第16話 写真
仁樹は向かい側に座る舞を、人ではなく機械を見るような目で直視しながら答える。
「タカに貰った」
それで疑問への返答という、機械に必要な部品の組み込みが終わったかのように、仁樹はまだ熱いお茶の淹れられた湯呑みに視線を戻した。
舞がこの男と出会ってからずっと抱いていた疑問。今朝の学校で彼の過去を知る女教師に会ってから、直接問いただすと決め、夕飯の間ずっと聞くタイミングを窺っていた尋ね事は一言の返答で終了した。
それでは納得できないと思った舞は、もっと具体的な答えを聞き出そうとしたが、いつもと様子が異なる自分を見る姉と妹の視線に気付く。
真理とまるも彼が父のフェラーリに乗るようになった経緯については気になるらしく、舞の問い詰めるような態度を咎めることはしない。
舞の質問への返答を終えた仁樹は舞を見ることもせず、真理が淹れたお茶の湯呑みに触れている。夕食とお茶の時間を終えたらすぐに一階のガレージに戻る彼が、少しでも食卓に長居してくれるように熱めに淹れたお茶を、彼はまだ飲めない様子。
何もすることの無い時の仁樹は、体や視線を不必要に動かすことはしない。静止の時間を過ごしている仁樹に舞は再び聞いた。
「理由を言いなさい。なんでパパがあんたにフェラーリをくれたのか。何の由縁もなく貰えるわけないじゃない」
仁樹がもう一度舞を見つめる。獲物を食らう動物に何故そんな事をするのか聞いた時の顔。獣に人の言葉で話しかけても音に反応することはあっても、その意味を理解することは無い。
しばらく舞の発した言葉の意味を考えていた仁樹は、再び口を開く。
「俺は以前バイクに乗っていた」
さっきまでの舞ならば答えにならぬ答えに癇癪の一つも起こしていたが、いつのまにか舞は話の続きを待っていた。仁樹という人間は真理以外の誰かが急かしても促しても全く意に介さぬ相手だということくらいわかってきた。
「その頃タカはあのフェラーリに乗っていた。速かった。四輪で俺を負かしたのはタカのフェラーリだけだった。何度も走ってるうちに俺とタカは友達になった。それから俺はタカと一緒に働くようになった」
仁樹は背を伸ばし、舞を見つめながら話す。三姉妹のうちで最も父親似と言われることの多い舞の瞳、その奥深くに焦点を合わせているような瞳。
真理は遺産整理の時に父の仕事について色々と伝え聞いた。競合の多い個人輸入商の中で父が傑出した利益を出した理由の一つに、仕事と交渉の早さがあったという。
メールやファックスでの送付が不可能なビジネス書類や商品サンプルを、父はいつもあっという間に顧客の元に送り届け、相手に考慮、検討する隙を与えることなく契約に漕ぎつける。そんな父のビジネススタイルを支えるバイク便ライダーが居たことを、父の仕事仲間から何度も聞かされた。
父が死んだ現在も、そのバイク便の男の名はしばしば挙がるという。こんな時にあいつが居れば、と。
「俺はバイクを事故で失った。新しく手に入れたバイクも車も、俺を速く走らせてはくれなかった。速く走れないまま生きるのがつまらなくなっていた時に、タカが自分のフェラーリをやると言った、俺はこのフェラーリになら乗ってもいいと思った」
ゆっくりとした口調でそこまで話した仁樹は、再びお茶の湯呑みを手に取る。やっと適温になったらしく、湯呑みを持ち上げてお茶を飲み始めた。
仁樹の隣に座って彼の話を聞いていた真理が言った。
「お父さまらしいです」
欧州車や高級家具の輸入をしていた三姉妹の父は、会社の経費で買うような顧客には大幅な利益を乗せるような事を行っていて、必ずしも良心的な業者ではなかったが、彼自身がこの車に乗るべきだと認めた人間には、しばしば採算を度外視して希少な車を譲渡していた。
舞はまだ納得できない様子で、仁樹に聞き足す。
「わたしが聞きたいのは、あんたがパパのフェラーリをタダで貰ったのか、必要な対価を払ったのかって事よ」
お茶を啜りながら舞の言葉を聞いた仁樹は、さっきまでとが違う反応を見せた。
