第12話 魔性
いつもと変わらぬ時間に朝食を取り、通学バスに間に合う時間に登校の準備を終えた舞は、気まぐれに近い気持ちで仁樹の運転するフェラーリに乗ることとなった。
真理やまると違い、舞は仁樹という男にもフェラーリにもさして興味を持っていなかったが、舞にとって三姉妹の暮らしを脅かす侵入者である仁樹という男に対して、自分の優位性を示さなくてはいけないと思った末の行動。
舞の高慢な求めを表情ひとつ変えず引き受けた仁樹は、真理の淹れたお茶を飲み終わるまで舞を待たせる。早くも舞の心理的な優越感は揺らいだ。
通学バスが最寄りのバス停に来るまでまだ余裕のある時間。既に昨日と一昨日にフェラーリでの送迎を受けた真理とまるが悠々と朝の支度をしている中、舞は苛立ちながら仁樹を待っていた。
これじゃ男に一方的に送り迎えをさせる女じゃなく、ドライブに連れてってくれるのを待つ子供だと思いながら、舞が横目で仁樹を見る。彼はゆっくりとお茶を飲んでいた。
仁樹が猫舌気味で熱いお茶を飲むのに時間がかかるのはわかってる。それでも彼が何か自分に意地悪なことをしているか、それとも女を自分の都合で待たせる行為を楽しんでるように見えた舞は、これ以上時間を空費するなら湯呑みを奪い取って、この男の口にお茶を流し込んでやろうと思った。
舞がソファから尻を浮かせた時、仁樹は唐突に湯呑みを置いて椅子から立ち上がった。
「ごちそうさま。とてもいい香りのお茶でした」
真理に馬鹿丁寧に頭を下げた仁樹は、自分がお茶を飲み終わるタイミングに合わせたように立ち上がった舞を見て言った。
「行くぞ」
舞は主人に散歩に連れてってもらう忠犬のタイミングで立ち上がってしまった。違うのは舞の尻にぶんぶんと振る尻尾が生えてないのと、仁樹の手に首輪と引き綱が無いことだけ。
真理やまるを学校まで送る時、仁樹は彼女たちが出かける準備を終える前に席を立って一階ガレージまで降り、フェラーリを玄関前まで回したが、今朝の舞は既に出る準備を済ませている。
感情の窺えない目で舞を一瞥した仁樹は、そのままリビングを出ようとする。
「行ってらっしゃい仁樹さん。気をつけて」
「お兄ちゃん今日は飛ばさなくていいよー、舞姉ぇにはもったいないし」
姉と妹が仁樹を送り出す言葉を述べ、舞にはオマケといった感じで手を振る。まるでグズグズして仁樹に迷惑をかけるなと急かしているような感じ。
「行ってくるわ!」
舞は先にリビングを出た仁樹のすぐ後ろをついていった。
仁樹は何も言わず三階リビングから一階のガレージへと降りていく。三姉妹が越してきて以来鍵をかけてないスチールのドアを開け、ガレージに入った。
舞も一緒に入り、後ろ手にドアを閉める。そこで舞は、この家に越してきて以来、初めて仁樹と二人きりになったことに気付いた。
数日前の朝、真理に頼まれ仁樹を起こしに行った時は、ガレージのドアを開けてすぐ、素っ裸にブルガリのクロノグラフ一つで眠っている彼と対面し、ガレージ外の廊下で悲鳴を上げるという最悪の経験をさせられた。
今の彼は緑色のツナギ服を着ているが、素肌にこれ一枚らしく体のラインが透けている。
密室に二人きりというのを過剰に意識して、ドア前から動けない舞を余所に、仁樹はフェラーリの正面に立ち、しゃがみこんで車体のバランスを見た後、フェラーリの後ろに置かれたベッドの下からトレトンのデッキシューズを取り出して素足に履いた。
出かける準備はそれで終わりらしく、フェラーリの左手に立った仁樹は、ドアを開けて運転席に乗り込む。車内で何か操作する気配がしてすぐに、キュルキュルじゃなくクーッという感じの、フェラーリ特有のセルモーター音が聞こえた。
