第18話 レザージャケット

 昼下がりと夕方の間

 トヨタ・トラックの引き取りを終えて帰って来た仁樹と真理が見たのは、切り裂かれゴミ箱に捨てられた革ジャンだった。

 普段のこの時間は、まるがテレビを見ていることが多かったが、まるは友達と遊びに行っているらしくまだ帰ってきていない。

 テレビも、真理が家事中によく聞くFMラジオも点けられていない無音の部屋で、舞はソファに座ったまま背を向けている。

 ゴミ箱の中身とダイニングのテーブルに置かれた裁ち鋏を見た真理は、声を震えさせながら言った。

「舞ちゃん……まさかあなた仁樹さんのジャケットに……」

 舞はソファに座り窓の外を見ながら言った。

「あの汚い革ジャンなら捨てといてあげたわ。あんな物を人の家に勝手に置くからよ」

 真理の後ろから部屋に入ってきた仁樹は、無表情なままゴミ箱に手を突っ込み、ハンカチほどの大きさに切り裂かれた革ジャンを摘み上げた。

 舞は真理の言葉に返答したっきり、仁樹には何も言わない。そんな人間どこにも居ないかのように悠然とソファに沈み込んでいる。


 真理には妹が平静を保つべく努力していることはわかっていた。本当に何も思ってないのなら、いつも通り騒がしく仁樹に食ってかかっている。

 それでも、舞が仁樹にしたことは許されるものではない。真理だってバイクや車を愛好する者にとってレザーウェアが乗り手の命を守り、思い出を刻むこむ物だということくらいはわかる。三姉妹の父がそうだった。舞もそれを知っているだろう。

「舞ちゃん、仁樹さんに謝りなさい!あなたは決してしてはいけない事をしました!」

 舞はソファから立ち上がり、背後の真理を振り返る。舞の怒りに紅潮した顔は泣き顔にも見えた。

「わたしが何でこいつに謝らなきゃいけないのよ!だいたいこいつがわたしたちの家に入りこんできたのが悪いんじゃない!おかしいわよ!こいつも、こんな男の味方する真理姉もおかしいのよ!」


 真理は黙ってソファの横を回りこみ、舞の前に立った。妹の舞より頭ひとつ分ほど背の低い真理が、背伸びすることもなく舞を見上げる。高校時代に同級生や教師から吸血鬼と言われた姉の硬く冷たい目つきに、舞は後ずさる。

