第7話 被写体
東京の学校に通うこととなった三姉妹の入学式を迎えた日。
以前からの習慣だった入学式の写真撮影は、それまで写真を撮っていた三姉妹の父に替わりカメラを手にした仁樹によって滞りなく行われ、長女の真理、次女の舞、三女のまるは準備を終え学校へ行くこととなった。
雑誌の仕事をしている時の技術で、完成度の高い写真を手っ取り早く撮ってくれた仁樹はといえば、朝食と撮影を終えるとさっさと自らの生活の場であるガレージへと降りていく。
ここから三姉妹が中等部、高等部、大学へと通う学園までは、自宅から五分ほど歩いた先にあるバス停からバスで一本。時刻表は先日すでに真理がバス会社のサイトからダウンロードし、遅刻することなく間に合う時間をチェック済みだった。
制服姿のまると舞、大学入学式のスーツ姿の真理は二階の玄関を出て、一階部分のガレージ横にある外階段を降りる。階段下には郵便受けと表札、インターホンが付いた門扉があり、門は豪邸というには小ぶりながら細部にまで金のかかった家に相応しい特注品。
門を出た先にはタイルを張られた敷地があって、そこには引越しの時に亡父の知り合いの中古車屋から借りたままのトヨタ・ダイナ四人乗りトラックが停めてある。
先頭を歩く舞は軽く舌打ちをした。借り物とはいえ自分たちの車が外で雨風に晒され、本来車を停めるスペースである一階のガレージには得体の知れない男が居座っている。
トラックの横から外の道路に出た舞に続いてまるが出てくる。舞と同じようにガレージに顔を向けたまるは、耳に手を当てながら言う。
「フェラーリの音が聞こえる」
その音はシャッター越しに舞にも聞こえた。思い出深いパパのフェラーリ。知らない誰かが好き勝手に乗り回してるフェラーリ。
電動シャッターがカキンと音を発て、開き始める。
最後に戸締りをしていた真理がトラックの横から出てきた。ガレージのシャッターが開き、中でフェラーリが動き出すのを見て、フェラーリの邪魔にならないよう後ろに下がる。
フェラーリ288GTOがガレージから出てくる。当然乗っているのは仁樹。真理はガレージ前のほとんど車通りの無い道路で一度停まったフェラーリの左横へと寄っていく。
「お出かけですか?」
フェラーリのエンジン音と、相手が車内であることを考慮して大きめの声で聞く真理。仁樹は彼女に不要な大声を出させることを恥じるように、すぐにパワーウインドを下ろし、返答する。
「走りに行きます」
真理の横に舞がやってきた。近隣の高校生が憧れるお嬢さま学園の制服に似合わぬ、険悪な目つきで仁樹を睨みつけた。
「わたしたちが学校行こうって時にボクちゃんはブーブーで遊んでくるんだー?」
仁樹は舞を見た。無感情というより、相手が何を言っているのかわからない顔。すぐに前方に視線を戻す。自分とは関係のない物体の、係わりのない行動と判断した様子。
仁樹の反応に余計腹の立った舞がまた何か攻撃的な言葉をぶつけようとするのを、真理は止めようとしたが、それより先にまるが「どーん!」という言葉と共に舞の体に体当たりする。
まるよりだいぶ背が高く手足の太い舞も、不意打ちによろめいて思わず立ち位置をずらす。仁樹の真ん前の特等席を舞から強引に奪い取ったまるは、屈んでフェラーリのドアに掴まりながら、仁樹に言った。
「いーなー、お兄ちゃん走りに行くんだー?いーなー、一緒に連れてって」
仁樹はまるの顔をまっすぐ見る。真理に対しては常に特別な応対をする仁樹は、まるの言葉にも最低限の返答ながら必ず答える。舞の時は答えたり答えなかったり。
「危険だ」
それでも渋ってフェラーリから離れようとしないまる。仁樹はフェラーリのドア上端を掴んでいるまるの手を見て、それから舞を一瞬見た後、真理を見て言った。