ごく短いセル音の後、小爆発でもしたかのような音。それから低く重厚なアイドリング音が響く。運転席側のパワーウインドを下げた仁樹は、舞を振り返って言った。
「乗れ」
女のためにドアを開けることさえしない男に呆れながら、舞はフェラーリの右側に回る。今はこの男が勝手に乗り回しているが、元々これはパパのフェラーリで、舞も幼い頃に何度もドライブいに連れてってもらった。
少なくとも父は女にドアを開け閉めさせることはしなかった。それが理由か、母が死んだ後は生涯に渡って女に不自由したことが無かった。
舞が自分で右ドアを開け。普通の車では考えられないほど低いシートに乗りこんだ途端、スカートがめくれあがった。見られなかったかと横を睨んだが、仁樹はフェラーリのインパネに並ぶ各種メーターをチェックしている。
「シートベルトを締めろ」
「わかってるわよ!」
仁樹がこちらを見ることもせず言った言葉に、舞は少々乱暴に返答する。仁樹と舞の会話は、常に感情の天秤が一方に大きく傾いた状態で奇妙な安定をしている。
舞はシートの右側、サイドウインドの後ろを手で探ったが、タクシーや真理の運転するトヨタのトラックならシートベルトがあった場所に、それらしき物が無い。
横に座る仁樹を見ると、両肩に通してヘソの位置でバックルに挿す、競技車タイプのハーネス式シートベルトを締めている。舞は思い出した。このフェラーリに乗る時、シートベルトはいつも父が締めてくれた。
舞は革シートと後部の壁の隙間を手で探った。ベルトらしき物に手は触れたけどどれを引っ張ればいいのかわからず、うまくいかない。 エンジンがアイドリングの振動を伝えてくるフェラーリの中。シートの上で身もだえするように両手と体を動かす舞を見ていた仁樹が、自分のシートベルトを外して舞の体に覆いかぶさった。
「ちょ!何!何する積もり?」
突然、目の前に近づいてきた仁樹の体。逃げられない車の中。舞は悲鳴に近い抗議の声を上げながら、固く目を閉じた。
壁ドンをするように耳のすぐ横を掠める手、舞がゆっくり目を開けると、仁樹がシートの背後に回してたシートベルトを舞の体にかけていた。
舞の両肩から胸を通ったベルトを、子宮のあたりのバックルに挿した仁樹は、一度引っ張って締め具合を確認した後、舞の右腿の外側に触れる。
助手席のシート横に手を突っ込み、昨日まるの体格に合わせて動かしたシートを少し後ろにずらした仁樹は、運転席に戻って慣れた手つきで自分のベルトを締める。
狭いフェラーリの中で、男にのしかかられ体をいじくられた舞は、心臓の鼓動が自分でわかるほど動揺していた。
単にベルトを締めただけと言い聞かせ、平常心を取り戻すべく意識して落ち着いた声を出す。
「まっ真理とっ、まるはこのベルトの締め方、わかったのっ?」
意志に反して上ずった声が出てしまった舞は顔面を紅潮させて口を押さえる。目の前に突っ伏してしまおうにも、普通の車みたいに上体の動きに合わせて伸縮しない競技用シートベルトで、体はシートに縛りつけられている。
仁樹は舞の狼狽を全く意識していない様子で、問いに対し最小限の回答をする。
「真理さんは知っていた」
それから、少し時間を置き、何かまだよく覚えていないものを思い出すように中空を見た。
「まる、はわからないから締めて欲しいと言っていた」
少なくとも姉と妹はこんな醜態を晒していなかったらしい。早くもフェラーリで通学するという今朝の決断を後悔し始めた舞を一瞥もせず、仁樹は運転席側のドアポケットに入れたリモコンを押した。ガレージの電動シャッターを開き始める。
