第5話 卵とソーセージ

 三姉妹が東京郊外の一軒家に越してきて何度目かの朝。

 ガレージに暮らす奇妙な男、羅宇屋仁樹との暮らしが始まってから数日経つが、三姉妹と仁樹との交流はそれほど多くなかった。

 長女の真理は彼が毎日の食卓を三姉妹と共にすることを望み、御殿場のマンションで三人分の食事を作っていた頃より張り切って料理をしていたが、三姉妹と顔を突き合わせたのは初日だけ。

 翌日以降、仁樹とフェラーリはほとんどガレージに居なかった。

 時々、不定期にフェラーリが階下のガレージに出入りする音が聞こえてくるが、すぐにフェラーリはガレージで独特のエンジン音を発し、走り去って行く。 

 次女の舞は三姉妹の暮らしを脅かす男が、今のところ干渉してこないのに一安心していた。初対面で仁樹に懐いた末っ子のまるは、せっかく一緒に暮らすことになった仁樹と遊べないのが不満で、姉より鋭い聴覚でフェラーリが帰ってきていることに気付き階下のガレージに行こうとしたが、彼について妹たち以上のことを知っているらしき真理に、夕べも遅くまで出かけていてお疲れだから、邪魔しちゃダメと止められている。


 三姉妹は受験勉強をしてた時の習慣で、春休み中も寝坊せず三人で朝食を取ることになっていた。

 早起きの舞が一番最初に目覚め、日課のジョギングに出る。その後で真理が起きて朝食の準備を始める。御殿場で暮らしていた時はこれに三人分のお弁当の用意が加わる。

 舞がジョギングから帰り、朝食の準備も出来た頃に、寝起きの悪い末っ子のまるを二人がかりで起こすのが、三姉妹のいつもの朝。

 真理が作っていた朝食は、目玉焼きとソーセージ、トースト、サラダ、フルーツジュースとコーヒー。洋風の朝食を好む舞と、朝は和風が好きな真理とまる、人数の比率通り和食のほうが多い。 

 今朝の真理は洋風のブレックファストをうきうきした様子で作っていた。

 キッチンの狭い御殿場のマンションから、広く明るいシステムキッチンの整ったこの家に引っ越してから、真理は料理をするのが楽しそうだけど、今朝は特に浮かれているように見える。

 まるがやっと眠そうな目をこすりながら起きてきた頃、朝食の準備を終えつつあった真理は言った。

「舞ちゃん、そろそろ朝食だから仁樹さんをお呼びして」

 真理の夕べ比較的早い時間に仁樹がガレージに帰ってきたことを知っていた。掃除の用にかこつけて階下まで見に行ったところ、帰ってすぐに寝た様子。彼を雇っている出版会社に連絡までして、彼が現在のところ切迫した仕事を抱えていない事を確認した真理は、今朝こそ仁樹を朝食に誘えると思い、張り切って準備をしていた。


 舞はあからさまに抗議した。

「なんであんな奴をウチに入れなきゃならないの?その上ご飯まで恵んであげるなんて!」

 まるも不満そうな様子。

「お兄ちゃんはわたしが起こしに行くの!舞姉ぇじゃやさしく起こしてあげられないよ」

 真理はまるの格好を見て言う。

「まるちゃんは仁樹さんにそんな見苦しい格好をお見せするの?」

 まるは自分の姿を見て赤面した。起きたままのパジャマ姿で、ふんわりとした髪はまだボサボサのまま。

 一方、舞はジョギングを終えてシャワーを浴び、部屋着のジーンズとニットに着替えていた。長い髪も乾いていて黒い艶を見せている。

 真理は舞よりも気合いを入れた様子で、地味で清楚ながら舞の記憶では5~6万円する麻のワンピースの上にエプロンを着けている。丁寧に整えられたセミロングの髪。家ではしたことのないナチュラルメイクまで施した顔の真理は舞に手を合わせる。

「お願い舞ちゃん、お姉ちゃん今は手を離せないの、仁樹さんには出来たてを食べてほしいし」

 昔から姉のお願いには逆らえない舞は、ぶちぶち文句を言いながらリビングを出た。

 こっちは家の主で、向こうは勝手に居座ってる男、何も恐れることはないと言い聞かせつつ階段を降りた舞は、ガレージのドアを開けた。


 目に入るのは家のどの部屋よりも広い空間。それがまた憎たらしい。舞はあの男を追い出したらこのスペースを何に使おうか考えながらガレージに入る。

 大型車四台分の空間。右手は生活スペースで、バスルームやワードローブ、デスクがある。左手の半分を占めるのはフェラーリのための場所で、整備区画と駐車場。

 舞は真っ赤なフェラーリ288GTOを横目で見ながら、パパとの思い出の残る車でなければ蹴りでも入れてたとこだと思った。

 初日にここに来た記憶では、フェラーリを停めているスペースとガレージ奥の壁、その隙間にベッドが置かれている。

 油臭く排気臭い車が目の前にあって良く寝られるものだと思いながら、舞は左手のベッドスペースを見た。このベッドを蹴って男を叩き起こし、朝食を食べさせてやることだけ伝えれば姉から言い付かった仕事は終わり。

