第42話 浜名湖

 フェラーリは静岡市にさしかかり、乗り遅れた新幹線を追いかけるという目的は順調に達成されつつあった。

 舞もフェラーリの狂気じみたスピードと音、一向に捕まえようとしない警察、そして無口な運転者に慣れてきた。右側の助手席窓から見える富士山の遠景を楽しむ余裕すら生まれてくる。

 どっちにせよこのスピードでは、周囲の車やロードサイド風景等の、近くにあるものは形を成さぬ奔流にしか見えない。

 仁樹が少しでも運転を誤れば仁樹も舞も、このフェラーリさえも確実に死ぬという問題にさえ目を瞑れば、それまでの道中に問題は無いように思われた。

 高速道路が海に沿って湾曲する由比付近を過ぎたあたりで、太平洋を目前にした舞の身にトラブルが発生した。


 舞はさっきまで、フェラーリの高速走行と絶え間ないレーンチェンジで体を振り回されないよう足をふんばってたが、下半身が少し落ち着きを失い、モゾモゾと腿を摺り合わせている。

 男女でのドライブにおける女性の困り事。生理現象の波に襲われた舞は、視線が泳ぎ始める。高速道路の緑色の看板が読み取ることも出来ぬ速さで後ろに飛び去っていくのを恨めしそうに見つめた。

 舞は自らの緊急事態を仁樹に訴えたくは無かった。なんて言えばいいのか、今、自分が行きたいところやしたい事をストレートに言えるわけない。


 我慢と恥ずかしさで舞の顔が紅潮し始めるが、隣でフェラーリを操縦している仁樹は、超高速での走行という刺激的なドラッグに溺れているかのように、前方とメーターを鋭い目で見ている。

 フェラーリが清冽な水を湛えて流れる天竜川を越えたあたりで、舞の我慢は遂に限界水位にまで達した。

 こうなったら仁樹に正直に言おう、でも車内を満たすフェラーリの騒音に抗い、彼の耳に届くくらいの声であの言葉を言ったら、その勢いで決壊してしまうだろうと思った。

 スカートから雫を垂らしている自分の姿を想像するとゾっとする、でも、舞はほんの少し思った、もしもそうなってしまったら、この男はどんなふうに後始末をしてくれるんだろうかと。


 我慢の限界で思考が暴走し始めた舞を余所に、フェラーリを操縦していた仁樹は、何の予告も無くフェラーリのスピードを落とし始めた。

 それまでの高速走行の反動で、徐行しているかのような錯覚に陥るほどの速度にまで減速したフェラーリは、他車の流れに従うように左端の車線に滑り込む。

 こんな悠長な走りをしていたら間に合わなくなる。修学旅行にも、それとは別の現在切迫したタイムリミットにも。そう思った舞が抗議の声を上げようとしたところ、フェラーリは更に車線を左に移動し、そのまま浜名湖のサービスエリアに入る。

 舞は、どうやら車内で生き恥を晒す事態にならずに済んだことに安堵した。仁樹はこう見えて横に座る自分のことを見ていてくれたのか、と少し思った。


 仁樹はフェラーリをサービスエリア内の建物から遠くも近くも無い駐車スペースにフェラーリを停め、走行中ほとんど喋ることの無かった口を開く。

「点検と給油をする」

 仁樹がこのサービスエリアに入ったのは、フェラーリのためだった。舞にはその事について何かの感情を抱く余裕は無かった。シートベルトを外し、ドアノブに手をかける。

「の、飲み物を買ってくるわ!」

 舞はそれだけ言ってフェラーリから降り、サービスエリアの自販機が並ぶ場所の横、男女の入り口が別れたところに向かって駆けていった。


 舞が憑き物が落ちたようなスッキリした顔でフェラーリを停めた場所に戻ると、仁樹はフェラーリ後部のエンジンフードを開き、中を覗きこんでいる。

 横のフェンダー部分には小型のノートパソコンが置かれ、仁樹は車内とケーブルで繋がったノートパソコンの画面に表示される数字の羅列と三次元マップを、エンジンルームと交互に見ていた。

「壊れたの?」

 仁樹は舞を見ることなく、作業をしながら答えた。

「非常に良好な状態だ」


 すぐに点検作業を終えて、エンジンフードを閉じた仁樹に、舞は自販機で買ってきた冷たいカフェオレの缶を差し出す。

 この男のために何かを買うのは、まるで従順な彼女か何かのようで腹が立つが、舞はさっき自分が経験した我慢と苦行を彼も味わえばいいと思った。

 仁樹が真理の淹れたコーヒーをブラックで飲むことは知っていたが。カフェオレを買ったのは舞の仕返しのようなもので、真理と同じ味のものを彼に飲ませることへの反発でもあった。

 ノートパソコンをフェラーリ車内のグローブボックスに仕舞った仁樹はカフェオレを受け取って言った。

「ありがとう。走っている時は甘いコーヒーがいい」

 仁樹はそう言ってカフェオレを開けて一口飲み、車内のドリンクホルダーに置いた。舞も自分の買ったコーラを置きながら言う。

「ここ、湖のとこまで行ける遊歩道があるんだって」

 仁樹はカフェオレをもう一口飲みながら即答する。

「エンジンをあまり冷やしたくない」


 舞は仏頂面でコーラを飲んだ。やはりこの男の行動はフェラーリが基準になっていて、自分のことなんてひとかけらも考えていない。浜名湖サービスエリアに寄ったのだって、フェラーリにガソリンを入れるため。

 それに、もし、もしも仁樹が、湖でも見に行くか、と言ったところで、舞はこんな男と湖畔の散歩なんてお断りするつもりだった、ただ、どうしても行きたいというなら、嫌々ながら行くことになるんだろうと思った。自分から行くつもりなんて無い、仁樹が少し強引に誘ってでもくれない限り。

 静岡で生まれ育った舞は、この浜名湖サービスエリアと浜名湖畔の遊歩道公園が、日本に十数か所ある恋人の聖地だということぐらい知っていた。

 舞と仁樹を乗せたフェラーリは、サービスエリア内のガソリンスタンドでハイオクを満たし。再び西へと走り始めた。

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