舞の左側から銃器を操作するような金属音がした。仁樹がクラッチを踏み、フェラーリの鋼鉄製シフトガイドから生えた鉄棒のシフトレバーを左後ろの一速に入れている。
シャッターが上端まで開く。外の明かりを受けた仁樹の瞳が、今まで見せたことのない輝きを宿したように見えた。
フェラーリは三姉妹の暮らす家の一階ガレージから、ゆっくりと外の道路へ這い出ていく。
そこから先の経験は、舞にとって強烈なものだった。
ガレージから表の道路へと出たフェラーリは、舞が拍子抜けするほどにゆっくりとしたペースで、都下郊外の道を走った。
家から三姉妹の通う学園は、市の北部と境界を接している隣市の駅近くにある。
普段は家の最寄りにあるバス停から、隣市の駅に行くバスに乗れば、終点の駅前バスターミナルのいくつか手前にある学園前の停留所まで乗り換え無しで行ける。
しかし、この市と隣市を隔てる市境のあたりは多摩の里山で、バスは山越えを避けて市民病院や団地等を経由する関係でかなり遠回りのルートを行くため、学園までは40分以上かかる。
自家用車かタクシーで山越えの最短距離を行けば半分の二十分弱で学園に着く。舞はこの男のフェラーリに乗れば、それと大差無い時間で学園に到着すると思っていた。
舞の在籍する高等部の始業ホームルームよりだいぶ早いけど、部活をしている生徒はもう来る時間だし、不必要に早い登校による無駄な時間も、この男を自分の足として使うという目的を果たすための必要コスト。
舞を助手席に乗せているフェラーリは、一般車とさほど変わらないスピードで市境の山に向かって走っている。通勤ルートと真逆の都道は混雑していない様子。
舞を助手席に乗せた仁樹は、ガレージを出て以来一言も口を利かず、横に座る舞を見ることもせずフェラーリを操縦している。
無言無表情の男が平和的な速度で走らせる車の中、舞はいささか退屈を覚えていた。
フェラーリの動きが変わったのは、隣市へと向かう都道が、農地と住宅が交じり合った地域から山道に入ってからだった。
ここが東京であることが信じられない森林地帯の中。道は上り坂になっていくが、フェラーリのスピードは落ちず、逆にだんだん速度が上がっている。
山越えのワインディングロードが始まる頃には、フェラーリは制限速度をはるかに上回っていた。周りに他車は見当たらず、たまに畑仕事の軽トラとすれ違うくらい。
フェラーリは最初のカーブを軽くタイヤを鳴らしながら通過する。舞の体は右のドアに押し付けられた。
幾つものカーブを繰り返す山道。一つコーナーを通過するごとにスピードは上がっていく。舞は仁樹の顔を見たが、いつもの無表情のまま、ただ目だけが微かに輝いている。
舞は両足をフロアに踏ん張りながら、彼が発進前にわざわざシート位置を調整し直した理由を理解した。ドアグリップを掴みながら叫ぶ。
「ちょ、何してんのよ!スピード違反よ!」
仁樹は隣に誰も乗っていないかのように、ステアリングと鋼鉄のシフトレバーを凄い速さで操作しながら、激しいコーナリングを繰り返している。
山越えの道は頂点に達し、下りに入った。スピードはますます上がり、コーナーのたびにタイヤを滑らせるフェラーリはしばしば横向きになる。
最初は都下の田舎道に似合わぬ暴走行為に恐怖を覚えていた舞も、だんだん高揚に似た感情が湧き上がってくる。
真理はこれでもフェラーリは本調子じゃないと言っていた。まるはジェットコースターみたいに楽しかったと言っていた、姉と妹の言葉を理解した。
これはどんな遊園地の絶叫マシンより興奮する乗り物。だけどその本当の実力はまだ隠されている。
自然と笑みが漏れてきた。爽やかな笑顔とも言えない、子供の無邪気な笑顔と紙一重の、自分の内なる狂気に触れたような顔。
