異なるのは、中央に置かれているのが車ではなくバイクだということ。
二十坪はありそうな土蔵の中には磨き上げられた十数台のバイクが並べられている。
街のバイク屋のショールームか在庫倉庫のような感じだけど、バイク屋にありがちな雑多な感じはしない。床も壁にかけられた工具もオイルの染み一つない。
どちらかといえば街のバイク屋よりも、舞が以前父にドイツに連れてって貰った時に見た高級カスタマイズショップの工場のような感じ。
様々な車種が並べられたバイクの中に、ひときわ目立つバイクがあった。
レーサーレプリカと呼ばれる、車体をカウリングに覆われたバイクで、通常はカラフルな塗装が施されている外装のカウル類は真っ白な下地のままで、製造メーカーのロゴすらない。
舞がこの白いレーサーレプリカに他のバイクとの違いを感じたのは、その白いバイクから伝わってくる、走ろうとする意志。
もしもこのバイクに跨ってエンジンをかけ、外に向かって走り出したら、乗り手の命が尽きるまで走り続けそうな雰囲気を宿していた。
舞は白いバイクに歩み寄り、ガソリンタンクにそっと指を触れる。いつのまにか背後に立っていた旅館の婆さんの、囁くような声が聞こえた。
「ホンダRC30」
今から三十年ほど前、仁樹のフェラーリより少し後にホンダより限定発売された750ccのバイクで、公道を走行可能ながらほぼレーシングスペックに近いと言われたバイク。
実際に発売後多くのレースに勝利したが、そのうちの幾つかでは、タイヤを替えてヘッドライトの穴を埋めるだけの小改造しか施されてなかったと言われている。
今までバイクに関しては、自転車より便利だけど金を払って買うほど便利ではない物という印象しか無かった舞は、目の前の白いRC30を魅入られるように見つめていた。
そこで舞は思い出す。今より少し前。仁樹に見せてもらった一枚だけの写真。彼がフェラーリに出会う前、バイクに乗っていた時の姿。
舞は仁樹を振り返る。仁樹は舞の問いをわかっているかのように答えた。
「俺が乗っていたバイクだ」
舞の顔が赤くなった。珍しいバイクに見とれるなんて馬鹿な男のような真似をしたことや、それが仁樹のかつて選んだバイクだということが無性に恥ずかしくなった。
照れ隠し半分で、舞は仁樹が大事にしていたバイクに少し意地悪をしてやろうという気分になった。レーシングスタンドで直立させられたRC30に、現在の持ち主らしきお婆さんに許しを得ることもなく、いきなり跨った。
ハンドルを両手に持ったが、ほぼタンクに腹ばいにならなければならないほど低い。自転車より楽をするために乗るものなのに、乗ったら疲れそうな姿勢を取らされる、矛盾した乗り物だと思った。
ステップに両足を乗せる。舞とほぼ身長が同じ仁樹が乗っていたバイクだけあって、自然に膝を曲げた位置に足が納まる。乗車姿勢を取った途端、舞はこのバイクが自分の体に装着されたような気分になった。
舞はタンクに顎がつくくらいに下げていた頭を上げ、横に立っているお婆さんを見た。
お婆さんはニコニコと笑いながら言う。
「このバイクは仁樹くんのものよ、でも仁樹くんはもう乗れないって言うの」
舞は首を捻じ曲げて横を見た。仁樹は舞とRC30を見ている。その意外な調和に驚きを感じているように見える表情。
「ねぇ、このバイク、私にちょうだい」
仁樹は少し考える顔をした。それから舞を見て言う。
「十八歳になって、免許を取ってからな」
750のバイクに乗るために必要な大型自動二輪が取得できる十八歳という年齢は、まだ十五歳の舞にはずっと先のように思えた。
十六歳の誕生日を迎える六月さえ、まだ二ヶ月近くある。
舞と仁樹のやりとりを見ていたお婆さんが、仁樹をからかうように言った。
「あら、仁樹くんは免許取る前から乗ってたようだったけど」
仁樹は困惑したように言う
「あの時は免許制度が今とは異なっていた。罰則も」
舞は何か仁樹の弱点でも探れないかと思い、仁樹とこのバイクとの再会を見に来たが、どうやら彼は過去の話には弱いらしい。
それに、もっといいものを見つけた。
舞は自分の体の下で、今にも走り出そうとしている白いバイクを見つめた。
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