第8話 食前酒
三姉妹が都下の私立学園に入学してから数日が経った頃。
長女の真理、次女の舞、三女のまるは三人揃って地下のガレージに居た。
いつもならこのガレージでフェラーリと共に暮らす仁樹を交えて夕食のテーブルを囲んでいる時間。三姉妹はガレージの中央近くの普段は何も置かれないスペースに広げられたキャンプ用折りたたみテーブルを囲み、アルミのパイプチェアに座っていた。
日本の量販店では見かけない重くがっしりしたキャンプテーブルにはグリーンのクロスが掛けられ、テーブルの真ん中ではキャンドルの炎が点っている、
通常は天井一面の蛍光灯によって煌々と照らされたガレージは、暖色の間接照明による最低限の灯りがあるだけ。
そこが車庫であることを忘れそうになるたび、仄かな橙色に照らされたフェラーリが目に入る。
着席して待つ三姉妹は、各々違った格好をしていた。
長女の真理はこのガレージのライティングを予想したかのような白麻のエプロンドレス。次女の舞はデニムにスウェットシャツの普段の部屋着。末っ子のまるは少し露出過剰なタンクトップと外でははけないようなミニスカート。
白熱灯の橙色に青白い光が混じる。ガレージ隅の生活スペースにあるキッチンのカーテンが開けられた。ウールのズボンにボダンダウンシャツ、手織りのネクタイの上に濃いグリーンのエプロンを掛けたガレージの主が、ステンレス製のキャリーを転がしながら三姉妹の着席するテーブルに近づいてきた。
仁樹はそのまま何も言わず、テーブルに料理の乗った皿を置く。日本の豆腐サラダに近いモッツアレラチーズとレタスのサラダ、香草とレモン汁をふりかけた薄いカツレツ、そして女子の一人前にしては多めのトマトソースパスタ。
ビストロのウェイターのような流麗な仕草ではなく、機械の工具や部品を正しい位置に置くように無駄の無い手つきで、皿とフォーク、ナイフ、スプーンを並べた仁樹は、三姉妹の前に置かれたグラスに、エンジンにオイルを補給する時のように安定した注入量と速度でキャンティの赤ワインを注ぐ。
一人分の料理が置かれた真理の隣の空席にあるグラスにも、ワインの注ぎ方としては正しくないが機械を整備する人間が液体を扱う方法としては正しい手つきでワインを注いだ仁樹は、エプロンを外して空席に座る。
着席した仁樹は、まるで二人っきりでディナーの時間を過ごしているように、隣席の真理に体を向けて言う。
「どうぞ、俺のパスタを食べてください」
真理はグラスを持ち上げて言う。
「仁樹さん、わたしは幸せです」
そのままグラスを仁樹のほうに差し出す真理。仁樹は自然な仕草で自分のグラスを手に取る。二つのワイングラスが澄んだ音と共に衝突する。
向かいのテーブルからグラスを持った手が突き出された。
「お兄ちゃんわたしもカンパーイ!」
仁樹はまるが突き出したグラスの勢いを受け止めるように自分のグラスを当てる。真理もグラスを軽く当てながら言う。
「いい?ちょっとだけ飲んでヘンな味とか思ったらそこで止めるのよ?残りはお姉ちゃんが飲んであげるから」
まるは「わかってるよー」と言いながら少々はしたない仕草でグラスをくるくる回している。
舞は自分の前に置かれたグラスを手に取るか否か迷っている様子だったが、他の三人がグラスの中身を飲まないで待っている空気を察したのか、横を向いたままグラスを突き出す。
「未成年女子に酒飲ませるなんて、あんたホント最悪の同居人ね!」
仁樹は舞のグラスに自分のグラスを当てるが、横を向いたままの舞とタイミングがずれたらしく少し強めに当たり、ワインの赤い飛沫が飛び散る。
テーブルに降りかかったワインの一滴がキャンドルの炎に当たり、一度消えそうになった火は咳き込むようにもう一度点る。仁樹は舞とまるの背後、揺れる炎に照らされたフェラーリに見とれるような視線を送った。
炎とワインが作る静寂を打ち破るように、まるが舞のグラスに自分のグラスを当てる。真理も軽く当てて、それからワインを口に運んだ。
仁樹はワイングラス越しにフェラーリを眺め、赤い液体に浮かぶ赤いボディを飲み込むようにグラスを傾ける。キャンドルの炎でオレンジ色に光る空のグラスをもう一度フェラーリの前に翳した。美味くも不味くもなさそうな顔。
真理はキャンティの香りを楽しむようにワインをゆっくりと口中に染みこませている。
舞はグイっと一息で飲み、生まれて初めて飲む酒の刺激が思ったほどじゃないのに拍子抜けした顔。まるは一口飲んで苦そうな顔をしたが、無理するように何度かに分けて飲み込んでいる。
グラスをドンと置いたまるが言った。
「お兄ちゃん、食べていい?」
仁樹は自分のフォークを手に取りながら言う。
「いいぞ」
他の三人より時間をかけてワインを飲んでいた真理が、いつもの夕食より少し大きい声で言った。
「いただきます」
舞とまる、仁樹までもが声を揃えて「いただきます」と言った後、まるは早速コースのセオリーを無視してカツレツに挑み始めた。
真理は自分のフォークやナイフを取るより先にテーブル中央に置かれたグラスを手に取り、すでにグラスを空けた仁樹に言う。
「もう一杯いかがですか?」
仁樹は首を振りながら答えた。
「食後に頂きます。いつもそうしているので」
真理は微笑みながら残りのワインを飲んだ。サラダを食べ始めた仁樹は、真理のグラスが空になったタイミングで口を開く。
「ご自由にどうぞ。赤はキャンティ、白はフラスティカを用意しています」
少し顔を赤くして首を振る真理。まるが空のグラスを突き出して言う。
「おかわりー!」
恐々といった様子でパスタにフォークを伸ばしていた舞が言う。
「ダメに決まってるでしょ!こんな奴の前で酔っ払ったら何されるか」
そう言いながら舞はついさっき一気に飲み干したワインのグラスを仁樹の前にドンと置き、催促するようにグラスをトントンとテーブルに当てている。仁樹が全く意に介さずサラダを口に運んでるのを見た舞は、チッと舌打ちしてパスタをフォークに巻き、食べ始めた。
「面倒くさいわね!お箸は無いの?」
仁樹がサラダのモッツアレラチーズを食べながら、黙って背後にあるキッチン横のスチール棚を指す。立ち上がって箸を取りに行った舞は、席につくなりパスタを箸で摘み、少し品の無い音をたてながら頬張り始めた。
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