「写真を撮らせてもらえますか?フェラーリと一緒に」
真理はしばらくキョトンとしていたが、すぐに満面の笑みを浮かべながら答える。
「喜んで!」
仁樹は軽く頷き、広い道路の端に停めたフェラーリを降りた。門扉の前にあるタイル貼りスペースの横、ガレージに人間が出入りするためのスチールドアを開け、中に入った仁樹は、すぐにデジタル一眼レフのカメラを持ってきた。
真理は少し赤くなって頬に両手を当てながら言う
「仁樹さんの大切なフェラーリと一緒に撮ってもらえるなんて、わたしとっても嬉しいです」
手早く撮影準備を終えた仁樹は、真理の腰に手を添えてフェラーリのドア前まで連れて行く。
ついさっき真理に頼まれ、ポラロイドで入学の記念写真を撮った時は、テープを貼った場所に立たせてさっさと撮影を終えた仁樹は、自分の手で慎重に真理の位置を調整している。真理は体に触れられるたび、上品な笑顔がどんどんだらしない顔になっていく。
「両手はフェラーリのドアに、目線は左、フェラーリの進行方向へ、表情と細かいポーズはお任せします」
さっきよりずっと丁寧な指示を行い、何度かポーズを変えて撮影した仁樹。デジカメのモニターに表示されたピクチャーファイルを見ていた彼は、頬を寄せて一緒に見ていた真理に頭を下げる。
「感謝します。あなたはフェラーリと並ぶに相応しい美しい人です」
仁樹の言葉を聞いた真理は雷に打たれたように体を震わせ、足をふらつかせ真っ赤になった顔を舞の肩に預ける。
「舞ちゃ~ん、お姉ちゃん今日入学式休む~。今日はすっごく幸せなことがあったから、一日中噛みしめてたい」
舞は腰砕けになった姉の背を叩く。
「何言ってんの真理姉ぇ入学式出なきゃダメでしょ!こんな奴の遊びにいちいち付き合ってたらバス遅れちゃうよ!」
とろんとした目で「…仁樹…さぁん…」と言いながらまだ足元が定まらない様子の真理と、彼女を何とか歩かせようとしている舞。そんな姉二人とデジカメを片付けようとする仁樹の間に、まるが割って入った。
「お兄ちゃんズルい!まるも撮って!」
仁樹はまるの姿とフェラーリをしばらく見比べていたが、ひとつ頷いて言った。
「構わない」
まるはフェラーリの後ろに連れていかれる。自動車関連のフォトグラファーやイラストレーターが、フェラーリ288GTOの最もセクシーな構図として好んでいる、真後ろからの姿。
まるには真理ほど丁寧なエスコートはせず、撮影位置に連れていかれただけだったが、まるは勝手に色々なポーズを取る。
「フェラーリよりわたしのほうがセクシーでしょ~?」
仁樹はスカートの短い制服でヒップを突き出しているまるに一言
「いいぞ」
仁樹はフェラーリとまる、二つのお尻にカメラを向け、さっきポラロイドで三枚だけの写真を撮った時よりもずっと多くの枚数を撮った。
たっぷり写真を撮って貰い、満足げな様子のまるは、姉の舞を見る。
「わたしはイヤだからね!さっきはウチの決め事だからしょうがなく撮らせてやったけど、こいつの趣味で撮られるのなんて絶対イヤ」
仁樹は黙って頷く。カメラをケースに戻そうとする時に一言呟いた。
「残念だな」
姉の真理と妹のまるが、舞の仁樹への礼を失した態度に抗議するような目を向ける。二人から目をそらした舞は、ポケットから携帯を取り出して時間を見た。
「な、なんだバスが来るまでまだ時間があるじゃない!真理姉ぇやまるがそんなに言うなら、暇つぶしにモデルの真似事くらいしてやってもいいわよ、どうせゴッコ遊びなんだからカメラはこいつで充分だし!」
デジカメを片付けていた仁樹が顔を上げた、特に喜びも面倒くささも感じてない表情のまま言う。
「じゃあ、撮ろう」
仁樹はフェラーリの周りを回りながら言う
「今度はフロントからがいいか」
