第19話 修復

 夜半過ぎに仁樹が家に帰ると、舞は灯りの消えたリビングに居た。

 死んだ父が遺した革ジャケットを、それとは知らず仁樹を困らせる目的で自ら切り刻んだ舞は、ゴミ箱から拾い集めて食卓に広げたバラバラの革ジャンを、泣き腫らした目で見つめていた。

 暗いリビングを素通りした仁樹はキッチンの灯りを点け、冷蔵庫からラップをかけられた大皿を取り出す。

 真理は仕事で遅くなるため夕食を共に出来ない仁樹に、夜食を作って置くので食べて欲しいと言った。

 真理が用意したのは鶏モモ肉を衣揚げし、細切りのネギと甘辛いタレを添えた油淋鶏。時間が経って冷めても美味い。

 仁樹は一階のガレージで生活していて、用が無い限り二階、三階の居住スペースには上がってこないが、真理の言葉には無条件に従う彼はガレージに帰ってきてすぐ、律儀に夜食を取りに来た。

 舞はガレージに戻ってくるフェラーリの音と、階段を昇ってくる足音で仁樹が帰ってきたことには気付いてたが、彼がリビングに入ってきても何の反応もせず、涙の筋がついた顔を拭うこともしなかった。

 キッチンの灯りを消し、油淋鶏の皿を手に舞の横を素通りした仁樹は、一度リビングから外の廊下に出たが、すぐに引き返してきた。

 仁樹は暗いリビングの灯りを点けて席につく、舞が顔を上げた。

「私を笑いに来たの?いい気味だって」


 仁樹は衣揚げした鶏と野菜が盛られ、甘辛いタレの小鉢を添えられた油淋鶏の大皿をテーブルに置きながら答えた。

「昨日フェラーリのミッションオイルを交換した。まだ臭いが残っていて、真理さんのチキンを食べるには適さない」

 そう言って恭しく皿のラップを剥がそうとする仁樹を、舞は恨めしそうな目で睨む。

 舞の視線に気付いたのか、向かいに座る仁樹が顔を上げた。

「一人分には充分すぎる」

 仁樹はそう言って、言葉通り大皿にたっぷり盛られた油淋鶏をテーブルの中央に置いた。

「いらないわよ!」

 仁樹は目の前で感情を露にする舞を不思議そうに見てから、その理由となっているらしき革ジャンに視線を落とした。手を伸ばして切れ端を一枚摘み上げる。

「さっき仕事先で聞いた通りだ」

 仁樹は黒褐色の革を引っ張ったり指先で触れたりしながら言う。舞は何も言わず目線だけで話の続きを促した。

「俺は今までの経験で、この革はもう使用限界に達していると判断した。しかしタカとよく仕事をしたという編集長は、タカの革ジャンはセミアニリン製だと言っていた」


 舞はいつのまにか身を乗り出していた。わからない用語が混じっているけど、舞が生まれた時に作ったという革ジャンに関する話らしい。

「セミアニリンは近年のトヨタ高級車に使われている革素材で、塗装じゃなく合成タンパク質で表面処理を施している。十年や二十年で劣化するものではない。タカはその試作素材を革ジャンに仕立てた」

 舞は革ジャンの切れ端を掴んで仁樹に尋ねた。

「これ、まだ着られる物だったの?」

 仁樹は舞よりもテーブルに広げられた革ジャンを見ながら答える。

「着られる。だから捨てるのが惜しくなった」

 それだけ言った仁樹は、目視と指でバラバラの革ジャンに欠損が無いか慎重に確かめた後、それらひ残らず拾い上げて席を立つ。

「だから、これから補修する」 

 舞は席を蹴るように立ち上がりながら言う。

「これ、直るの?」

 仁樹は真理の作った油淋鶏を惜しそうに眺めた後、ついでといった感じで舞を見ながら答える。

「直る」

 そのままリビングを出て、廊下を歩き階段を下りていく仁樹を、舞はすぐ後ろから急かすように追った。


 仁樹は三階のリビングから一階のガレージに降りた。

 一緒にガレージに入った舞は、ついさっき戻ってきたばかりのフェラーリが発する熱を感じたが、仁樹が言っていたようなミッションオイルの臭いというのが何なのかはわからなかった。

 微かに硫黄の匂いがするのがそれだろうか、と思う舞を余所に、仁樹は大型車四台分のスペースがあるガレージの端、フェラーリの整備を行う区画に置かれた作業台に革ジャンの部品を広げる。

 それから壁際にある幾つもの引き出しのある棚まで歩き、引き出しの一つを箱ごと作業台に置く。箱の中身は数種類の糸と縫い針、鋏。

「あんた裁縫なんて出来るの?」

 舞の言葉に仁樹は迷わず答える。

「革の補修はフェラーリのために覚えた」

 ガレージに停められたフェラーリ288GTOのシートは黒革と耐熱繊維。舞は幼い頃に父の運転で何度も乗った。つい数日前に仁樹の運転で乗った記憶では、触れると気持ちいい感触の革シートは、ほつれもくたびれも無かった。

