第41話 バンザイ
東名高速を走るフェラーリは神奈川西部のワインディングロードを駆け抜け。三姉妹の故郷である御殿場に達した。
ショルダーサポートのついた競技用のフルバケットシートに比べ、ホールド性能では一歩譲る1980年代フェラーリの古臭いシートで、体を左右に押し付けられていた舞は、吐息を漏らしながら踏ん張っていた足を緩め、握りしめていたドアグリップを離す。
左手首のダイバーズウォッチをチラっと見ると、時間は新横浜駅を出てからまだ一時間と経っていない。
舞の記憶では、ここから先は直線道路。さっきから無謀なドライヴィングをしている仁樹がどれほど飛ばすのかは想像もつかなかったが、今まで舞がジェット機以外で経験したことのない速度になることは間違いないだろうと思った。
静岡県内に入り、東名高速は直線区間に入る。近年の第二東名の開通も手伝い、道は空いている様子
舞は仁樹の横顔を見た。彼はフェラーリの真価を発揮するに相応しい道を目の前に、ごく薄い微笑みを浮かべていた。
さっきまで左右に振り回されていた舞の体が、今度は前後方向に押し付けられる。背がシートに食い込み、体中の水分が後ろに寄って軽い眩暈がした。
高速に入って以来ずっと右半分の高速域を上下していたスピードメーターが、一回転しそうなくらい右へと振り切り、エンジンパワーのピークといわれる上端を中心に左右に揺れていたタコメーターも、右半分の高回転領域へと針を進めていく。
高速道路を走る他の車も、道路周辺の緑地も、静岡の工業地帯も、全て滝の中に投げ込まれたように、その形を失いながら舞の左右を流れていった。
舞は以前、父親からこの東名高速の静岡県内は、今の彼のようなスピード中毒者が集まり、最高速を競うバンザイ・ランと呼ばれる公道レースが行われていると聞いたことがある。
常識も理性的な判断も全て捨てて、ただバンザイと叫んでアクセルを踏むしかない高速勝負。仁樹はそんな狂騒とはほど遠い、穏やかとさえいえる表情のままフェラーリのアクセルを踏んでいる。
隣に座る舞はといえば、こんな自殺行為すぐに止めてほしいところだが、修学旅行に行った同級生の新幹線に追いつき、京都駅での点呼に間に合わなくてはいけないという事情もある。
それに、もしも今、このフェラーリの横に同じくらい狂った車が現れ、スピード勝負を仕掛けてきたら、それに負けたくは無いと思った。
フェラーリが裾野から富士川にさしかかったところで、東名高速は新幹線の線路と並行した。横から白い鉄道が姿を現す。同級生を乗せたこだまかと思い、舞は咄嗟に顔を隠そうとしたが、真横に現れたのは新横浜には停車しないN700のぞみ。
仁樹が横目で左側を見た。自分のことを見られたのかと勘違いした舞は、すぐに彼の視線が舞を素通りし、日本で最も速い鉄道に注がれていることに気付く。
構わず仁樹を睨み返す。新幹線と競争なんてバカなことはやめてよね、と視線で訴えた積もりだが、意識より気持ちに正直な舞の瞳は、相反する別の意志を伝えていたのかもしれない。
ほんの一瞬横を向いた仁樹の視線が前方を見据える。道路は昼間の高速道路にしては珍しく、視界の範囲に一台の車も見当たらない。仁樹はステアリングに装着されたボタンを押した。
スピードメーターとタコメーターの中間。ターボのブースト圧を表示するメーターが動く。フェラーリは今までの最高速を上回る速度で新幹線を追い抜いた。
途方も無いスピードに陶酔のような感情を味わっていた舞は、赤い光に気付く。後ろを振り返ると、フェラーリが追い抜いた車のうちの一台が天井で赤いランプを点滅させ、追尾してくる。
追いかけてきた覆面パトカーはすぐにフェラーリに振り切られる。舞は想像した。もしも今捕まったらどれくらいの罪を課せられるのか。仁樹のことはどうでもいいが、同乗している自分にも何かのペナルティがあるんだろうか。
横で携帯の着信音が鳴る。仁樹はフェラーリを超高速で片手運転しながらツナギの胸ポケットから携帯を取り出す。舞は着信画面を盗み見た。
表示された電話番号の末尾だけ見える。0110。全国の警察署のうちの一つからの着信。仁樹は電話に出た。フェラーリの騒音の中でも、かなり興奮しているらしき相手の声が聞こえた。
警察関係者らしい通話相手は、例の件の借り、とか、今回は見逃すが、とか、今度やりやがったらブチこむぞ、とひとしきり怒鳴りつけている。仁樹は「わかった」とだけ言って一方的に電話を切る。
どうやらこの仁樹という男には、舞には見当もつかないような何らかのコネがあって、この暴走行為を誰かに止めてもらうことは出来ないらしい。
止められるのは、彼の隣に乗っている舞だけ。
そして舞には、止める気など無い。
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