それまで不躾な問いを繰り返す舞をまっすぐ見ていた仁樹が椅子の上で体を動かし、顔をそらす。
舞は何かやましい事でもあるのかと思い、更に問い詰めようとしたが、仁樹は自分の横に座る真理に体を向けていた。
「俺がフェラーリに乗っているのは、あなたのおかげです」
いつも彼に対しては余裕ある態度を見せていた真理が、驚きの表情を浮かべた。舞だけでなく普段は騒がしいまるも、黙り込んで彼の次の言葉を待った。
「俺がタカのフェラーリに乗るようになった頃、まだ幼かったあなたは病気に罹りました。どうしても仕事を離れられぬタカは、俺に毎日の通院が必要になったあなたを病院まで送り迎えすることを依頼しました。娘が完治するまで面倒を見れば、このフェラーリはお前にやると」
仁樹の話を聞いた真理は、口を手で覆って震えた。
「仁樹さん、わたし、少しだけ覚えています。病気で辛かった時、いつもわたしの傍に居てくれる人が居たと、やはり仁樹さんだったんですね」
そこで舞が口を挟んだ。
「ちょっと待って!真理姉ぇが病気だったのって三歳くらいの頃でしょ?じゃああんた私にも会ったの?ちょうどわたしが生まれた頃だし」
真理に体を向けていた仁樹が、首をねじまげて舞を見て言った。
「いや、会ってない。二人目の娘は極めて順調で、特に何の手伝いもいらなかったと聞いている」
舞はふてくされたような顔で「あっそう」と言って目をそらす。
それまで黙っていたまるが椅子から立ち上がり、手を上げた。
「しつもーん!それじゃお兄ちゃん、ママに会ったことあるの?」
仁樹はまるを見て、それから答える。相変わらず笑顔というものを知らない顔だが、少し目元が和らいでいるように見えた。
「何度か会った。非常に聡明で優しい人だった」
仁樹はそう言ってから、感動の涙を零している真理を見た。それでまるは、記憶に無い母の姿を何となく理解した。
舞はあまり面白くなかった。今夜は彼を尋問して何か耳新しい情報を引き出してやろうと思ってたが、すっかり妙な雰囲気になってしまった。
とりあえず今からでも話の主導権を取り戻すべく、何でもいいから言いがかりをつけてやろうと思った。
「正直なところ、あんたの言葉だけじゃ信用できないわ。写真とか無いの?」
「タカの写真は無い」
例の如く一言だけの返答に舞は食い下がる。彼女なりにいつも言葉の足りぬ彼への対処について少しはわかってきた。
「そうじゃなくて、その、あんたの写真よ、妖精か何かじゃないんだし、若い頃の写真くらいあるでしょ?」
視線を中空に据えて少し考えていた仁樹は、ブレザージャケットの内ポケットに手を入れながら答える。
「一枚だけある。ちょうどタカと会った頃の俺を知人が撮ったものが、つい最近見つかったらしく、メールで送られてきた」
ポケットから取り出したスマホスタイルの携帯を操作していた仁樹は、ある画像を表示させたスマホを舞に渡す。
渡されたスマホを見る舞、隣に座るまるだけでなく、向かいに座る真理までもが舞の横にやってきて、画面を覗き込む。
次の瞬間、三姉妹の弾けるような笑い声がリビングに響き渡った。
ホンダの公道走行可能なレーシングバイク、RC30に跨り、こちらを見る仁樹の画像は、今の彼とは似ても似つかぬ姿だった。
顔立ちはほぼ変わってないが、写真を撮られる事にあからさまな嫌悪を示しこちらを睨みつける表情は今よりずっと感情的。現在スキンヘッドの髪は長く伸ばしていて、金色に染められている。
肩と膝、腕、脚にプロテクターのついたバトルスーツと言われる黒革上下のライディングウェアも、女子の目から見ればあまり趣味がいいとはいえない。
十代の頃の姿だという彼の画像を見て大笑いする舞、まるも指差して笑ってる。真理までもが口を手で覆いながらくすくすと笑ってる。
仁樹は相変わらず無表情のまま、携帯を返せとでも言うように舞に手を差し出していた。
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