 作業台に素材と道具を揃えた仁樹はさっそく作業を始める。

「見てていい?」

 仁樹は舞を一瞥もせず答える。

「構わない」

 

 革の縫合は舞が家庭科で習った裁縫とは幾つかの点で異なるものだった。

 切断された革同士を合わせた仁樹は、菱目打ちと言われるフォークのような道具で縫い目の目印をつけ、作業スペースの隅にある電動のボール盤で縫い目の穴を次々と開ける。

 出来上がった等間隔の縫い目に、防水と補強のため蜜蝋を塗った木綿糸に針を通して手早く縫った。舞が鋏で切り刻んだ革がどんどん繋がっていく。

 数十分で作業を終えた仁樹は、革ジャケットを手で持ってひっくり返したり縫い目を引っ張ったりして、一通りのチェックをする。

 舞は魔法を見ているような思いだった。昼に切り刻んだ時にはもう元には戻らないと思っていた革ジャケットが、あっさりと元の姿に戻っている。あちこちに走る縫い目も、そういうデザインにさえ見える。

 舞はそこで、仁樹があえて縫い目を強調するように補修していることに気付いた。

 革同士を切断面で合わせるのではなく、縫い代を外に折り返して面と面で合わせる、外縫いと言われる作業用革手袋などに使われる、強度に優れた方法。

 衣料の縫合は折り返しを内側に向けて継ぎ目を目立たせない内縫いが一般的だが、あえて外縫いで継ぎ目をアピールし、糸も素材と同色ではなく赤やグリーン等の派手な色のものを使うことで、革そのものの若干くたびれた黒褐色に対してデザイン的に優れたアクセントとなっている。


 舞は以前、日本史の教師から、かつて古来から伝わる希少な茶器を意図的に割り砕き、金粉を混ぜた漆で継ぎ合わせる数寄物が居たという話を聞いたことがあった。

 補修作業を済ませた仁樹は、色とりどりの糸で縫い合わされることで、金継ぎの茶器のように生まれ変わった革ジャケットを舞に向かって放る。

 革ジャケットを受け取った舞は、蘇った革ジャケットの感触を手で確かめながら言った。

「何の積もりよ」

 仁樹は作業台の上に広げた裁縫道具を片付けながら言った。

「俺はもういらない」

 舞は革ジャケットを握り締めた。正直、手にした瞬間から誰にも渡したくなくなった。

「くれるっていうの?」

「そうだ」

 舞はどうしていいか迷った、父が遺してくれた革ジャン、それでも仁樹から何か貰うなんて事をしてもいいのか、この男を一刻も早く家から追い出したいという自分の気持ちと矛盾する。

「まぁ捨てるっていうのなら貰ってあげるわ、まだ朝晩は寒いからね」

 そう言いながら、舞は革ジャケットに袖を通す。長身で筋骨逞しかった父が仕立てた革ジャケットは、縫い代で全体的に縮んだせいもあって、女子としては大きめだけど男子に比べれば中背の舞の体にちょうどいいサイズ。

 舞とさほど変わらない身長の仁樹も、補修前は少し大きいなと思いながら着ていたんだろうか?と思っていると、舞の顔に笑みが漏れる。

 部屋着のデニムとスウェットの上に革ジャケットを着た舞が、満足感らしき物を味わっていると、不意に腹が空腹を訴える音を発した。

 女子としてあまり人に聞かれたくない音を聞かれた舞は、顔を赤くして仁樹を見た。舞の腹の虫に全く反応せず作業台の片付けを終えた仁樹は、そのまま舞の横を通り過ぎてガレージを出ようとする。

 仁樹は振り返って言った。

「俺はこれから真理さんの作ってくれたチキンを食べる」

「待ちなさい!わたしが食べるんだから!余ったらあんたにもあげるわよ」

 舞は革ジャケットを翻して仁樹を追っかけた。

 今夜はこの革ジャケットを失った衝撃で夕食が喉を通らなかった。それが解決したならば、次は空腹を満たすことにしよう。

 真理姉ぇの油淋鶏をこの男と差し向かいで食べることについては、今夜だけは許してやろうと思った。


 翌日から、舞は仁樹が修復した革ジャケットを着て登校することとなった。

 制服の上に私服のコート等の着用が許された学園で、舞の革ジャケットは趣味がいいとも悪いとも言われなかったが、縫い目だらけの革ジャンは中学時代から無駄にガタイの大きい舞のアダ名に習って、フランケンの上着と呼ばれるようになった。

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