第11話 マーキング

 真理が仁樹の運転するフェラーリで通学した翌朝。

 三姉妹と仁樹は、もう当たり前のように朝食のテーブルを囲んでいた。

 今朝のメニューはパニーニのサンドイッチにトマトとオリーブのサラダ、テオレと言われる蒸気で淹れたミルクティ。

 イタリア風の朝食は昨日の送迎に対する真理の心ばかりの感謝の積もりだったが、テオレを淹れるエスプレッソマシンは仁樹の暮らすガレージにしか無く、真理はわざわざ三階のリビングからガレージまで往復した。

 仁樹は真理に、お茶ならリビングで待っていてくれれば俺が持って来ますと言ったが、真理は押し切るような形で仁樹と共に一階まで下りて行った。昨日の礼というのは仁樹の生活スペースに入り込む口実だったらしい。

 ガレージ内のキッチンに置かれたデロンギのエスプレッソマシンを操作されても、仁樹は嫌な顔一つしなかったが、四人分のお茶を持って階段を昇ろうとした時にはさすがに盆を取り上げ、恐縮する真理を意に介さずお茶を運んだ。

   

 今朝は中等部のまる、高等部の舞、大学部の真理が三人揃って通学できる時間割。バスの出る時間までまだ余裕がある事もあって、三姉妹と仁樹はゆっくりと朝のお茶を飲む時間を過ごすことが出来た。

 朝食が終わり、三人の中でも時間にはうるさく、ややせっかちな舞が席を立つ。真理も舞に促されて立ち上がり、仁樹に頭を下げた。

「行ってきます仁樹さん、あの、朝食はお気に召しましたか?」

 猫舌気味で三姉妹より時間をかけてお茶を飲んでいた仁樹はティーカップを置き、椅子を動かして真理に正面から向き合う。

「あなたの作るものは何でも美味しい」

 素直な感謝のような、特定のプログラムを入力された機械のような応答も、真理には充分だったらしく。ボっと赤くなって俯いた真理は、両手の指をもじもじとこすり合わせながら言う。

「わたしは、このまま仁樹さんのご飯を作り続けていられればどれだけ幸せか」

 仁樹はカップを手に取り、まだ彼には少し熱いお茶を一口飲んでから言った。

「俺はそれに足る男ではありません」


 いつまでも終わりそうにないやり取りを終わらせるべく、舞が真理の腕を掴む。

「もう行くわよ!まるもテレビはもう終わり」

 食卓のあるダイニングからリビングに移り、お茶のカップを両手で持ちながら朝のワイドショーを見ていたまるが振り返った。

 舞を見て、まだ体だけは仁樹の傍に行こうとしている真理を見て、それから食卓の仁樹を見てから言う。

「ん、いいよ。今日はお兄ちゃんのフェラーリで学校行くから」

 舞がリビングのソファまで歩いていき、まるの両脇を抱えながら言った。

「あんた何言ってんのよ!バスで行けば間に合うのに、なんでこんな奴に送ってもらうのよ!」

 舞に引きずられているまるはニヤニヤ笑いながら言う。 

「いーじゃん乗りたいんだし、いいよね?お兄ちゃん」

 二人に背を向けてお茶を飲んでいた仁樹が振り返った。

 昨日は彼にとって特別な存在らしき真理が遅刻寸前の危機で困っていた。でも今日は違う。

 仁樹は今までまるには特に優しい言葉も丁寧な応対もしたことが無い。何か言われれば返事はするが、いつも最低限の言葉しか返さない。


 舞は彼がまるの送迎を断ると思っていた。普段まるが頼み事をしても拒絶の一言だけで終わることの多い仁樹、それがこの男の、自分と妹のまるへの、真理以外の女への対応だと思っていた。

