第9話 パスタ

 仁樹と三姉妹はガレージの中で、パスタをメインディッシュに据えたディナーのテーブルを囲んでいた。

 四人は食前にグラス一杯ずつのキャンティワインを飲んだが、仁樹は酒を飲んだにしてはほとんど表情が変わらず、口数が多くなる様子も無い。

 同じく水でも飲んだかのように平然としていたのは次女の舞。長女の真理はワイン一杯で頬を染め、隣に座る仁樹を熱っぽい目で見ている。

 末っ子のまるは初めて飲んだワインがそれほど美味なものでは無かったらしく、口直しするかのように目の前のカツレツを美味そうに食べている。

 サラダと前菜のカツレツとパスタ。食べる順番はバラバラながら、皆がメインのパスタに口をつける。真っ先に末っ子のまるが声を上げた

「美味しい!これ本当にスパゲティ?」

 仁樹が普段食べているという生パスタは、主に乾麺のパスタを食べなれていた三姉妹にとって、口の中でとろけるような味だった。


 パスタ好きな人間に言わせれば、乾麺が缶詰の魚なら生麺は刺身。三姉妹がこの家に引っ越してくるまで住んでいた御殿場にも生麺を出すイタリアンレストランは無くもなかったが、父が死んだ後すぐに三姉妹揃って受験勉強に入ったため、出前やケータリングはあっても外食の機会からは随分遠ざかっていた。

 それより前、三姉妹の父がまだ生きていた頃も、たまに家に帰ってくる父は娘たちの手料理を希望することが多かったため、わざわざ外に食べに行った記憶はあまり無い。

 仁樹のことを敵視している舞は、仁樹が真理の頼みに応じて三姉妹のためパスタを作るという話を聞いても、たかがスパゲティと言ってこのガレージに来ることに積極的では無かったが、今では夢中で箸を持ち、仁樹のパスタを啜ってる。

 仁樹は物静かな、どちらかというとボーっとした感じでパスタをフォークで巻き、向かい側に座る舞とまるの背後に停めたフェラーリを眺めながら食べている。

 一人で食事をしているかのような姿ながら悲壮感は無い。食前に一杯のワインを飲んだ仁樹は、冷蔵庫から出したミネラルウォーターを時々口にしながら、ただパスタを食べている。

 舞も仁樹が出したミネラルウォーターの瓶を勝手に奪って自分のグラスに注ぎ、パスタを食べる合間に口をつけたが、日本では飲む人間の少ない無糖炭酸の発泡ミネラルウォーターの味に目を白黒させている


 真理は食事をしつつ、並べられた料理と隣に座る仁樹の姿を交互に見ていた。もう一口パスタを食べた真理は仁樹に話しかける。

「このパスタは仁樹さんが作ってくれたのですか?」

 仁樹は首を振りながら答えた

「ソースは自分で作りますが、パスタは知り合いのイタリア料理店の子に届けてもらっています」

 明瞭すぎて話の広げようのない返答に退屈を覚えたのか、それともそのイタリア料理店の子とかいうのに何かの感情を抱いたのか、ワインで感情の抑制が少し緩くなった真理は頬を膨らませた。

 まるが腰を浮かし、対面に座る仁樹に向かって体を伸ばす。さっき飲んだワインが今さら効いて来たらしく、無駄に大きな声を出した。

「もしもお兄ちゃんの、その、彼女になったら、こんなに美味しいスパゲティが食べられるの?」

 仁樹はパスタを食べる手を止めることなく答えた。

「そうだ」

 真理が何か言おうとしたが、それより先に舞が口を開く。

「あんた昔っからこんなのばっかり食べてんの?あんたホントに日本人?」

 普段は舞の挑発的な言葉には最低限の短い返答か、無反応無回答しか無かった仁樹は、舞の顔より自分の前に並ぶディナーを眺めながら言う。

「昔はあまりパスタを食べなかった」

 まるはパスタを食べていたフォークで仁樹を指しながら問う。普段なら真理に叱られる仕草だけど、今の真理はパスタを口に運びながら何か考え事をしているかのように天井を見ている。