 フェラーリと壁の隙間を見ると、やはり彼は手製らしきパイプベッドで眠っていた。剃りあげたスキンヘッドの頭。色白ではないが日焼けとも異なる、どこか日本人離れした象牙色の肌。中背で年齢不詳な容貌ながら、ほとんど脂肪の無い少年のような体。

 階下のガレージに舞の悲鳴が響き渡った。

 ベッドの上で腹に毛布を掛けただけの姿のまま眠る仁樹は、素っ裸だった。


 下から聞こえた舞の金切り声に、真理とまるが何事かと階段を下りてきた。

 舞は階段の一番下。ガレージ出入り口前のスペースで腰をぬかしたような格好のまま座りこんでいる。

 三姉妹の喧騒に目を覚ましたらしき仁樹はベッドから起き上がった。裸のまま何も隠すことなく、朝から騒がしい三姉妹を不思議そうに見ている。

 一糸まとわず、という訳ではなく、左手首にはブルガリのプラチナ張りクロノグラフを身につけている。

 舞はショックで声も出ない様子。真理は「まぁ!」と言いつつ末っ子のまるの目を隠そうとしたが、まるは仁樹の裸より自分のパジャマ姿を恥ずかしがり、いやんと言って体を隠す。

 裸にクロノグラフ一つのまま長女の真理と向かい合った仁樹は、寝起きとは思えないほど明瞭な声を出す。

「何か用ですか」

 真理は赤面して仁樹から目をそらしながら言う。

「あの、大変失礼しました。朝食の準備が出来たので、よろしければ仁樹さんも一緒にと思いまして」

 仁樹は現在の風体に似合いの、一切の無駄や飾りの無い回答をする。何も付け加えぬ様が逆に異様なのは言葉も裸体も同じ。

「わかりました」

 それだけ言うと裸のままのガレージの中を歩き、生活スペースに架けてあったグリーンの整備用ツナギを手に取る。

 さっきまで仁樹を見ないようにしていた真理は、彼が背を向けると、その姿、特にアフリカ系の男性を思わせるひき締った尻を目と記憶に焼き付けるように注視している。


 姉と妹が来たことで、幾らか落ち着きを取り戻した様子の舞が、仁樹を指差して叫ぶ。

「あ、あ、あんたなんで裸なのよ!なんで裸で寝てんのよ!」

 素肌の上からツナギに袖を通していた仁樹が、背を向けたまま答える。

「ずっとそうしている」

 ツナギ越しの体のラインを見ていた真理が手を口に当てて笑いながら言う。

「父も昔そうだったと聞きました」

 まるは仁樹よりも姉の舞を見ていた。

「びっくりした!舞姉ぇが寝ているお兄ちゃんに何かヘンな事したのかと思った、そんなのゆるさないからね」

「変な事って何よ!」

 真理は騒がしい妹二人を階段へと追い立てながら、仁樹に言った。

「よろしければ、明日からはわたしが起こしにうかがいます」

 相変わらず真理の言葉にだけは丁寧な反応を見せる仁樹。ブルガリのクロノグラフを横目で見ながらすぐに返答する。

「時間を教えてもらえれば俺から行きます」

 真理は少し無理して伸ばしたワンピースの袖で顔を半分隠し、ダダをこねるように体を左右に捩じらせながら、上目遣いに仁樹を見る。

「どうしても来ちゃダメ?」

 舞とまるは顔を見合わせる。父を失ってから誰に対しても凛とした態度だった真理が甘えた声を出すのは初めて。

 妹たちの正直な感想としては、どう見ても姉の性格に似合わぬ、あざとい仕草への違和感しか無い。

 

 仁樹は相変わらず感情の窺えない目で言った。

「お任せします。今日の朝食はシャワーを浴びてから」

 それだけ言って一度着たツナギを脱ごうとする仁樹。一応は女子に裸を見せまいとする、形だけの配慮をしていたらしい。

 真理は下ろされるツナギのジッパーに視線を同調させながら言った。

「お気になさらず、ここで見て、じゃなくて待っていますので!」

 まるはガレージの整備区画に置かれていたタオルを手に取って言う。

「お兄ちゃん!わたしが拭いてあげる!大丈夫だから、まるは舞姉ぇみたいにお兄ちゃんのこと、いやらしい目で見たりしないから!」

 これ以上ここに居たくなかった舞は、姉と妹を力づくで引っ張り、階段を登った。


 数分後。三姉妹と仁樹は朝食のテーブルを囲んでいた。

 仁樹は緑色の整備用ツナギ服姿。夕食の招待を受けた時はネクタイを締めていたが、朝食の席にはカジュアルな格好。そんな些細なルールも三姉妹の父親と同じ。ツナギは実際に整備に使っている作業服ではないらしく、小奇麗で油染み一つない。

 舞は図々しく三人の食卓に居座るスキンヘッドの男と、真理が彼にリクエストを聞き、その通りに焼き上げた卵とソーセージを交互に見ながら漏らした。

「もうヤダ…」 

 姉妹三人の暮らしへの侵入者が起こす騒動に嫌気の差した舞の唯一の救いは、真理に朝食の好みを聞かれた仁樹が洋風の朝食を希望したことで、朝食における和式と洋式の人数比が、父の生きていた頃と同じ二対二になったことだった。

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