仁樹がここに座れとでも言うようにフェラーリのフロントフード、ちょうどフェラーリ社の跳ね馬のエンブレムがある場所を指す。
命令するかのような仕草に腹立たしくなった舞は、この男へのイヤがらせを思いついた。
舞は仁樹を押しのけるようにフェラーリの左側に回り、そのままドアを開けて運転席に乗り込んだ。
1980年代フェラーリ特有の革と耐熱繊維のハンモックシート。父のドライブで何度も助手席に乗せてもらったフェラーリだけど、今の舞には思い出よりも目の前の仁樹という男への攻撃心のほうが強い。
仁樹を挑発するようにステアリングやシフトレバーをいじくりまわす舞。仁樹は舞を止めるでもなく不快を表すでもなく、どちらかというと興味深げな表情をした。
仁樹は腰を落としてカメラを構え、開け放たれたドアの奥、高校の制服姿で運転席に座る舞を撮り始める。自称身長百六十九cm、百七十cmを越えた数値を出した時はいつも身長計が壊れていると言い張る舞は、フェラーリのシートに収まっていても違和感の無い体格。
「両足を外に出してくれ」
舞はいつのまにか仁樹の言う通り、片手をステアリングにかけながら制服の両足を揃え、爪先を地面につけていた。目線はカメラかフェラーリの進行方向か、それとも、今わたしを撮ってる…と思ったあたりで我に返り、仁樹に毒ずく。
「何ヘンな格好させてんのよ!パンツとか映ってないでしょうね!あんたにいちいちポーズ指示されたくないし!」
そう言いながら一度地につけた足を車内に戻し、アクセルとクラッチを踏む舞。ステアリングを両手で握った彼女は仁樹に言った。
「その、笑顔とかのほうがいいの?さっさと撮り終えちゃったほうがいいでしょ!」
仁樹は真理やまるよりも多くの枚数を撮りながら言う。
「そのままで、いつもの顔でいい。いつも俺に向ける、フェラーリで前を走る車を追うような目で」
何をわけのわからない事を、と思いながらも、舞はドライヴィングポーズを取りつつ前方に鋭い目を向ける。自分は彼の前でいつもこんな怖い顔をしてたのか?それで彼が威圧を覚えていたのならしめたものだけど、もし、もし彼がこんな目をする私に興味を持っていたなら。
舞の目つきが少し変わった。横目でチラっと仁樹を見る。
「終わった。いい写真が撮れたと思う」
仁樹は構えていたデジカメを下ろし、舞に手を差し出した。
握手の積もりか、ちょっとでも仲良くなったとでも思ってるんだろうかと思い、舞はその手を払い、フェラーリを降りようとしたが、普通の車より着座位置がずっと低いフェラーリ。足の位置を間違えたらしくそのままシートに尻もちをついた。スカートがまくれ上がる。
被写体の舞より撮影する仁樹の姿を熱心に見ていたまるが、横目で舞を見てプププと笑いながら言った。
「高校生にもなってピンクの無地とか」
仁樹は単に女性の乗り降りには手を貸すのがマナーといわれているフェラーリの流儀に従っただけだった。自分の勘違いと見られたら恥ずかしいものを見せてしまった二重の恥ずかしさで、思わず仁樹に平手打ちでもしたくなったが、彼はフェラーリを降りた舞には何一つ興味を示さずデジカメをケースにしまっている。
撮影を終えた舞は、まだ夢見心地でぽわぽわしている姉の真理と、妹のまるを引っ張ってバス停への道を歩き出した。
途中で仁樹が乗ったフェラーリが高く澄んだエンジン音を発しながら通り過ぎていった。まるは手を振っている。真理も精神年齢がまると同じになったような顔で、真似っ子して一緒にバイバイしている。
バス停へと急ぐ舞は視線すら向けることは無かったが、遠くへ消えていくフェラーリの音を耳で追っていた。
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