「好きじゃなかったのに好きになったの」

 仁樹は顔を上げた。向かいの席に座る舞やまるじゃなく、その奥に停めたフェラーリを眺めながら言う。

「フェラーリの生まれた国の料理だ、嫌いになるわけがない」

 

 舞は顔を歪めながら口を挟んだ。

「女の好みに合わせる情け無い男みたいね。しかも相手は女じゃなくただの車だし」 

 真理はフォークを置いて、椅子ごと仁樹のほうを向いた。ワインの効果が妹たちよりも強く顕われたようで、潤んだ瞳をしている。

「仁樹さん、あなたがフェラーリを愛するように、あなたの愛を受ける女の方が羨ましいです。本当に、羨ましいです」

 皿に残った最後のパスタを食べようとした仁樹は、フォークを置いて真理に答える。

「俺には過ぎた言葉です」

 それだけ言ってパスタを食べ終えた仁樹は立ち上がった。三姉妹もパスタとカツレツ、サラダを食べつくしつつある。

「今コーヒーとデザートをお持ちします」

 仁樹はキッチンのエスプレッソマシンで淹れた四杯のコーヒーが乗った盆を持ってきた。

 彼自身と真理のためには砂糖の入っていないブラックのエスプレッソ。舞とまるにはカプチーノ。

 砂糖とクリーム、コーヒーに入れるグラッパ・ブランデーをテーブルに置いた仁樹は、続いて冷たい無花果の乗ったカットガラスの皿を持って来る。

 舞はカプチーノの甘さに文句を言いながら、まるは砂糖を入れ足したカプチーノを飲みながら無花果を摘む。

 真理は仁樹の許しを得てエスプレッソにグラッパを入れる。真理がグラッパの瓶を指しただけで仁樹は瓶を持って強い匂いのグラッパを真理のコーヒーカップに注いだ。

 仁樹は自分のエスプレッソには何も入れず飲んでいる。猫舌らしく少し口をつけてすぐカップをテーブルに置いた。

 

 コーヒーを飲み、デザートを食べた舞は席を立った。まるが「え?もう?」と言うので、わざとらしく時計を見ながら腕を持って立たせる。

「こいつの料理ゴッコに付き合って夜更かししちゃダメでしょ」

 真理は舞の目配せを無視して、テーブルの上で組んだ両手の上に顎を乗せながら、横で時間をかけてエスプレッソを飲んでいる仁樹を見る。

「仁樹さん、わたし少し飲みすぎてしまいました。これじゃ階段を昇れません。…だから…明日の朝まで昇らなくていいですか?」

 仁樹は飲みかけのエスプレッソをテーブルに置いて立ち上がる。

「俺が上まで運びます」

 真理はもっと酔いが回ったような感じでテーブルにしなだれかかりながら言った。

「仁樹さんにそこまでして頂けなくても、もっと近くまで運んでくれるだけでいいんです」

 そう言いながら真理はガレージの中に置かれたフェラーリを見る。視線の先にフェラーリの助手席があるのか、フェラーリの後ろに置かれたベッドがあるのかは、仁樹にも妹たちにも、真理自身にもわからなかった。

 仁樹が黙って両腕を出し、真理を抱え上げようとすると、舞が割って入る。

「真理姉何バカなこと言ってんのよ!まるももう帰るわよ!」

 ガレージ後ろの出入り口のドアを開け、真理とまるを追い立てる舞は、一度ガレージの外に出てから、開けっ放しのドアから顔だけを出す。

「その、えーと、ご馳走さま、パスタは美味しかったわよ」

 まだ猫舌の彼には熱いエスプレッソを飲みきれない様子でカップを持っていた仁樹は、舞を見て言った。

「そうか、それは良かった」

 おやすみなさいの言葉も無くガレージのドアが閉じられ、しばらく階段を昇るのをイヤがる真理とそれを引っ張る舞、もう一度降りようとするまると引き戻す舞の声が聞こえていたが、二階のドアが開閉される音と共に静かになった。

 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る