以前タクシーで通った時にはそれなりに時間のかかった山越えの道を、あっという間に通過したフェラーリは、隣市に入ってスピードを落とした。それでも前の車との間に隙間があればどんどん追い抜いていく。
フェラーリは学園に面した通りに入った。普段バスで幾つかの停留所を経由しながら行く道を、飛んでって着陸するように学園前に着いた。
仁樹が左腕のブルガリに一瞬目をやったので、釣られて舞も自分の腕時計を見る。家を出てから十分足らず。
「バス停の向こう。大きな花壇がある所が高等部の正門だから、そこまで行きなさい」
舞は過激な山越えドライブで高揚した気分を落ち着かせるように、仁樹に一方的な指示を与えたが、舞が言い終わる前にフェラーリは、大きな円形の花壇を中心にターミナル状になった高等部正門前に着く。
「ここでいいか?」
世間的にはお嬢さま学園と言われている舞の通う高等部。花壇の前には生徒を送迎している何台かの車が停まっていた。
ごく普通のファミリーカーや運転手つきのベンツなどが並ぶ中、フェラーリはちょうど広いスペースが空いていた場所に停まる。前はベントレー、後ろにはマイバッハが停まっている。
いつもなら登校チャイムが鳴るより30分ほど早い時間には空いていることの多い送迎車の駐車スペース。今朝は授業前に部活の部長会議があった関係でいつもより混み合っていた。送迎の車だけでなく生徒も結構居る。
舞は正直なところ、予想外の注目を浴びるのがイヤで、フェラーリから降りたくない気分だったが、前後は図体のでかい超高級車、こっちはちっぽけなスポーツカー、さほど見られることは無いだろうと思い、シートベルトを外してドアを開けた。
足を揃えて外に出した舞は、スカートを乱れさせることなく、フェラーリの低いシートから立ち上がる。こないだ写真を撮った時に仁樹の前で無様な尻もちをついたばかり。この男に舐められないためにも、二度もみっともないとこは見せられない。
フェラーリの横に立った舞は、登校しようとしている生徒たちの視線が自分に集まっていることに気付いた。
舞の記憶では前のベントレーに乗っているのは宮家の令嬢で、生徒会長として他生徒の憧れの的。後ろのマイバッハに乗っているのは、役者の娘でアイドルとして活動している子。
普段は前後の二人に向けられる視線が舞に集まっている。半分は彼女に、半分は舞を通過して後ろのフェラーリへと注がれていた。
羨望、好奇心、そしてフェラーリのオーナーが常に晒されるという、一体どんな胡散臭い仕事をしてるんだか、という疑惑の目。
前のベントレーから出てきた子は、街のチンピラを見るよな目でフェラーリを見てる。後ろのマイバッハから出てきた子は、小学生がロボットを見た時のように目を輝かせている。
それらの視線を受けた舞は、なんとも言葉では言い尽くせない、背筋が寒くなるような感覚を味わった。
身長や体型で無駄に人目を惹いていた舞は、今まで自分が人の注目を受けるのが苦手な人間だと思っていたが、このゾクゾクする気分は、快感といってもいい不思議な心理状態。
これが他のどんな車にも存在しない、フェラーリの魔性という奴だろうか。そう思った舞は後ろを振り返って言った。
「ありがと、楽しかったわ」
舞はフェラーリを停めた花壇前から正門まで、自分専用のレッドカーペットが敷かれたような気分で歩いた。
彼女が正門を通過し、校内に入るのを確かめもせず、仁樹はフェラーリを発進させ、来た道とは逆方向へと走り去る。
校内に入った舞を待っていたのは、周囲からの質問攻めだった。
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