「いいぞ」

 仁樹はそれだけ言って残りのお茶を飲み。席を立った。

「準備して降りて来い」 

 呆気に取られた舞、頬を膨らませてる真理を余所に、さっさとリビングを出て階段を下りていく仁樹。

 まるはこの返事を既に予測していたかのように通学バッグを手に取る。普段は出る間際に慌てて中身を詰めるバッグは、既に準備を済ませソファに放り出されてた。

 いつもなら寝起きのままで家を出る前に舞に直して貰う髪も今朝は整えていて、朝のシャワーまで浴びたらしい。

 一階ガレージから微かにフェラーリを始動させる音がする。それを聞いたまるは止めようとする舞の手をすりぬけてリビングを飛び出していった。

 舞は階段を駆け下りるまるを追いかける気力も湧かず、少しふてくされている真理の手を引いて階段を下りる。

 二階の玄関から道路に繋がる外階段を下りる途中。赤いフェラーリがガレージから発進していくのが見えた。

 暖気を兼ねているのか、意外とゆっくりとしたスタート。もう我関せずと決めてバス停まで急ぐ舞の後ろで、真理はブツブツと「仁樹さんはいじわるです」と言っていた。


 夕方。舞が学校から帰ってくると、まるはもう家に居た。

 舞を見かけるなり興奮した様子で、身振りを交えて今朝の体験をまくしたてる。

「もうね!すっごいんだよ!学校までの山道をばびゅーん!って、空飛びそうなくらい速いの!」

 ソファに座り夕暮れの空を見ていた真理が言う。

「あれでも仁樹さんのフェラーリはタービンの馴らし中で、本調子じゃないって言ってたけどね」

 真理の言ったことがわからなかった様子のまるは、計算式がわからぬまま勘で答えを出した。

「じゃあ今度もう一回ブっ飛ばしてもらう!」 

 真理が張り合うように言った。

「お姉ちゃんはもっと乗せてもらうもん」 

 舞にとってなんとも不愉快な会話。

 真理とまるだけがパパとの思い出の車に乗せてもらった事への疎外感は大して大きくなかった。パパとの記憶を共有する物はこの家を含め幾つもあって、一つ二つの差など今さら気にならない。

 同じ家の一階と二階三階に暮らし始めて数日。いい隣人とは言わないまでもお互い干渉しなければ無害なんじゃないかと思い始めた男が、姉と妹を危険な暴走行為に巻き込んでいる事についても、舞にとって問題ではあるが最優先の解決事項では無い。

 それらとは違う、言葉では説明しにくいけど気に入らない気持ち。

 飼い犬が他の家族にシッポを振って駆け寄り手を舐めるのに、自分の姿を見かけても、顔さえ上げないのを見たような気分。

 舞にこんな不快な感情を植えつけている当の本人である仁樹はといえば、ガレージを空けてどこかに走りに行っていて、真理は彼の帰りを待っているかのように、夕飯の支度をサボって窓の外を見ている。


 翌朝

 三人と仁樹の朝食は和食だった。

 フェラーリの助手席で仁樹に寄り添うという、自分だけの優位を崩された真理の気持ちがわかりやすく表現された、磯辺焼きと味噌汁。

 砂糖醤油をつけて海苔で巻いた餅を手早く食べ終えた舞は、立ち上がって向かいでまだ熱いアサリの味噌汁を啜っている仁樹に言う。

「今日はわたしを学校まで送りなさい」

 これはマーキングだ。と舞は思った。

 正直なところ、この男に興味は無かったし好感など抱けるわけが無い。パパの乗っていたフェラーリだってこの男が乗り、安全とは言いかねる運転をするなら好んで乗りたいとは思わなかった。

 それでもこの家に居る限り、家人である自分は身勝手な占拠者であるこの男より精神的な優位に立たなくてはならない。命じる側がどちらかを体に教え込むべき。

 舞にとって今朝の送迎はそのための儀式。もし仁樹が拒絶するなら力ずくでも従わせてやろうと思った。

 片手で餅を食べながらテレビを見ていたまるが振り返って舞に言う。

「舞姉ぇお兄ちゃんをこまらせたらダメだよ」

 朝食のメニューで示した嫉妬の意志が気恥ずかしくなったのか、仁樹に彼好みの温めのお茶を淹れていた真理が、妹を諌めるように言う。

「舞ちゃんフェラーリはオモチャじゃないんですよ。学校までの一往復でSタイヤやメタルクラッチをどれだけ消費するか」

 二人の抗議に少し後ろめたくなった気持ちを隠すように、舞は鋭い目つきを仁樹に向けたが、彼は舞の言葉か聞こえなかったかのように味噌汁の椀を手にしている。

 朝食の席に沈黙の時間が流れる中、仁樹が味噌汁を啜る音が響く。

 仁樹は猫舌の彼にしては少し早めに味噌汁を飲みきり、椀を置いて言った。

「お茶を飲んでからな」

 

 舞は自らの失策に気付いた。この男は真理の作るものを決して食べ残すことは無い。今も真理の淹れた温いお茶を飲んでいる。

 どうやらフェラーリでの送迎はしてくれるらしいが、彼を従わせて精神的な優位を得るつもりだった舞は、今は彼がお茶を飲み終わるまで待たされる側になっている。

 今すぐ湯呑みをひったくって自分で飲んでやろうか、と舞は思った。彼は怒るんだろうか?悲しむんだろうか?それともいつも通り何事も無かったような顔を私に向けるのか。

 少なくとも舞は、今までの生涯の中で怖かった経験のベスト3に入ると思っている、本気で怒った真理を見ることになるのは御免だと思い、渋々ソファに座った。

「さっさとしなさいよね!本当にグズな男ね!」

 今さら何を言っても自分が待たされていることは変わらない。横に座るまるが「ケケケ」と笑うのが聞こえた。

 

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