第20話 まるの絵
「仁樹さん、そろそろ夕食が出来るので、まるを呼んできてもらえますか?」
「はい」
「ちゃんとノックして許しを得てから入りなさいよね、女の子の部屋に入るんだからそれくらい常識よ」
革ジャンの件を経て、三姉妹の中で最も仁樹を嫌っていた舞の態度に多少の変化が起きた。
とりあえず夕食の時間に仁樹がリビングに居ても文句を言うことはなくなり、お喋りを楽しむ間柄というには程遠いながら、今までより気軽に声をかけるようになった。
仁樹も変わらないようでいて、舞の言葉に対する返答が僅かに増えた。
舞が仁樹の革ジャンを切り裂いたことについて、無反応な仁樹の替わりに怒っていた真理も、翌日の舞が補修された革ジャンを着ている姿と、案外気に入ったらしく通学に使うようになった様を見て、それ以上追求するのをやめた。
夕食の時間。仁樹は真理に頼まれて三階のリビングから二階へと降りていった。
豪邸というほどではないが一般的な建売住宅より大きな家。二階には玄関と五つの洋間があって、そのうちの二部屋を舞とまるが占めている。
和室の好きな真理の部屋は、リビングとダイニンク、キッチン、バスルームのある三階。防音の行き届いた家は大きな声を出さないと下階までは聞こえず、用がある時は降りていくことが多い。
相変わらず真理の言うことだけには何の疑いも無く従う仁樹は、夕食時の習慣であるネクタイを締めたシャツにブレザージャケットの姿で席を立ち、そのままリビングを出て階段を下りた。
二階に来た仁樹は、引越し荷物を運ぶ時の目印用にドアに名前のテプラを貼っただけの簡素な舞の部屋の前を通り過ぎ、トールペイントの凝ったプレートが掛けられたまるの部屋の前に立つ。
舞に言われた通りドアをノックすると、中からは何も聞こえない。仁樹は真理にまるを連れてきてほしいと言われ、舞に部屋主の許可を得てからドアを開けろと言われた。
仁樹はドアを見て一秒に満たぬほどの時間を思慮に費やした後、ドアを開けた。
引越して僅かの時間で随分散らかった部屋の中では、まるが机に向かい絵を描いていた。
「夕食の時間だ」
ドア前に立つ仁樹に背を向けたままのまるは、仁樹の言葉に手を止め、顔を上げたが、後ろを振り返ることなく答えた。
「お兄ちゃん?今ちょっと難しいとこ描いてるから、真理姉ぇには後で食べるって言っといて」
まるはそれだけ言って絵を描く作業に戻る。仁樹はドア前に突っ立ったまま言った。
「今日の夕食はエビフライだ、真理さんは出来たてを食べて欲しいと思っている」
まるは仁樹の言葉に反応することなく、絵描きのツールとしては珍しいボールペンを動かしている。仁樹は少しの間、一心不乱に絵を描くまるの姿を見ていた。
まるがチラっと後ろを振り返る。目が合うが仁樹は視線を逸らさない。ふぅと息を吐いたまるはペンを放り出し、椅子を後ろに反らして伸びをした。
「しょーがないなーここで終わりー!今行くからちょっと待っててー」
部屋のドア前に立っていた仁樹は、何歩か足を進めてまるに近づいて言った。
「もう少し描いていたいなら、俺から真理さんに説明しておく」
仁樹もフェラーリの整備をしている時、誰に呼ばれても手を離せない時がある。頭の中で組み立てた作業手順は、中断するとそこで幾つかのデータやイメージが失われる。
仁樹も雑誌記事執筆の仕事をしている時は、途中で別の用を頼まれても問題なく引き受けるが、フェラーリを整備する時と走らせる時だけは、真理の頼みごとさえも後回しにする。
まるは一度デスクに放ったペンをしばらくいじくってたが、ペン立てに置いて立ち上がった。
「ん、いいよ別に、大したことない絵だし」
そのまままるは仁樹の手を取り、一緒に部屋を出ようとする。仁樹はデスクの上に置かれた描きかけの絵を見て言った。
「いい絵だ」
「見ないでー!恥ずかしいからー!」
まるは握りしめた仁樹の手を強く引きながら部屋を出た。
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