「仁樹さんに謝りなさい」

 舞が更に反論、とすらいえない感情の爆発を起こそうとした時、仁樹がソファまでやってきた。片手には革ジャンの切れ端を持っている。

 仁樹はいつも通り何の感情も読み取れぬ表情のまま、一直線に舞に近づいて来る。真理が仁樹の前に立ち塞がった。

 仁樹が人ではなく機械なら、舞を轢き殺そうと前進してくる仁樹から舞を守る位置。

「仁樹さん!舞には必ず謝罪させます。私がどんな事をしてでも同じジャケットを探してきます。だから」

 仁樹は真理を素通りするように、真理の頭越しにジャケットの切れ端を突き出す。

 舞は姉の真理が本当に怒った時の怖さなら知っているが、仁樹についてはわからない。今まで彼が人間らしい感情を見せたのは、十代の頃だという写真の中の仁樹だけ。

「な、何よ?何か文句でもあるの?」

 仁樹は舞のやった事を再確認させるように、片手で持った革の端切れをもう片方の手で指差しながら言った。

「ある」


 真理は自分の頭上で行われるやりとりに困惑している様子ながら、二人の感情とその衝突を身を挺して抑えようとするように、両掌を舞と仁樹の両方に当てている。

 仁樹は怒りも悲しみも感じ取れない、文字を音声として出力する機械のような声で言う。

「革は燃えるゴミ、ジッパーは不燃ゴミだ。捨てる時には切り離さなくてはいけない」

 舞は一瞬、彼の言った事の意味がわからなかった。二人に挟まれた真理も、存在するのかさえわからぬ仁樹の真意を何とか読み取ろうと、彼の顔を覗きこんでいる。

 三人の間に生まれた一瞬の空白。仁樹は手に持った革ジャンの切れ端をひっこめ、そのまま踵を返して歩き去る。

 テーブルの上に載っていた鋏を手に取った仁樹は、そのまま椅子に座り、革とジッパーの間に鋏を入れ始めた。

 舞が行った革ジャンの処分という作業を何の疑いもなく引き継ごうとする仁樹。真理が彼に駆け寄り、テーブルに手をついて言った。

「ちょっと待ってください!そのレザージャケットは仁樹さんにとって大切なものではないのですか?」

 仁樹の奇行ともいえる行動で逆に平静を多少なりとも取り戻した舞は、ソファ前に突っ立ったまま口の端を持ち上げて笑う。

「な、なにこいつ強がってんの?本当は悔しくて仕方ないんじゃないの?」


 真理と舞の視線が注がれているのに気付いた仁樹は、鋏を置いて顔を上げた。

「当然身につける物は大事です。命を守るため厳選したものを容易に喪失させることは出来ない」

 仁樹はたった今自分の手でジッパーを切り離し、分別ゴミにしようとしていた革ジャンを持ち上げながら言う。

「しかし使用中の損傷や経年で劣化した物は、タイヤやオイル類と同様に交換しなくてはいけない。このジャケットは長く使用し、革の強度が著しく落ちています」

 仁樹が手にしている黒褐色のレザージャケットは、風雨に晒され油が染みこみ、かつては艶のある漆黒だったレザーの表面全体が傷で覆われていた。

「もう新しいジャケットは注文し到着しています。それでも俺はこのジャケットを捨てられなかった」

 珍しく多弁な仁樹は作業の手を止め、真理を正面から見つめながら言う。彼は真理との会話を何かをしながら行うことは無い。

「こういう事故による損傷が無ければ、捨てる意思が持てなかった。俺は今日、思いがけず好機を得ました。このジャケットの使用を終了し、自治体のゴミ処分ルールに則って処分します」

 仁樹は真理に向けていた視線を外し、舞を見た。

「ありがとう」

 舞は絶句した。仁樹を傷つけたいという衝動に駆られて革ジャンを切り裂いたが、結果として彼の背を押すことになり、その上面倒な処分作業まで手伝うことになった。


 やっと仁樹の言わんとしている事がわかった真理は、この一件が波風を立たせることなく終わりそうな事に安堵の表情を浮かべる。テーブルに置かれた革を撫でながら言った。

「昔から着ていたのですか?このレザージャケットがずっと仁樹さんを守ってくれていたのですね?」 

 革の切れ端を手にしながらしばらく考え込んでいた仁樹が、会話というより明瞭な報告といった感じで答える。

「いえ。これは確かタカから貰った物で、俺は二年ほどしか着ていません。タカは十三年着ていたと言っていました」

 それから仁樹は過去情報を検索するかのように中空を見つめてから、真理に答えた。

「タカに二人目の娘が生まれた時、その記念に買ったそうです」

 舞は自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。ついさっき切り裂いた革ジャンは、彼女の父親が自分が生まれた時に買い、長らく愛用した物だった。

 しばらく自分自身の震える手を見ていた舞は、声にならない悲鳴を上げながらゴミ箱へと駆け寄った。バラバラになった革を一心不乱に拾い上げる。

 仁樹が先ほどジッパーを切り離そうとしていた切れ端をひったくった舞は、もう元に戻らない死体のように切り裂かれた革ジャンを並べ、呆然とした顔をしている。

 仁樹は目前で半狂乱になっている舞に何も反応せず、左手首に巻かれたブルガリのクロノグラフをチラっと見てから席を立つ。

 妹になんて声をかけていいのか迷う真理に、いつもと何ら変わらない口調で言った。

「これから仕事で出かけます。帰りは遅くなるので残念ですが夕食はご一緒出来ません」

 真理は自分の右横で髪を振り乱す舞と、左横で平穏を保つ仁樹に困惑しながら返事した。

「は、はい」

 仁樹はリビングを出て階段を下りていく。直後に響いた舞の泣き叫ぶ声を聞きながらも、彼の歩調は変わらなかった。

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